帰ってきてしまった。
 ラントの大きな門を見上げながら、シェリアはどきどきしていた。
 シェリアが今日、ここに帰ってくることは誰にも伝えていない。祖父はもちろんのこと、ソフィやアスベルに先日送った手紙にだって一言も書かなかった。別に深い意味も大きな理由もない。ただ、以前帰郷したときにアスベルと、いわゆる恋人同士、というものになってしまってから、なんとなく顔を合わせることや、改めて会いに行くと告げる、たったそれだけの事が恥ずかしくてたまらなくなった。
(別に、会いたくないわけじゃないんだけど)
 むしろ久しぶりに会えると思うと嬉しくて、お土産まで買ってきてしまった。矛盾した行動に自分でも呆れてしまう。だけどもう、ここまで来たのだから引き返せない。

 シェリアはゆっくりと一つ、深呼吸してラントの門をくぐる。会釈した見張りの兵は見知った顔だった。ラントは狭いから、日が暮れる頃にはシェリアが帰ってきたことはしっかり祖父に伝わるだろう。もちろん、アスベルにも。
 やっぱりちゃんと伝えてきたほうが良かったかしら。
 何もこんなふうにこそこそとする理由なんてない。連絡をよこさなかった事を指摘されたら、何て言えばいいのかわからない。会いたいけど、会いたくなかったんです。そんなふうに正直に言えない。
 シェリアは自分自身がどんなにわがままで臆病な女の子かをよく理解している。
 アスベルに会いたい。でも会うだけじゃ足りない。次から次に彼を知りたくなるし、彼のぬくもりを手放したくない。密かにあたためてきた恋が実っただけでは飽き足らず、もっともっとと望んでしまう。
 少しは大人になれたと思っていたのに、シェリアはアスベルの前に出るとたちまちのうちにわがままな子供になる。砂糖菓子を欲しがる子供と同じ。甘い言葉には期待していないけれど、あの声で、あの笑顔でシェリアと呼んで欲しい。その衝動は苦しいくらいに甘くシェリアをしめつける。

 ラントの懐かしい風の匂いが、自然と過去のシェリアを、アスベルを想起させた。彼とともに育った街。アスベルが守っている場所は、記憶と変わらずにやさしく在り続けている。
 穏やかな空気の中を、自宅を目指して歩く。守護風伯と呼ばれる大きな風車がゆっくりと回り、鈍く軋む音が聞こえて、シェリアの鼓動は少しずつ速くなった。
 どうか今、アスベルと会ったりしませんように。
 片手をぎゅっと握りしめて、シェリアは密かに祈った。
 こんな時にいきなりばったり再会することなんてないに決まっている。だけど、もし万が一そんな事にでもなったら、私はあふれ出る衝動を抑えきることができないに違いない。ずっとずっと抱えてきた片思いの気持ちがここまで大きく育ってしまって、シェリア自身、今アスベルの声を聞いたら自分がどんな反応をするのか全く想像できなかった。泣くのか、笑うのか、怒るのか。どんな言葉を口走るのかさえ。

 守護風伯の軋む音が随分近づき、自宅の色とりどりの花壇を目にした頃には、シェリアはほとんど駆け足になっていた。
 とにかく一度落ち着かなければならない。家に駆け込んで、今日は誰とも会わないようにして、それで、明日になったらソフィに会いに行こう。帰郷を告げなかった理由なんてきっとどうにでもなる。それよりも、緊張で速くなってしまった鼓動を落ち着かせるのが先だ。
 石段を登ってドアノブに手をかける。がちゃ、と手ごたえがして扉は素直に開いてくれない。
「そうだ、鍵」
 慌てるあまり完全に存在を忘れていた。誰に見られているわけでもなくちょっと恥ずかしくなって、荷物の中身を探ろうと、鞄を置いてしゃがみ込む。と、同時に、
「……シェリア?」
 花壇のほうから聞き慣れた愛らしい声が聞こえて、シェリアは反射的に、飛び上がるようにして立ち上がった。朝焼けのように美しい薄紫の双眸が、こちらをきょとんと見つめている。
「ソ、ソフィ、あなたどうして」
「シェリアの家の花壇のお世話してたの。シェリアこそどうしてここにいるの?」
 しゃがんで花を見つめていたらしいソフィもすっと立ち上がって、シェリアの傍に歩み寄る。疑問符を浮かべているものの、その表情はとても嬉しそうに紅潮していて、突然の帰郷にも関わらずシェリアを歓迎してくれていることが伺えた。
 何をどう言ったものかと考えを巡らせる前に、ソフィはシェリアの腰に抱きついた。
「シェリア、帰ってきてくれて嬉しい」
「え、……ええ、ただいま、ソフィ」
 ぎゅっとだきしめる腕の細さとぬくもりが、次第にシェリアを落ち着かせた。ソフィのさらさらした髪に指を通すと、くすぐったそうに笑みを零す。こうして彼女に触れていると、どんな時だって勇気が湧いてきたことをシェリアはふいに思い出した。
「突然でごめんね、ソフィ」
「ううん、びっくりしたけどとっても嬉しい。アスベルもきっと喜ぶよ」
 ソフィの口からアスベルの名が出て、シェリアは一瞬すべての動きを止めた。その反応に気付いたらしいソフィが怪訝そうにシェリアを見上げる。
「アスベルは今日ね、お仕事も少ないから時間があるんだって。呼んでこようか、シェリア」
「え? う、ううん、いいのよそんな全然」
「どうして?」
「どうしてって」
 それ以上言葉を続ける事ができなくなって、シェリアは唇を閉ざした。彼に会うには、まだ心の整理がついていない。だってアスベルの名を聞くだけでも鼓動が速くなっていって、体温すらも手に負えないくらい上がってしまう。この音はきっとソフィにも聞かれている。
「シェリア、心臓がすごくどきどきしてるよ」
 冷静なソフィの指摘に、シェリアは恥ずかしくなった。
 本当に子供みたいだ。こんな些細なことでどうしようもなく動揺してしまって、ソフィにも心配をかけている。
「……なんでもないの、大丈夫よ」
「本当?」
「ええ。さあ、それよりもこんなところで話し込むわけにもいかないわ。久しぶりにお茶でもどうかしら」
 自分でも苦しい話題転換だ。ソフィの返事を聞く前に、鞄から鍵を探り当て、今度こそ扉を開けた。

 久しぶりに帰る我が家は相変わらず変わりない。ここに来て旅の疲れがどっと出たような気がする。
 シェリアは荷物を邪魔にならないところに置くと、ソフィに椅子を勧めた。彼女はなんとなく居心地が悪そうにそわそわしながら、シェリアをじっと見つめている。
「シェリア。お茶飲んだら、アスベルのところに行く?」
 お気に入りの茶葉を戸棚から出そうとしたポーズのまま、シェリアは固まった。なんですって。どうしてそんな事をソフィが気にしているの。
「あのね、シェリア。アスベルはずーっとシェリアに会いたがってたよ。シェリアは会いたくない?アスベルのこと、嫌いになっちゃった?」
「そんなことないわ」
「ふたりはこいびと同士なんでしょ。こいびとは一緒にいるものなんだって、教官が言ってたよ」
 神妙な顔でシェリアを見上げるソフィのまっすぐな視線に眩暈を感じた。教官、また変なことを吹き込んで。今度会ったらリリジャスの一発でもお見舞いしようかと密かに決意する。
「ソフィ、あのね」
「わたし、アスベルもシェリアも大好きだよ。ふたりがずっと一緒にいてくれたらとっても素敵だと思うの」
 シェリアの言葉を遮って、ソフィは懇願するようにシェリアの手をそっと握った。純粋すぎる眼差しがきらきらと眩しい。シェリアはどぎまぎしながらなんとか言葉を探した。
「違うわ、嫌いになんかなってない。むしろとっても会いたいの」
「だったら」
「でも、怖いのよ。勇気が出ないの。アスベルの事になると、私はすごく臆病になって足が竦んでしまうのよ」
 砂糖菓子は甘いと知っている。その一方で、食べすぎは身体にはよくないという事も重々承知している。触れてみたいと思うけれど、触れすぎると壊してしまうんじゃないかと思うと怖い。近すぎても遠すぎてもだめになってしまう。恋ってなんて難しいものなんだろう。臆病な私には、到底扱いきれない代物ではないだろうか。
 けれどソフィは、まっすぐで素直な彼女は、しっかりシェリアの手を握って勇気付けるように笑った。
「大丈夫、怖いならわたしが一緒にいるよ」
「ソフィ……」
 花のような笑顔を目にすると、不思議と今まで暗いほうへ向かっていた思考がクリアになっていくのを感じた。そうだ、怖がってばかりじゃ前に進めない。自分の中に浮かぶ本当の気持ちを大事にして、一歩踏み出す大切さ。それを教えてくれたのはソフィだった。余計なものを全部取り払って、最後に残った言葉がシェリアを突き動かす。
「うん、そうね。怖がってちゃ何にもならないものね」
 そうだ、やっぱり私は会いたい。アスベルに会いたい。
 手紙には書けなくても、言葉にはできなくても、その思いは変わらない。

 ソフィの澄んだ目がゆっくりとまばたきをした。彼女はシェリアの表情を見ると嬉しそうに微笑む。そのまま軽く手を引かれ、シェリアは導かれるようにして外に出た。


 鮮やかな花壇を通り過ぎ、守護風伯の回る音を聞き、すれ違う住民と挨拶を交わす。
 ラント邸の大きな屋根が見えると、シェリアの心臓は再びせわしなく動き始めた。
 やっぱりどきどきする。何て言おう。何て言われるだろう。ぐるぐると回る思考が足元を支配していく。ああ、どうしよう。やっぱりやめようか。そういえば帰ってきてから、きちんと身だしなみを整えていない。お気に入りのリボンを着けてくれば良かった。もしかしたら変な事を口走ってしまうかもしれない。みっともないところを見せてしまう。会いたくない。でも会いたい。アスベルの声で、名前を呼んで欲しい。いつかしてくれたように髪に触れて欲しい。あのきれいなオッド・アイを間近で見たい。わがままな子供みたいに何でも欲しがる私を、受け止めて欲しい。
「あ」
 突然ソフィが足を止めた。思考に気を取られ、俯いて歩いていたシェリアはいつの間にかラント邸のすぐ近くに来ていたことに気が付いた。
 どうしたの、と問うまでもなく、顔を上げたシェリアは自然と繋ぐ手に力を込めた。誰かが屋敷の庭先からほとんど駆け足でこちらに向かってくる。ソフィは手を振ってふわりと笑う。
「アスベル」
 そんなに大きくない声だったけれど、アスベルにはしっかり届いたようだった。彼は軽く手を上げながら、もうすぐそこまで近づいている。
 どうしよう、まだ心の準備が。シェリアの心臓はこれ以上どうにかされたら壊れてしまうんじゃないかというくらいにフル回転している。頭の中は真っ白だ。
「シェリア、さっきフレデリックから聞いたよ。帰ってくれるなら連絡くらいよこしてくれたっていいじゃないか」
「え、ええ……と、ごめんなさい」
 シェリアが軽いパニックに陥っているとは知らずに、アスベルは傍に来るなり不満げに眉を寄せてシェリアを見た。どう答えたらいいものかと困ってソフィをちらりと見ると、彼女は握った手の繋がりをもう少し強くして、唇だけを動かす。
(シェリア、がんば)
 エールを送られてもこれは思っていたよりも勇気がいる。ただ目の前に立つだけでこんなに緊張するなんて変だ。幼なじみなのに。
 シェリアは細く息を吸って、ゆっくりと吐く。ぐるぐると未だに混乱している頭の中から、たった一言だけをなんとか搾り出した。
「あの、……ずっと会いたかった、の」
 ただいまよりも先に出てきた言葉に、シェリアは急に恥ずかしくなって俯いた。もう少し何か、自然な言葉があったんじゃないかしら。心臓がうるさい。アスベルに聞こえていたらどうしよう。全身の血液が沸騰したんじゃないかと思うくらいに身体が熱くなる。どうしよう。やっぱり引いた?ああ、お願いだから何か言ってよアスベルのばか。
 やっぱり今のなし、とでも言おうかと唇を開いたのと、指先で前髪に触れられたのがほとんど同時だった。びっくりして顔を上げると、アスベルは困ったように眉を下げて、でも確かにほんのり頬を染めて笑っていた。
「いきなりそれは、ちょっと反則じゃないか?」
「反則って……」
「何と言うか、心の準備ができない」
 照れたように笑うくせに、きっぱりとそういう事を言えるアスベルがほんの少しだけ憎らしい。心の準備って、何よそれ。唇をとがらせるとアスベルは今度はにっこりと笑った。
「シェリア」
「何?」
 ふと名前を呼ばれてどきりとした事を気取られないように素っ気無く返事をすると、アスベルは今度はシェリアの肩に触れて、そっと抱きしめた。
 突然の事で声すら出ない。ソフィにするりと手を離され、シェリアはやり場のなくなった手をしばらく宙に彷徨わせる。仕方なくアスベルの肩に添えると、呼応するかのように、苦しいくらいに腕の中に閉じ込められた。
「おかえり」
 耳元で囁く彼の声がくすぐったい。アスベルの鼓動が触れたところから伝わる。どうやら彼も私と同じくらい、充分に心臓を酷使させているみたいだ。
 何だ、本当に怖がることなんてなかったんだわ。
「ただいま」
 シェリアは目を閉じて、アスベルの抱擁にそうっと応えた。
 わがままに貪欲に何でも欲しがるシェリアを、こんなふうに抱きしめてくれる。それが残酷なくらいに優しくて、あったかくて、心地良い。
 臆病でもいいんだろうか。わがままな子供みたいに、あなたを求めても構わないのかしら、アスベル。砂糖菓子みたいに甘くなくっても、私はあなたが欲しいの。あなたがいいの。
 胸の奥で問いかけながら、シェリアはもう少しだけ、この抱擁が続けばいいと願った。互いのぬくもりだけを感じながら、シェリアは意味もなく何度もアスベルを呼んだ。

 一組の恋人が幸せそうに再会を喜びあう様を、ソフィはそれ以上に幸せそうに、彼らが我にかえるその時までいつまでも眺めていた。
(やっぱりこいびとは一緒じゃないといけないんだね、教官)
 大好きなふたりがとっても幸せそうに笑っていると、ソフィも嬉しくなる。本当はシェリアもずっとラントに残ってくれたらいいのにと思っているけれど、そんな子供みたいなわがままはシェリアを困らせるだけだと知っているから、言わない。
 そうだ、今度教官に手紙を送ろう。押し花もいくつか新しく作ったから、みんなにもこの幸せを報告しようかな。
 その素敵な思い立ちにソフィは一人楽しそうに笑う。大好きな人たちが、ずっと幸せに笑っていればいいのに。



100206// わがままスイートハート