瞼の裏で橙色の影が揺れた気がして、シェリアの意識はゆっくりと浮上した。
 眠りにおちてどのくらい経ったのだろう。……そういえば旅をしていた頃も、こんな風にふと目覚める時があった。
 ふかふかしたベッドの心地良さに夢と現実との境界線が曖昧になって、ほんの一瞬、自分がいる場所も、時間も、年齢さえもわからなくなる瞬間がある。真綿の真ん中にぽっかりと浮かんでいるような、不思議な感覚に捕らわれる。
 シェリアはまだ半分眠ったままの瞼を押し上げて天井を見上げた。ふわふわと夢から降りてきた意識の中で、淡く灯された光に影が揺れているのをようやく認識する。光源はきっとアスベルの机だろう。あんなに「早く寝なさい」って言ったのに。
「アスベル」
 まだ起きてたの、と続けようとした声は、寝起きのせいか喉に引っかかって掠れてしまった。それでも、夜の空気をわずかに揺らしただけの声は彼に届けるには充分な音量だったらしい。机に向かって何やら書き物をしていたらしいアスベルは、作業を止めて振り向く。
「ああ、ごめん。起こしたか?」
「ううん、なんとなく目が覚めちゃっただけ」
 寝起きで声がうまく出てこないせいか、または時間帯のせいなのか、二人とも声量は控えめになっている。
「あんまり遅くまで根つめちゃだめよ、領主様」
「大丈夫、もう少ししたらちゃんと寝るから」
「……そんなに仕事が山積みだったなら言ってくれれば良かったのに。そうしたらお昼のお茶だってもう少し早く切り上げられたわ」
「いや、別にこれは仕事じゃないんだ」
「じゃあ、何?」
 シェリアが不思議そうに眉を寄せるのと同時に、アスベルが苦笑した。
「手紙の返事。ちょっと保留してた間にすごい量になった」
「……ああ、そういうこと」
 机の上の紙束にぽんと手を乗せる仕草に、シェリアは吐息だけで笑った。自分から手紙を出す時はさらっと書けるくせに、返事になると途端にこれだもの。それなのに、ここ最近示し合わせたかのようにアスベル宛の手紙が一気に届いたのを覚えている。その中にはもちろんかつての仲間からの手紙もあった。
 アスベルはいつだって彼らへの返事を、事務的な文書への返答の何倍もの時間をかけて考える。シェリアだって同じ立場になれば、たくさんの時間を費やして文面を考える。伝えたいことを言葉にするのって、結構大変だ。机の上に積まれた紙の量から察するに、すべてに返事をするにはきっと膨大な時間がかかってしまう。そう考えると、自分の事ではないのにシェリアの眠気はまた少し晴れてしまった。
「良かったら、一緒に考えるけど……」
「え?」
「手紙の返事」
 思いつきをなんとなく口にしてみると、アスベルは困ったように笑った。

100317// シェリアに「領主様」って呼ばせたかっただけ




 再会したのは本当に偶然、としか言いようがなかった。
 幼い頃には毎日のように遊んでいたけれど、思春期になる頃には既にお互いが別々の道を目指すようになっていたし、忙しいのを理由になんとなく連絡も取っていなかった。幼なじみで、仮にも初恋の人なのに、私は彼のメールアドレスも知らない。
「この店、よく来るのか?」
 当たり前のように向かいに腰掛けるアスベルに少し戸惑いながら、私はノートパソコンに目を戻した。
「よく……というか、レポートを書くときはよくここに来るわ」
「へえ、そうなのか」
「うん」
 なんとなく会話が途切れた。
 誤魔化すように、すっかり冷めた紅茶を口に運ぶ。
「看護学校ってやっぱり大変なのか?」
 唐突すぎるアスベルの問いかけに、私は一瞬固まった。長年連絡もしていなかったのに、どうして知っているのかしら、と純粋に疑問に思う。
「どこで聞いたの?」
「フレデリックが言っていた」
「おじいちゃんが……」
「試験もいつもトップクラスだって自慢していたよ」
「そんな事まで言ってたの」
「シェリア、すごく頑張ってるんだな」
「……」
 そんなことない、と笑おうとしてもうまくいかなかった。
 久しぶりに会ったアスベルは、うまく言えないのだけれど、昔とは全然違うように思える。学校だって違ったのだから変わっても当然、なんだろうけれど。以前のように振舞おうとすればするほど、楽しく話そうとすればするほど、シェリアの身体はぎこちなく固まってしまう。
「アスベルは、どうなの?」
「え?」
「将来、警官になるって言ってたじゃない。やっぱり今も目指してるの?」
「ああ、そのつもりだったんだけど、もうやめたんだ」
 アスベルの空色の瞳が、一瞬翳った。
「親父の跡を継がなくちゃいけなくなったからさ。今経済学やってる」
「ふうん」
 小さい頃はヒューバートに押し付けようとしていたのに、何か事情でも変わったのだろうか。なんとなく聞けずに、シェリアは空になったティーカップを弄んだ。

100407// 現代に当て嵌めたらどうなるんだ→その結果がこれ