「何ですか、これは」
 ヒューバートはほとんど無意識のうちに眼鏡を押さえて、唸った。久方ぶりに数日間の休暇をとって故郷に帰ってきたのだが、果たして自分の知っているラント邸はこんな場所だったのかと一瞬目を疑う。何しろ、廊下や階段、壁に至るまで、屋敷中が色とりどりの花に飾られているのである。あらゆる花の香りが玄関先にいても届き、花粉症の人間にとっては地獄になるんじゃないかとどうでもいいことまで思考が逸れてしまった。
「お帰りなさいませ、ヒューバート様」
「あ、ヒューバート、おかえり」
 丁度良いタイミングで客室から出てきたフレデリックとソフィに出迎えられ、ヒューバートはただいまを言う前にまずこの状況を問おうと息を吸い――盛大にむせた。
「ああ、大丈夫ですか」
「ヒューバート、風邪?」
「っ、風邪ではないですが大丈夫でもないです。そんなことより、何ですかこの内装は!花を飾るのはいいですがあまりにもいきすぎです!それに香りが強い花が何種類もあって、むせかえるというよりむしろむせます。一体誰の発案でこんなことを」
「……あのね、それ、わたしなの」
 そのまま放っておけばいつまでも言葉を探し出してきそうなヒューバートの口は、大きく開かれたままぴたりと止まった。ソフィはフレデリックをちらと伺うと、ヒューバートの袖を軽く掴んでしょんぼりと眉を下げる。
「えっと、今日ヒューバートが帰ってくるって聞いてたから、何かしたいなって思って。考えたんだけど、アスベルは何も思いつかないって言うし、シェリアは今いないし。それでね、お花をいっぱいにしたら喜ぶんじゃないかって、リチャードが」
「陛下が?」
「うん。昨日来たんだけど、今日帰っちゃうの。リチャード、忙しいんだって」
「……今日帰る。ということは、まだいらっしゃるんですよね」
「うん」

 ヒューバートが足音も高く客間へ向かうのと、その客間の扉が開かれるのにほとんど時差はなかった。狙っていたのではないかというタイミングで出てきたのは、ラントの現領主でありヒューバートの兄でもあるアスベルだった。
「あれ、ヒューバート帰ってきてたんだな」
「リチャード陛下は!そこにいらっしゃるんですか!」
「え、いるけど……どうしたんだ、そんなに慌てて」
 呑気な兄のへらりとした笑顔になんとなくイラついてしまう。今は久しぶりの再会に喜ぶ場合ではないのだ。ラント邸を丸々こんな悪趣味な――いや、ファンシーで巨大なフラワーアレンジメントにしてしまった犯人に一言申し上げなければ気がすまない。例えそれが一国の王であっても、だ。
 ぱたぱたと追いついてきたソフィに再び袖を掴まれる。ちらと彼女を見下ろすと、さっきと同じようにすっかりしょげてしまっているようだった。
「ここにいるよ、ヒューバート」
「陛下っ!」
 リチャードの声が聞こえてアスベルを半ば突き飛ばすようにして部屋に転がり込むと、ヒューバートは目の前の光景に今度は絶句した。
 リチャード陛下は確かにそこにいらっしゃった。部屋の中央部にしつらえてあるテーブルで優雅にティータイムを楽しんでいたらしい。洗練された動作でカップを手に取り、音も立てずに一口啜る様はまさしく王族に相応しい。
 そのテーブルに載せられたティーセットが母が大切にしていた磁器だと気付くよりも先に、テーブルの真ん中を占拠している籠に目が行く。その中にもたっぷりと花が詰められていると認識した時は眩暈さえ感じた。
 勿論そればかりでなく、ベッドサイドも、ビューロも、窓辺も、壁も、挙句の果てには床にまで、どこに視線を逸らしたって花が見えない場所などないのではないかと思えるほどだ。恐らくこの部屋は今、邸内のどこよりもファンシーなのではないだろうか。他の部屋は見ていないのだが、根拠もなく断言できる。自室がどうなっているかは、この際考えない事にしておいた。
「気に入ってくれたかい?」
 リチャードは優雅に足を組み替え、呆然とするヒューバートに悪戯っぽい笑みを向ける。
「気に入るも何も……失礼を承知で申し上げます、陛下」
「何だい?」
「これはいくらなんでもやりすぎです」
「そうかな」
「そうですよ!……兄さんも!どうして止めなかったんですか?」
「えっ、俺?いや、だってなあ、別に悪いことでもないと思うし」
「どこがですか!」
 バラ、ユリ、ローズマリー、ラベンダー、カラー、デイジー、アネモネ、カメリア。名前も思い出すのが面倒になるくらいの数に辟易する。季節感もまるでない。一つ一つはいい香りだとしても、これでは互いを殺しあってしまうんじゃないだろうか。ヒューバートは呆れを通り越して苛立ちさえ覚えてきた。世界も随分良い方へと向かっているのは確かだ。だがこれはどうなんだ、平和すぎる。平和ボケというべきか。花だってタダじゃない。こんなに大量に、一体どこから。金の無駄遣いだとは思わないんですか。
 思考が追いつかずにわなわなと唇を震わせていると、それまで黙っていたソフィが今度はぎゅっと手を握りしめ、ヒューバートをせいいっぱい見上げた。
「ごめんなさい、ヒューバート」
「……ソフィ?」
「全部わたしのわがままなの。この間リチャードと会った時、花のお話をしたんだよ。花壇や、あのお花畑に咲いている花を摘んで、花の冠や指輪や、きれいな花束をたくさん作りたいね、って。わたしもすごく素敵だなって思ったの。だからね、リチャードが悪いんじゃないんだよ。わたしがアスベルとリチャードにお願いして、たくさんの花を用意してもらったの」
 大きなラベンダー色の瞳がほんの少し潤んでいるのを見てしまい、ヒューバートはすっと頭が冷えていく心地がした。対応に困ってリチャードやアスベルを見ると、彼らはにっこりと笑うだけで何もしてくれやしない。
「ヒューバート、ごめんなさい。嫌なことして、ごめんなさい」
 そう言ったきり、ソフィは俯いてしまった。ソフィの声は、今にも泣いてしまうのではないかと思ってしまうほどに細かった。本当に泣かせてしまっては、兄やこの国の王にとてつもなくぼっこぼこにされてしまうだろう。それに、ヒューバート自身も、大事な友人で妹のような存在の彼女を悲しませるようなことは、絶対にしたくはない。
 全く、自分はこんなに甘い人間だっただろうか。
 ヒューバートは溜息を一つつくと、俯いたままのソフィの頭に触れた。
「ソフィ、顔を上げてください」
 返事の代わりに、ぎゅう、と手に力が込められる。少しどころか結構痛い。こういう時ばかりは加減はしてくれたっていいと思うのだが。
「別に、嫌だったわけじゃないんですよ。ただ何と言うか……あまりにも大規模すぎて、ちょっと腰が引けただけなんです」
「……本当?」
「ええ」
「嫌じゃなかった?」
「ソフィがしてくれたことですから」
 本心からそう言うと、ソフィはぱっと顔を上げた。
 もうさっきまで見せていた表情は消えていて、内心ほっとする。頭をぽんと撫でてやると、ようやく彼女は微笑んだ。
「ヒューバートが怒ってなくて良かった。ね、アスベル。リチャード」
「そうだな。喜んでくれたみたいだし」
「僕達も嬉しいよ」
「あなた達はもっと反省してください!」
 恐らく半ば楽しんで屋敷を花に埋没させたであろう張本人達を睨むが、全く堪えていないどころか声を上げて笑われた。後でこっそりソフィに、誰がこのやりすぎな花畑を作り出したのか尋ねよう。恐らく原因はほとんどリチャードなのだろうけれど。
(ついでに、自室もあとで確認しなければ……)
 色々と思い出が詰まったあの部屋まで花に埋もれているのかもしれないと思うとぞっとするが、心の底から嫌だと思っていないあたり、自分も相当甘い人間なんだろうか。

(これだからラントには滅多に帰れないんですよ)
 生まれ育った街や、屋敷や、常にあたたかく迎えてくれる兄やソフィがいる。それらは、ヒューバートがオズウェル家にいる間に作り出した氷の壁を、いともたやすく溶かしてしまうのだ。そんな心地良くもくすぐったい場所に頻繁に帰ってしまっては、ストラタ軍少佐としての顔が二度と作れなくなってしまうかもしれない。

「ああそうだ、言い忘れてた」
 アスベルが改まってこちらに向き直る。リチャードも立ち上がると、二人は何かを確認するようにちらりと顔を見合わせて、同時に口を開いた。
「おかえり、ヒューバート」
 むせかえるような花の香りが、部屋中を包み込んでいる。そのせいかもしれない。ヒューバートは少し喉を詰まらせて、こほんと一つ咳をした。
「ただいま、兄さん達」
 ソフィも嬉しそうに笑って、手を繋いだままヒューバートをテーブルへと導いた。アスベルとリチャードが席に着く。ヒューバートに椅子が勧められる。甘そうなミルクティーと花を象ったクッキーに苦笑しながら、ヒューバートは諦めにも似た思いで席に着いた。
 この異常な花の園も、この甘ったるい香りも今は気にしないようにしよう。どうせここでお茶会なんてやっていたら、すぐに気にならなくなるのだから。



100128// 氷を融かす花束
100130 - 改稿