「怖い夢を見たわ」
 目が覚めるなり、シェリアは小さな子供みたいに震えた声でアスベルを呼んだ。アスベルは読みかけの本に栞を挟む。控えめに灯していたランプの明かりをほんの少し強くすると、シェリアの濡れた睫がきらめいた。
「こっち、来るか?」
「……子供っぽいって、笑わない?」
「笑うわけないだろう。ほら」
 冗談混じりに膝の上をぽんと叩いて笑いかけると、シェリアは緩慢な動作で半身を起こした。もそもそとにじり寄ってくる姿が頼りなさげで、不謹慎にも可愛い、と思ってしまう。
「膝貸すって言ったのに」
「やあよ、子供じゃないんだから」
 膝の上には座りこそしないが、シェリアは珍しくアスベルのすぐ傍に来ると、ぴったりとくっつくようにして座り込んだ。毛布を引っ張って背中を少し丸める。寝起きのせいかぼうっとしていて、いつも何事にも背筋を伸ばして、ぴしゃりとしているのが嘘みたいだ。もつれたばら色の髪を指先で梳いてやると、何にも言わずにそっと瞼を下ろした。
「ねえ、アスベル。1分だけ、ううん。30秒でいいから、ちょっとだけ手を貸して」
「ん?」
「怖い夢見ると、なんだか寂しくなるから」
 背中や手が、すうって、寒くなるの。ぽつりぽつりと歯切れの悪い喋り方が、まったく彼女らしくない。
 幼い頃から怖いものは苦手だったシェリアは、大人になった今でも変わらず、何かに怯えているみたいだった。それは幽霊だったり、目に見えない得体の知れないものだったり、人との繋がりだったり。何にも怖いことなんてないだろ、と言ってみたことはあったが、それでも怖いものは怖いの、と返された。それ以来、そんなものなのかとなんとなく「怖がりなシェリア」を受け入れてきた。こういう時は、シェリアのしたいようにさせてやるのが一番いい。
「ほら、手」
「うん」
「これでいいのか?」
「うん」
 差し出した右手をきゅっと握られる。やわらかいてのひらはアスベルと同じくらいの温度なのか、あたたかくも冷たくもない。丁度いい体温だ。シェリアは手のぬくもりによほど安心したのか、ますます力を込めて握ってくる。アスベルも同じくらいの強さで握り返し、肩に寄りかかるシェリアの髪に頬を寄せた。
「あったかい」
「そうか」
「人の体温ってほっとするって聞いたことがあるけれど、本当みたいね」
 シェリアの頬のラインがかすかに揺れた。笑ってくれたのだろうか。だとしたら、嬉しい。
 手と、腕と、肩と、触れ合う箇所からシェリアの体温が感じられる。シェリアはきっとアスベルの体温を感じてくれている。こうして触れられることで不安も怖いことも全部吹き飛んでしまうのならば、ずっとこうしていたって構わないのに。

「落ち着いたか?」
「少しは」
「少しだけ? なら、もうすぐ30秒経つけど、あとちょっとはこうしててもいいよな」
 ゆるりと顔を上げたシェリアの表情は、まだ危なっかしい子供みたいで、肩を抱いて、背中からすっぽりと毛布で覆ってやった。その毛布ごと彼女を抱きしめて、とん、とんとゆるやかなリズムで背中を叩いてやると、シェリアはやっとほう、と一つ息を吐いて、手に込めていた力を緩めた。
「アスベルは天才ね」
「何が」
「人を安心させるの、上手だもの」
「それを言えば、シェリアだってそうだろう」
「そんなことないと思うわ」
 耳元で、寝起き特有のとろけた声音で囁かれることに少し苦笑した。
 人を安心させる特技なんて、アスベルは持ち合わせている自覚はない。肩に触れ合った体温や、頬に触れた髪のやわらかさや、今こうして抱きとめているシェリアの存在が、アスベルにとっては一番安心できる場所で、不安も恐怖も飛んで行ってしまう力を持っているのに。
「寝るまでこうしていようか」
 アスベルは半分自分のために囁く。シェリアはさっきまで握っていたてのひらを顔の前に掲げた。
「ううん。でも、できたら手を繋いでて」
 そうしたら多分怖い夢なんか見ないから。腕の中でシェリアはとろけるようにはにかむ。そうだな、俺がちゃんと、怖い夢からシェリアを守るよ。

 明かりを消すと互いの顔はすぐに闇に紛れた。けれど触れ合う手と肩のぬくもりが、聞こえる吐息が、光よりもずっと確かに互いを繋げて安心させてくれている。アスベルはシェリアの髪の色や、頬や、指先の爪の形のひとつひとつを思い返しながら、彼女の体温を抱きしめて眠りに落ちた。



100127// lullaby36.5