「入って来ないで」
 ノックをする前に部屋の中から拒絶の言葉が聞こえてきて、アスベルは今まさに扉を叩こうとしていた片手を宙に彷徨わせた。
「向こうに行って」
 シェリアの声が少し震えていることがはっきりと分かった。泣きたい時に涙をこらえて無理に声を出すと、怒ったような口調になるのは昔からの癖なのだろうか。とにかく今、シェリアはアスベルから見えないところで、一人で泣いている。彼女は強がりなくせに泣き虫で、怖いときや悲しいときは決まって声を押し殺して泣いていた。決して大声は上げない。頬を伝う涙に気付いて指摘すると、怒ったように声を荒げることはあっても、わんわん泣き喚くことは無かった。頬を伝う雫を拭おうともせず、「今止めるから」と震える声で呟いて、俯いたまま、まばたきを繰り返して必死に泣き止もうとする様は痛々しく感じたし、ひょっとしたら彼女は泣くのに慣れているのかもしれないんじゃないかと思うと、気が気でならなかった。
「シェリア、頼むから」
 そんなふうに泣くな、とはどうしても口にすることはできなかった。
 そんな言葉をかけたってきっと何の役にも立ちはしない。今までもずっと、アスベルの手の届かないところで彼女は泣いていたに違いないのだから。今更そんな言葉をかけるよりも、この扉を開けてシェリアの涙を拭ってやるにはどうすればいいのかを考えなければならない。
 扉の向こうで押し殺した嗚咽が聞こえる。鍵をかけていないだろうから、ノブを回せば簡単に開くとわかっている。だけど彼女に拒絶された今は、無理に扉を開けても何の意味もない。
「シェリア」
「来ないで」
 名を呼ぶとぴしゃりと拒絶で返された。
「きっと私、今すごくひどい顔してるもの」
 頼りない掠れた声の言い訳に、アスベルはたまらずノブに手をかけ、力を込めた。いくら考えたってかけるべき言葉が見つからない。扉を開けてしまおうか。いいや、でも、例え傍にいてあげられたとしても、何と言葉をかければいいだろう。そもそも、泣いている原因だってわからない。原因もわからないのに人を慰めるなんて、そんな器用な芸当が自分にできるとは到底思えなかった。
「……それでも、お前が泣いてるなら、やっぱり傍にいてやりたい」
 もつれる思考を遮って、アスベルはほとんど無意識のうちに呟いていた。
 何も出来なくたって構わない。拒絶されても、手が届くのなら涙を拭ってやりたい。それでもやっぱり拒絶されるのが怖いと密かに思ってしまうのは、相手がシェリアだからだろうか。
 先の声が扉の向こうに聞こえたのかはわからないが、わずかに息を呑む気配があった。
 アスベルはもう一度、シェリアを呼ぶ。
 今度は拒絶の言葉はなく、代わりに小さく鼻をすする音が聞こえた。
 中途半端に手をかけたノブを回すのにアスベルはやけに緊張して、蝶番が軋む小さな音に心臓が震えるのを感じていた。
 あれから何年も経ってずいぶん大人になったと感じているのに、シェリアが絡むとどこか臆病になってしまう自分がいることに、アスベルは薄々気付いている。自覚して間もない感情が芽吹いて、だんだんと成長して花開く頃には、まるでアスベルを取り巻いていた空気が色を変えてしまったんじゃないかと思ってしまうほど、世界は違って見えた。今こうしてシェリアが泣いている事実でさえ、アスベルの見る世界の中では最優先すべき重要事項で、彼女が泣いている限り世界は晴れないのではないかと本気で思ってしまう。きっと彼女はアスベルの知らないところで何度も泣いていた。今までそれを見落としてきて、どうして平気でいられたんだろうか。

 扉を開けると、椅子の上で膝を抱えたシェリアが、まず一番に見えた。
 彼女はうずくまったまま、顔も上げずに沈黙している。
 それでも拒絶されないことに幾分か安堵して、アスベルはなるべく足音を立てないように、彼女に近づいた。
 気配に驚いたのか、シェリアの肩は大きく震えた。肩にそっと触れると、彼女のぬくもりがじんわりとてのひらに伝わってくる。
 そこまではなんとなく意識せずに行動したが、その後はどうするべきなのだろうか。行動しておいて自分でも呆れるが、泣いている人間をうまく慰める方法なんて知らない。
「……顔、上げてくれないか」
 数秒の逡巡の後、アスベルは囁いた。シェリアはますます縮こまって、つまさきをもそもそとすり合わせる。
「嫌よ」
 湿っぽくこもった声が拗ねているようで、そんな場合ではないと思いつつ、子供の頃を思い出して頬が緩んだ。嗚咽まじりの濡れた声にはまだ涙は残っているものの、もう泣いてはいないようだ。ほっとして子供にそうするように肩をさすると、シェリアはすっと肩の力を抜いた。
「絶対に嫌なら、無理はしなくていい」
「うん」
「それと、もしまた泣くことがあったら、一人で閉じこもったりしないでくれ」
「……」
 シェリアは返事の代わりに小さく頷いて、あと10秒待って、と囁いた。無理はしなくていいのに。今すぐに泣き止めと言っているわけじゃない。ただシェリアの涙が晴れるまで、その涙のひとしずくでも受け止めることができればと願っているだけなんだ。それをうまく言葉にできないのがもどかしくて、肩に触れた手から気持ちが全部伝われば楽なのにと仕方のないことを考えてしまう。
 シェリアはきっと、これからも声を押し殺して泣く。そのすべてに気付けるほど器用じゃないけれど、できればこんなふうに一人で泣いたりしないように、傍にいて「大丈夫だ」と叫び続けたい。悲しさも怒りも恐怖も憤りも、なにもかも一人で抱え込むことはない。もうどこにもいかない。お前は一人じゃないんだと、言葉よりも確かな形で伝えなければ。
 アスベルは祈るような思いでシェリアのばら色の髪に触れた。次に顔を上げる時は、どうか笑顔を浮かべていてほしい。指先を滑るやわらかな感触を何度か撫でて、アスベルはもう一度シェリアを呼んだ。



100205// スロウレイン