#03


「あら、何かしら」
 広い城内の廊下を掃除用具片手に歩いていたメイドは、床に落ちていた紙切れのようなものを拾い上げた。最初細長い紙のように見えたそれは、どうやら手作りの栞のようだった。可憐な花が押し花になって、なんとも可愛らしいデザインに仕上がっている。その花は図鑑で見た覚えがあった。
「……クロソフィの押し花?」
 一体誰の落し物だろうか。まさか騎士が持ち歩いているとも思えないし、同僚の誰かがここを通る時に落としていったのかもしれない。
 でも、押し花の栞なんてポケットに入れていたら、仕事の邪魔になるんじゃないかしら。栞なら本に挟むのが一般的な使用法のように思う。それとも、肌身離さず持ち歩くほどよっぽど大切なものだったりするのかもしれない。
 メイドは不思議に思いながら、ポケットに栞を押し込んだ。後でメイド長にでも届けよう。そうすれば例え持ち主がメイドの誰かでなくても、城に勤める下働きの者達の間に話は伝わるだろうから、すぐに持ち主は見つかるはずだ。メイドは一人頷くと、広い廊下を見渡した。
(そんな事より、まずはお掃除しなくちゃ)
 誰かが廊下を通らないうちにさっさと仕事を終わらせてしまわないと大変だ。騎士ならばまだしも、お偉い方々、特に国王陛下に見苦しい様を見られてはいけない。廊下の次は客間の掃除も控えているし、その次は洗濯だ。待ち受ける大量の仕事を憂いながら、メイドは心持ち急いで掃除を始めた。

 広い廊下の床磨きはもちろんのこと、壁に飾られた調度品も丁寧に拭かなければならない。こまやかな細工が施された飾りはちょっと力を加えただけでも壊してしまいそうではらはらする。なんとか全体の半分くらいは終えたところで、廊下の向こうが少し騒がしいことに気付き、メイドは手を止めた。
(何の騒ぎかしら?)
 人がいない時間を選んでこの場の掃除をしているのだから、高貴な方がここを通られるとは思えない。だとしたら同僚のメイドか、見回りの騎士か、ひょっとしたら何かトラブルが起こって人が集まっているのかもしれない。
 掃除の手を止めたメイドは、元来の好奇心旺盛な性格を抑えきれずに、つい仕事を放り出してそちらに足を向けた。
 廊下の角のほうで、数人の騎士やメイドが固まって何か話をしている。
(騎士とメイドが集まるなんて、珍しいわね)
 不思議に思いながら近づくと、彼らは皆一様に慌しく、何かを探しているようにも見えた。
「あったか?」
「いや、ない」
「こちらにもありませんでした」
 ばたばたと騎士やメイド達が部屋を出入りしたり、廊下にしゃがみ込んで床をくまなく凝視している。これはただごとではなさそうだ。
 ふと、若い騎士やメイド達に指示を出しているらしい年かさの騎士が目に留まった。彼なら何か知っていそうだ。メイドは掃除用具を廊下の隅に置くと、彼に声をかけた。
「あの、どうかなさったんですか? 何かお探しなのでしょうか」
「ああ、丁度いい。君も手伝ってくれないか。国王陛下が大事な物を失くされたらしくてね」
「国王陛下がですか?」
「そうだ。ご友人からいただいた品で、肌身離さず身に着けて大層大事にされていたそうなのだが、先ほどになって失くされた事に気が付かれたらしい」
 そういえば陛下は、ご友人を訪ねに何度かラントへ赴いた事があると聞いた。その逆に、何度かラントからの客人をお招きしたこともある。その親しいご友人からいただいた物を失くされただなんて。
 騎士やメイド達を総動員させてまで探させるのだ。本当に大事な物なんだろう。
 彼女にも、宝物のように大切にしている物がある。もしそれを失くしてしまったらと思うととても悲しいし、こうして城の人間を総動員してまで探させている、国王陛下のお気持ちもとても良く分かる。一介の使用人とは言え、城に仕える者として助力しないという選択肢はないだろう。メイドは正義感に燃える目で騎士を見つめ返し、ぐっとこぶしを握った。
「わかりました、私のような者がお役に立てるのであれば」
「助かる。何、そんなに小さな物でもないので、落ちていればすぐに見つかるだろうが……何しろこの広さじゃなあ」
「じゃあ私、同僚にも声をかけてみますね」
「ああ、頼む」
「それで、その落とされた物はどんな物なんですか?」
 尋ねると、騎士はほんのちょっとだけ可笑しそうに、頬を緩めて声をひそめた。
「実はそれが大変可愛らしい物なんだよ。いや笑い事ではないのだが、国王陛下に対するイメージがちょっと変わるかもしれない」
 その言葉の響きに悪戯めいた秘密が混じっているのに気が付いて、メイドは心躍る自分がいることに気が付いた。内緒話をするかのように騎士が手招きをしたので、思わずしっかりと耳を傾けてしまうのは人間の性としか言いようがない。かもしれない。
「いいか、心して聞けよ。ああ、でもあんまり言いふらすなよ。これは今捜索している者だけの秘密なんだからな。イメージが大事だからな、王というものは」
「もったいぶらずに教えてくださいよ。捜索にご協力できないじゃないですか」
「そうだな。それで、その大事にされている物というのは――」
 いつの間にか彼は完全に小声になっている。もしかして一番面白がっているのはこの騎士なんじゃないだろうか。その証拠に、彼はその後たっぷりと数秒の間を置いて更にじらすと、最早頬の緩みを隠そうともせずに、メイドにとっても驚くべき、意外な言葉を言い放った。

「手作りの栞なんだよ。それも、押し花の」

 伝える事だけ伝えて、騎士はぱっと離れて声量を元に戻した。
「あんなにしっかりなされている陛下がまさかそんな可愛い物を大事にしているなんて意外性があるだろう。いやもちろん秘密にしておいてくれ。しかし、こう言っては失礼なのかもしれないが、何だか親近感も沸いてきたよ。俺も昔――なんだ、君。どうかしたのか?」
 どことなく楽しそうに喋っていた騎士がふつりと言葉を切ったのは、メイドが先程までの勢いをすっかり萎ませて、何やらエプロンのポケットを押さえているからだった。
 騎士の問いかけにも応えず、メイドはそうっと、ポケットの中に手を入れる。指先につい今しがた拾った手作りの栞が触れた。ゆるゆると引っ張り出すと、クロソフィの押し花がひょこりと顔を出す。
「……あの、もしかしてこれじゃないですか?」
 可愛らしい意匠の栞を騎士に差し出すと、彼は驚いたように栞とメイドとを交互に見やった。
「ああ、これだ。特徴も聞いていた通りだ。君が拾っていたのか」
「ついさっき、そこで。でも、でもまさか陛下の物とは知らずに、無造作にポケットに入れちゃいました。どうしましょう、汚れたりしてませんか? どこか折れていたり……」
「見たところ大丈夫そうだ。それに、まさかこれが国王陛下の物だとは誰も気付かないだろうさ。君に非はない。俺が拾っていたら、ひょっとしてもっと酷い扱いをしていたかもしれない」
 騎士はメイドを安心させるように片目をつぶってみせると、手作りの栞をまるで宝石を扱うように大事に受け取った。
「それにしても、こんなに可愛らしい贈り物をされた陛下のご友人って、一体どんな方なんでしょう」
「さあ。俺はお目にかかった事はあるけど、お人柄までは……」
「ずいぶん茶目っ気があるお方なのかもしれませんね」
「どちらにせよ、これはお偉方にはおおっぴらに出来ない代物だろうな」
 おどけたように騎士が言って、二人で顔を合わせて苦笑した。

 国王陛下の落し物が見つかったという事で、臨時に結成された捜索隊もすぐさま解散し、皆それぞれ持ち場に戻っていった。例の栞については一応あの騎士によって緘口令が敷かれたようだが、少なくとも噂好きのメイド達の口は水面下でしばらく動かされるだろう。
 あんなに騒がしかった廊下もやっと静かになって、メイドは掃除用具を片手に廊下の掃除を続けていた。予定よりも随分と遅れてしまっている。早く掃除を終えてしまわなければならない。次はたまった洗濯物を片付けるという重大な任務が待ち受けているのだ。
 それにしても、ちょっとだけ惜しいと思ってしまった。持ち主はどうせ下働きの誰かだと思っていたから、持ち主が判明したら作り方を教えてもらおうと思っていたのだ。刺繍も料理も押し花も花の冠作りも得意な方だけれど、あんなに可愛いデザインは彼女には思いつかなかった。あの栞を作った人は、きっととても素敵な人に違いない。
 そんな素敵な人を友と呼べる国王陛下が心底羨ましい。
 メイドは一瞬掃除の手を止めると、羨望を込めた溜息をひとつ吐いてまた仕事に戻った。



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