一体これはどうしたものだろう。
 アスベルは盛大に溜息をついて、目の前の状況を確認した。

 分厚い本を枕元に投げ出し、ベッドに横になっている恋人が一人。メイドが丁寧に整えたであろうシーツは皺が寄っていて、ついでに言うならば彼女のスカートは目のやり場に困るほど乱れてしまっている。書類仕事に追われていたアスベルを待ちくたびれて、つい寝入ってしまったというところだろうか。今日は午後から時間を作って、久しぶりに彼女とバロニアにでも行こうかと話していたのに。
(そもそも、バロニアの件はシェリアが言い出したことなんだがな……)
 眠ってしまった恋人に文句を言えるわけでもなく、かと言ってこんなに気持ち良さそうに寝ていられては起こす気にもならない。
「シェリア」
 一応控えめに声をかけてみるが、深い眠りに落ちてしまっているらしく、何の反応も示さなかった。
 アスベルは諦めて、ベッドの傍に椅子を引き寄せて腰掛けることにした。この分だとバロニアへ出かける件は随分先延ばしになりそうだが、こうなっては仕方がない。それに、ぐっすり眠った彼女を眺めるのは悪くない。もし起きた時は、寝起きの彼女をからかってやるのもいい。
 アスベルはそう結論付けると、まずは乱れてしまったスカートをなるべく見ないようにしながら整えてやった。
 枕元に放り投げてあった本は、ヒューバートが幼い頃に読んでいた長編小説のようだった。本をあまり読まないシェリアがこんな分厚い物を手に取るなんて珍しい。
(こんなものなんか読むから眠くなるんだ)
 再び溜息をつきたくなるが、どうせ彼女には聞こえない。
 まだ時間はあるし、これから仕事に戻って書類を片付けるのも面倒だ。アスベルは何気なく手に取った本を開き、読み始めた。



(……なんか、集中できない)
 読み始めてどのくらい時間が経っただろうか。ページはほとんど進んでいないのに、日の傾き具合から随分時間が経ったことが伺えた。
 大人しく眠っているかと思ったシェリアは、時折もぞもぞと寝返りを打ってはベッドを乱していく。それだけならまだいいが、吐息まじりの寝言で名を呼ばれた時は心臓が飛び跳ねてどこかに飛んでいくんじゃないかと思ってしまった。
「……勘弁してくれ、シェリア」
「ん、アスベル……」
 こっちの気を知ってか知らずか、シェリアはまた誘うように唇が動かす。
(こういうのを生殺しって言うんだろうな)
 こんな時はなんとなく、教官の顔を思い浮かべてしまう。
 男ならもっとがっつり行け!アスベル!常に攻めの一手を考えろ、それでこそ俺の生徒だ!
(駄目です教官、俺にはとても寝込みを襲うような卑怯な真似はできません!)
 頭の中の邪念を打ち払うように首を振る。ここまでくると、呑気に眠り続けているシェリアが少し恨めしく思えてきた。約束を忘れて眠っているし、無意識の中にあっても俺をこんなに翻弄するし。何なんだ、もう。どうにかなってしまいそうだ。
(本当に気持ち良さそうだな)
 こんなに気になってしまったら、とてもじゃないが本なんて読めそうにない。
 どこか恨みがましい気持ちでシェリアの頬をつつくと、嫌がるように眉をしかめて顔を背ける。
(やわらかいなあ)
 ほんのり染まった頬の感触は実に指に馴染む。なんだか楽しくなってきて、アスベルは頬をぷにぷにつついたり、額にかかる髪を撫でたりと思う存分楽しんだ。
「むう……」
 顔をぺたぺたと触れられるのが嫌だったのか、シェリアが何度目かの寝返りを打った。その拍子に吐息が指にかかると、またアスベルの鼓動は跳ねた。
 つややかな桃色の唇が、蝶の羽のようにふわりと開く。
 アスベルは何も考えずに、引き寄せられるようにしてそこに触れた。
 ぷゆらと弾力のある柔らかさは、何度も触れ合ったことがあるから知っている。けれど、口付けと指先で触れるのとではまた違った感じだ。人差し指で何度も往復してなぞる。ふにゅりと頼りない感触。
 無性に、欲しくなった。

「ん……」
 無意識の世界の中で、シェリアが唇を薄く開いた。
 唇に触れていた流れからなんとなくそこに指を差し出す。まるで幼児がそうするように、指先はそのままぱくりと口に含まれた。
 吐息が手にかかる、とか、そういう次元じゃない。
(う、わ……!)
 指先に温かい舌が触れる。小さな水音が耳に届き、アスベルは慌てて指を引き抜いた。
「びっ、くりした……」
 ばくばくと心臓がうるさく動いている。生暖かい感触がなかなか消えてくれない。濡れた指先が空気に触れて冷えていくのが、余計に先ほどの生々しさを感じさせる。
 シェリアは自分がしたことの重大さも、アスベルの動揺も何も知らずにまだ眠っている。ここまでくると、一人でこんなに動揺しているのが少し腹立たしくさえ思えてきた。
 また教官の顔が脳裏をちらつく。
 アスベルは甘いな。卑怯な手だろうが、最終的に勝てばいいんだ。勝たなくては意味がない。

 広々としたベッドに片膝を乗せると、かすかにギッ、と軋む音がする。
 こんなに小さな音で起きるはずはないとわかっていても、慎重に、アスベルはシェリアの頬にそっと顔を寄せた。
「シェリアが悪いんだからな」
 囁いて頬に軽くキスを落とし、瞼にも口付ける。
 起きて欲しい。眠っていればいい。どちらともつかない思いを抱きながら互いの唇を合わせた。
「ふ……」
 彼女の吐息が唇に触れる。砂糖菓子よりもずっと甘いその響きに、頭の中がかっと熱くなる。
 シェリアの長い睫がかすかに震えたのが視界の端で確認できた。もうどんなに止めたって引き返さないからな。心の中でそっと決意をして、アスベルは彼女が目を覚ます、その瞬間を待ち焦がれた。



100125// スノーホワイトにくちづけ
回想でも冴える教官のキラーアシスト