「シェリア、やっぱりわたしじゃだめだよ」
「……もう、しょうがないんだから」
 シェリアは溜息をつきながら立ち上がり、ちらりと時計を見た。
 ちょっと仮眠を取るから1時間したら起こしてくれないか、とアスベルが足取りも危うく自室に篭って、もう1時間半経っている。数十分前にソフィに起こしに行かせたのだが、話を聞くところによると「あと5分」と繰り返すばかりで全く覚醒する気配がないらしい。
(領主様が聞いて呆れるわね)
 若き領主であり幼なじみである彼が毎晩遅くまで頑張っているのを目にしているから、疲れているというのは充分理解している。けれど、確か今日はこれからいくつかの予定が入っていたはずだ。せっかくだから寝かせてあげたいところだが、領民の前に寝ぼけたまま面会する領主というものも締まらない。

 シェリアは扉の前でひとつ、深呼吸した。彼の部屋に足を踏み入れるのは何もこれが初めてじゃないのだけれど、何となく、ひとかけらの勇気が必要になってしまう。
「アスベル、もう時間よ。起きてる?」
 コンコン、と控えめに彼の部屋の扉を叩いて声をかける。が、返事はない。思ったとおり、まだ寝ているみたいだ。全く、こういうところはいつまでも子供なんだから。
「……もう、入るわよ」
 そっと、なるべく音を立てないようにノブを回したのは、部屋の主に配慮したわけではない。彼の領域に入る、ただそれだけのことでこんなにもどきどきする自分の心臓を、驚かせないようにするためだ。

 案の定、アスベルはベッドの上で仰向けになってぐっすりと眠り込んでいた。
 よっぽど疲れているのだろう。すやすやと規則正しい寝息を立てて、扉を閉める音にも、シェリアが近づいてくる気配にも反応せず、身じろぎひとつもしない。
「アスベル」
 もういい加減に起きなさい、と続けようとした声は、喉の奥でつっかえてしまう。
 彼は実に気持ち良さそうに眠っている。アスベルの寝顔は、普段よりもずっと幼く見えて、なんというか、少し子供っぽい。小さな頃のアスベルの面影を残したようなあどけなさに、シェリアは思わずちいさく笑った。
 近くに寄って、そっと顔を覗き込む。赤みがかった茶色の髪が、さらりとわずかに揺れた。閉じた瞼も、すっとした輪郭も大人になったアスベルなのに、眠りの世界に身を投じてベッドに身体を投げ出すアスベルの、安心しきった表情だけが子供のようだった。なんだか可笑しい。だってこんなにちぐはぐなのに、それらはぴたりと合わさって、違和感なくアスベルの表情を作り上げている。
 シェリアはなんとなく、童心に返った気分でアスベルの頬に触れた。
(子供の頃、珍しく風邪を引いて寝込んだアスベルのお見舞いに行った時も、確かこんなことをしたかしら)

 いつも元気に走り回っているアスベルは、ベッドの中で苦しそうに、静かに寝ていた。それでもシェリアやヒューバートの顔を見ると跳ね起きて、いつもの笑顔でいつものように話しかけてきたのだ。
「なんだヒューバート、それにシェリアも来てたのか」
「兄さん、起き上がって大丈夫なの?」
「だってつまんねーんだもん。そうだ、何かして遊ばないか?寝てばっかりで退屈なんだ」
 そう言って目を輝かせるアスベルにシェリアはむかっとした。病気の時には無理をしてはいけないとあの頃のシェリアは身を持って知っていた。だから、
「大人しく寝ていなきゃだめでしょ!」
 と大声を上げて、ついでに頬をつねってやったのだ。

(懐かしいな)
 あの頃は近くの川で遊びまわったり、冬でも遅くまで出歩いていたから、シェリアやヒューバートのどちらかが具合を悪くしてベッドに縛りつけにされることが多かった。だからよく、お互いの部屋にお見舞いに行ったものだ。そういえば、あの時はもっと気軽だった。この部屋に入るのも、こうして彼の頬に触れるのも。
 シェリアは両手で彼の頬を包み込む。今は昔ほど気軽にはできなくなってしまった行為も、こうして彼の知らないところでなら簡単にできてしまう。今なら、昔散々やられてきたことをやり返すチャンスなのかもしれない。シェリアは急にむくむくと湧いてきた悪戯心を抑えきれず、子供の頃よくされたように頬を軽くつねってみた。
「ふふ、変な顔」
 堪えきれずに笑う。
 と、急にその腕を強く引っ張られて悪戯が中断させられた。
「……誰が変な顔だって?」
「ア、アスベル! 起きてたの?」
「そりゃ、誰かさんに顔をぺたぺた触られたら嫌でも起きるさ」
「何、何なのそれ、いつから起きてたのよ!」
 シェリアは悪戯が見つかってしまったことよりも、頬を撫でていたことをアスベルに認識されたことや、今更ながら自分が随分大胆な行動をしていたことに気付いて軽いパニック状態に陥っていた。こんなのってないわ、ずるい。起きた時にすぐ言ってくれたら良かったのに!
 赤くなったり青くなったりと繰り返しながら慌てるシェリアを、アスベルはあくびをかみ殺しながらのんびりと見物している。腕は掴まれたままで、自由もきかない。穴があったら入りたい。ついでに頑丈な蓋をして鍵をかけたい。パスカル辺りなら頼んだら作ってくれるかもしれないわ、そういうの。
 異様な状況で変な方へ思考が逸れているのにも気付かず、シェリアは至近距離でアスベルのきれいなオッド・アイを見つめることしかできない。もう色々といっぱいいっぱいな状況で、シェリアはアスベルの顔がそっと近づいてくることを頭の隅でなんとか認識していた。……あんまり近づいたらお互いの鼻先がぶつかりそう。あれ、アスベルって、意外と睫が長いのね。

(……あ)

 ふれた。

 頭の中にぽつんと浮かんだ言葉がそれだった。
 まるで子供の戯れのような一瞬の接触にわけもわからずぽかんとしていると、アスベルは悪戯が成功したとでも言うようににかりと笑ってみせる。
「よし、起きた。ありがとう、シェリア」
「え? ……あ、うん。どういたしまして……?」
 ぱっと掴んでいた手を離し、さっきまでまどろんでいたのが嘘みたいにきびきびと起き上がるアスベルに、ますます頭は混乱してくる。つい数分前までぐっすり眠っていて、でも頬を触り始めた頃には起きていて、今は起き抜けとは思えないようなしっかりとした動作で、でも寝起きのアスベルはいつもぼんやりしていて――
 なんとか思考を整理しようと唸っていたシェリアの耳に、タイミング良くノックの音が届く。
「シェリアー、アスベル起きた?」
 ソフィの声だ。なかなか戻ってこないシェリアを心配して来たのだろう。
 一瞬反応が遅れて扉の方をのろのろと見ると、既に上着を着込んで寝癖を軽く整えたアスベルとばっちり目が合ってしまった。
「俺は起きたよ、ソフィ。起こしてくれてありがとうな」
 アスベルの楽しそうな声に、シェリアは気が付いてしまった。
 ソフィが起こしに来たことをちゃんと覚えてる。あんなに寝起きの悪いアスベルが。それってつまり。
「最初っから起きてたの? しんっじられない!」
「あ、もうばれた」
「だったら早く起きてきなさいよばか!」
「いいだろ、眠かったのも事実なんだし」
「良くないわよばかあ!」
 ばしばしと背中を叩かれているにも関わらず、アスベルは可笑しくてたまらないというように笑いながら自室の扉を開け、歩き始めた。
 幼なじみと戯れながら執務室へ向かうラント領主の表情は心底楽しそうだったと、後に邸に仕えるメイドは語っている。



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