#02


「失恋したの」

 珍しく同僚のほうから飲みに誘ってきたかと思えば、開口一番がそれだった。
 あまりにも唐突すぎる告白に思わず口に含んだビールを勢いあまって飲み込んでしまったものだから、俺は情けないほど盛大にむせて咳き込んでしまった。
「ちょっと、大丈夫?」
「だ、大丈夫だ。げほっ」
 まだ日が浅いとは言え、仮にも王家に仕える騎士なのに涙目になって咳き込むなんて間抜けだなあ。頭の隅でぼんやりと考えていると、同僚はとんとんと優しく背中を叩いてくれた。
「……ありがとう。助かった」
「もう、びっくりしたわよ。話の途中で突然」
「そうそう、俺もびっくりしたよ。お前がそういう事に興味あっただなんて思わなくってさ」
「どういう意味よ、失礼ね」
 私だって一応女なんだからね、と軽く睨んでくる同僚の表情は、学生時代によく見せていた子供っぽいそれだった。立派に成人しているはずなのに、彼女は未だ少女のようにどこか夢見がちで幼いところがあるのだ。
「で?」
 学生時代のあれやこれやを思い出してにやけそうになるのをなんとか堪えながら、俺は真面目くさった顔を作って同僚に向き直った。
「なんで失恋なんてしたんだ」
 問いかけると彼女はやや戸惑いながら、伏し目がちになって色鮮やかなカクテルを見つめる。その表情はとてもじゃないけれど一朝一夕の恋心が水の泡となった、というものではなさそうだ。そんなに強く想っていた相手がいたのか、と俺はわずかながらにショックを受けた。学生時代はとても真面目で勉強一本だった彼女に、恋愛という言葉はあまりにも不似合いなように思えたからだ。
 彼女がなかなか口を開こうとしなかったので、俺は興味半分、沈黙によってもたらされる居心地の悪さ半分から、なんとなく思ってみたことを口に出した。
「告白して玉砕したとか?」
「……違う」
「違うって? 相手に恋人がいたとか?」
「それも、違うけど」
 なんだか煮え切らないな。
 同僚は指先でグラスのふちをなぞりながら、このうえなく微妙、といった表情で溜息をついた。
「例えばね、自分が今まさに倒そうとしていた魔物に、自分よりも強い先輩騎士が剣を向けたとしたら、弱い自分がわざわざそっちに向かうのも無駄だって思っちゃうでしょ」
「……その例えはなんかおかしくないか」
「言わないでよ。もう、自分でもわかってるもん」
「まあ言いたいことはつまり、強力なライバルがいて、お前は戦いもせずに身を引いたってわけか。よくそれで騎士になれたな」
「うるさいわね、ほっといてよ」
 頬を膨らませて拗ねる同僚の目元が、じんわりと水分を増してきていることに、俺は今になってようやく気が付いた。しまった、軽口叩くのはまずかったか、と先の発言を後悔してももう遅い。
 彼女は先ほどと変わらず、緩慢な動作でグラスをなぞりながらどこか遠くを見ていた。
「私はその人のこと、W術の授業で最初に会った時から好きだったけれど、教官はもっと前から好きだったのよ。……あんなに素敵な人なんだもの。敵うわけないよ」
「教官? ちょっとまて、それってひょっとして」
「ヴィクトリア教官。あんなに綺麗で素敵な人がライバルなら、敵前逃亡しちゃっても当然だと思わない?」
 明らかに涙が混じった声を落として、同僚は一口カクテルを啜った。
 俺はと言えば、同僚の発言に随分困惑していた。かの凛々しくも美しいヴィクトリア教官は騎士学校に通う全男子生徒の憧れの対象だったが、まさか彼女が特定の誰かを好いていただなんて。……いやいや、問題はそれよりも、あの真面目で勉強一本だった同僚が、ヴィクトリア教官を虜にしたような男に恋をしていただなんて。その事実が何よりも衝撃的で、俺は頭を抱えたくなった。
 ヴィクトリア教官が年下の学生に恋をするようには到底思えないし、(勝手なイメージもあるだろうが、やはりどうしても想像できない)だとすれば同僚は学校の教官の誰かを好きになっていたとでもいうのだろうか。いやまさか。あんなに真面目で品行方正で試験の成績も優秀だった彼女に限ってそんなことは。
「なあ、お前の好きな奴って」
 誰なんだ、と尋ねようとして、結局俺はそれ以上続けられなかった。俺は同僚の顔を覗き込んでぎょっとした。彼女は既に、どう頑張ったってごまかせないほど大量の涙を両目いっぱいに溜め込んでいたからだ。彼女とは学生時代も含めてなかなか長い付き合いになるが、どんなに厳しい訓練や難しいW術の実技、挫折して次々に夢を諦めていく仲間達の背を見送る時でさえ、弱音を吐くことも涙を見せることもなかった。もちろん、こんな風に泣いているところなど一度だって見たことがなかったので、俺は情けないことに、初めての実戦で魔物に不意打ちを喰らった時と同じくらいに動揺してしまった。
 真面目でからかいやすい同僚をいじっているのは楽しいが、興味本位で彼女を傷つけたり、ましてやこれ以上泣かせるなんて俺の精神衛生上にもよろしくない。
 俺は少し考えてから同僚に手を伸ばして、ついさっき彼女がそうしてくれたように、騎士にしては華奢な背中をとんとんと叩いてやった。とん、と最初に軽く触れた時に、なだらかな頬のラインをころりと雫が転がっていくのが見えたが、俺は見なかったふりをした。
「ずっと一人で抱え込んできたのよ。片思いで構わないって思ってたのに。最近になってヴィクトリア教官のこと知ったら、なんだか急に、誰かに言いたくてたまらなくなったの。変ね、こんなこと何でもない、もっと大丈夫だって思ってたのに」
 好きだったのよ、本当に。
 か細く吐き出された息に混じって、彼女はそう呟いた。
 湿った声があんまりにも俺の知っている彼女とかけ離れていたので、俺はカクテルに視線を留めたまま、気付いた時には冗談半分で口を開いてしまっていた。
「とりあえず今のうちに好きなだけ泣いとけ。何だったら今日は俺の胸貸してやるよ」
 腕を広げて、なるべく自然に、かつ最大級の明るさをもった笑顔を浮かべることに俺は成功したようだった。同僚は一瞬面食らって、ぽろぽろと涙をこぼしながら唇を震わせる。
「貸しなんて作りたくないわ」
 そう言いながら、かなり歪な笑顔を浮かべて彼女は目元を擦った。こういう時くらい素直になれよ、あほ。そんなこと思いながら結局同僚の頭を撫でてやる俺も、たいがいどうかしていると自覚している。
 震えた小さな声が何か呟いた。教官なんて好きになるんじゃなかった、と聞こえた気がしたが、俺は何も聞こえなかったふりをして、彼女の背を優しく叩いてやった。



100306
教官は知らないところで女の子を泣かせてそう