#01


 ベラニックから更に南下して歩いていくと、すぐにウィンドルとの境に辿り着く。国境の砦を越えるとそこはまるで別世界のようで、時期によってはコートもマフラーもいらないくらいあたたかいよ、と小さい頃に聞いたことがあった。
 フェンデルは一年の内のほとんどが防寒具なしでは生きていられない環境だから、白い雪原のその向こうにあたたかな緑の大地が広がっているなんて、御伽噺もいいところだと笑い飛ばしていたものだ。こうして実際に国境を越える日が来なければ、砦の向こうに本当に緑豊かな大地が広がっているだなんて信じていなかったかもしれない。
 国境周辺に駐在するフェンデル兵やウィンドル兵とそれぞれ出国と入国の挨拶を交わすと、そこはもうウィンドル王国だ。男は生まれてこの方一度もフェンデルを出たことがない。初めての外国に心躍らせながら一歩踏み出すと、一陣のやわらかな風が男を出迎えた。風の大W石の加護を受ける国とあって、頬を撫でる風はあたたかく、祖国のブリザードとはわけが違う。国境に近づいてきたあたりから帽子を脱いでいたが、マフラーも外していいかもしれない。子供の頃に聞いた話は本当だ。時期にもよるだろうが、確かにここはあたたかい。

 男は街道をまっすぐ南下しながら進む。地図を見ずとも、このあたりは道沿いに進めば国境に一番近い街に辿り着くはずだ。今日は天気がいいので羅針帯もよく見える。迷うことはまずないだろう。念のために周辺を巡回していたらしい兵士に道を尋ねると、彼らも口を揃えて同じことを言った。
「あんた、どこまで行くんだ?」
 気の良さそうな若い兵士に尋ねられ、男は腰の武器を軽く叩いた。
「修行ついでに傭兵稼業でもやりながら、世界を見て周ろうと思って」
「なるほど、気ままな旅人ってやつか」
「ここのところ随分平和になってきたからな」
「頑張れよ。何なら腕を上げて、俺達みたいに兵になればいい」
 甲冑を身にまとっていて表情はよく見えないが、見た目よりも随分話しやすそうだ。男は自然と笑顔になった。
「ありがとう、考えておくよ。ところで、ここからだと街に着くのにどれくらい時間がかかるかな」
「このまま真っ直ぐ行けば、半日もかからずに着くはずだ。亀車だともっと早いだろうが……」
「いや、自分の足で歩きたいんだ」
「そうか。じゃあ、いい旅になることを祈ってるよ。剣と風の導きを」
「ああ、ありがとう」
 男は素直に手を振り、兵士達と別れた。耳慣れないフレーズはウィンドル特有のお祈りみたいなものなんだろうか。なんとなく耳に心地良い。
 風の導きか。火の恩恵を受けられなかったフェンデルではあまり考えられない言葉だ。
 それでも最近は、天才的な才能を持った技術者が、大W石の力を最大限に利用する方法を完成させたと聞いている。もうしばらくしたら、フェンデルの暮らしも豊かになるだろう。不足していたW石の件や国家間の細々とした問題はまだ残っているが、故郷に残してきた家族を憂う事もなさそうだ。
 そこまで考えて、男は一人苦笑した。故郷から出てきたばかりなのに、もう感傷に浸るなんていくらでも早すぎる。こんなに女々しい考えは捨てて、今は始まったばかりの旅に集中すべきだ。

 しばらく歩いていくと、今度は離れた所から子供の笑い声が聞こえてきた。
「いっぱい摘んだね」
「うん。お父さんとお母さん、喜ぶかな」
「きっと喜んでくれるよ」
 籠いっぱいの花を抱え、小さな少年の手を引きながら微笑んでいる少女の姿が見える。幼い少年が、年かさの少女の足元に纏わりつくようにじゃれている様が微笑ましい。
 この辺りの住人だろうか。近くの街に住んでいるのなら、宿を尋ねる丁度いい機会かもしれない。
「ちょっといいかな」
 男が声をかけながら駆け寄ると、少女は意外にも機敏な動作でさっと振り向いた。澄んだ空気の日の朝焼けのような、薄紫の髪がはらりと宙を舞う。
「あなた、誰?」
「ああ、驚かせたならすまない。旅をしていて、今からこの先の街に行こうと思っているんだけど、もしいい宿があれば教えてもらおうかと」
「旅の人?」
 少女はちらりと男の腰に提げられた得物に目をやると、ふっと肩の力を抜いた。
「ラントに宿はないの。でも、みんな親切だしおもてなしが大好きだから、頼めばどこでも泊めてもらえると思うよ」
「そうか、ありがとう」
「どうしてラントに行くの?」
「フェンデルから陸路で行くなら一番近い街だし、バロニアへの連絡もあると聞いたからね」
「うん」
「バロニアからならストラタへの船も出ているだろうし、せっかく世界を旅するなら一度バロニアの大W石を見ておこうと思って」
「ふうん」
 素っ気無い返事だが、少女は控えめに微笑んだ。男と少女が会話を始めると、後ろに隠れていた少年も目を輝かせながら、話に加わりたそうに見上げている。
「世界を旅するんだね」
 少女は男に尋ねるというより、何かを思い返すように、とても愛しそうに「旅」という単語を唇に乗せた。
 彼女も旅をしてきたのだろうか?……いや、華奢な見た目からはとても想像がつかないし、もしかしたら旅に憧れているのかもしれない。その気持ちは男にも痛いほどよくわかる。今まで住み慣れた狭い場所から飛び立って、見たことの無い素晴らしいものが溢れている世界を見たい。鳥のようになれたら、と夢想することだってある。いつか一回りも二回りも大きくなって、再び故郷の地に胸を張って帰ることができたら、どんなに素晴らしいだろう。

「あ」
 少女と話している間に、いつの間にか随分と歩いていたらしい。街の門が見えるところまで来ると、先ほどまで口を開かなかった少年が嬉しそうに笑った。
「お母さんがお迎えに来てるよ」
「本当だ」
 少年が一生懸命指し示す方向に、確かに女性の人影が見えた。
 少年はいち早く駆け出し、母親の胸に飛び込んでいく。少女もその様を微笑ましく見守りながら、自身も駆け出したくて仕方ないと言うようにうずうずしていた。
「そうだ」
 少女がぱっと振り向いて、にっこりと花のように微笑んだ。
「もしもどこも泊めてもらえなかったら、うちにくるといいよ。アスベルならきっと泊めてくれるから」
 男が何か言う前に、少女は駆け出した。
 籠からひらひらと花びらが舞うのも構わずに、少年とその母親の元へ、一直線に走っていく。門の近くで少年を抱きしめていた母親と、少女が何かを話しているのだろうか。笑い声が聞こえてきて、男はふと、故郷に残してきた家族のことを思い出した。
(旅立ってまだ幾分も経ってないのになあ)
 自分はこんなにも情けない男だったかと自問しながら、男は今少女達が通っていった街の門をくぐった。

 異国の街に始めて足を踏み入れると、やわらかな匂いの風がコートの裾を翻す。傾きかけたとは言え、あたたかな日射しに守られたこの街に重いコートは似つかわしくなさそうだ。しばらくはフェンデルへ帰る予定もないし、どこかで売ってしまってもいいかもしれない。
 とにかく、どこかで道具屋の場所と一晩泊めてくれる親切な家を案内してもらわなければならない。
 男は周囲を見回す。ちょうど周辺を警備していたらしい若い兵がこちらの方へ歩いてくる。男はなるべく明るい声音で挨拶しながら、まずは今夜泊めてくれそうな人を紹介してもらおうと口を開いた。




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