彼女を守ると決めたのは一体いつだったのか思い出すことはできないが、それが軽々しい決意でないことは自分自身がよく理解していた。うんと小さな頃から傍にいたせいか、その想いは日を追うごとに強く増していったし、いつもいじめられている彼女を守っているうちに、次第に彼女を守ることに使命感を持つようになったのも事実だ。だからこそ、彼女が囚われの身となった時はまるで自分の中の大切なものが抜き取られるような感覚がしたし、彼女を取り戻すためならばたとえ自分がどうなっても構わないとさえ思えた。彼女には自分がついていなくてはならないと思っていたし、彼女にとっての自分も、きっとそういう存在であるはずに違いないと確信していなかったといえば嘘になると言わざるを得ないだろう。
 幼馴染で、親の愛を知らずに寄り添い、助け合いながら生きてきた年の近い男女――くだらない恋物語ではいつだってハッピーエンドにつながるはずであろう関係だというのに、では現実はどうなのかというと、どうやら彼女の視線は専ら別の人間へと向けられていることを知ったのはつい最近になってからだった。

 故郷エルディアから遠く離れ、ついに囚われの身から彼女を救い出したまではよかったのだ。互いに再会を喜び、無事を確かめていた時には違和感など微塵も感じられなかった。久しぶりにまともに会話をした彼女の表情は、少し疲れが見えるものの以前と変わらない穏やかさと優しさが見受けられ、年下なのにどこかお姉さんのような雰囲気を漂わせる落ち着きさえあった。髪が伸びていなければ、囚われていたであろう時間すらも感じさせない彼女の様子に安堵したのをよく覚えている。隣では何かと世話になった軍人の青年や、その上官の奥さんも穏やかに彼女を見ていて、ひどい怪我を負ったはずのおっさんでさえ、彼女の無事に自分の痛みも忘れて涙ぐむという始末だ。
 これでやっと、彼女と共に故郷に帰れる――そう思うと、安堵から今までの疲れがどっと溢れ出そうになるのを堪えて目の前のやり取りをぼんやりと眺めていた時だった。
「ニア!」
 カイゼルシュルト城内、それも王の御前だというのにも関わらず、声を張り上げてこちらに駆けて来る姿が見えた瞬間、彼女の表情がさっと変わった。驚きの中にほんの少しだけ、――ああ、認めたくはないが――歓喜の色が見えたその表情は、10年以上もの間ずっと傍に居たにも関わらず、今までに一度も見たことがない類のものだった。
「レイナス!」
 彼女の唇が知らない男の名を呼ぶ。仲間の青年と同じ、カイゼルシュルトの青い軍服に身を包んだ年若い男がニアと親しげに会話を交わしはじめたところで、なんとなく、気付きたくないことに気付いてしまった。おっさん達が楽しそうに会話に混じっていく中で、自分だけがどこか遠いところに取り残された気分になった。



「こんなところにいたのか、ザード」
 控えめに呼びかけられて、初めて背後の気配に気付く。慌てて振り向くと、夜の色に溶けるようにして、軍服を着崩した青年が珍しく穏やかな表情をしてすぐ傍にいた。こんなに近くに来るまで気付かなかったなんて実戦では死ぬぞ、などと釘を刺されるのが常だが、今日は何も言わずにすっと隣に並んでくれた。彼はいつだってそうだ。多くを語らずに傍にいて、くだらない話でも愚痴でも何でも受け止めてくれる。何も言わなくても、必要な言葉をくれる。それはザードには有難いことだったのだが、今この時だけは正直そっとしておいてほしかった。
「ロナード、」
「どうした」
 今は一人にしてくれ。そう言いかけて言葉に詰まる。
 どうした、と再び問いかけてくる声に「やっぱなんでもない」努めて明るい声で返した。そうだ、別に大したことじゃないさ。ここでセンチメンタルになるなんて俺らしくもない。
 ザードはわざとらしく深呼吸をしてから、空を見上げた。故郷よりもずっと近づいた筈なのに空はやはり遥か高いところに続いていて、空の国なのに頭上にもまだ広がってるなんて何だか変な感じだよなあ、とどうでもいいことを一瞬考えた。
 明日にはこの光景ともお別れかと思うと名残惜しいが、あの薄暗いエルディアの固い大地が懐かしくも思えて不思議だった。帰還の時が近づいて、理想郷と謳われた空の国をあまりゆっくりと廻れなかったことが少しだけ残念に思える。
「結局、クラウディアに来てもバタついて色々見れなかったなぁ。なんだっけ、あんたが前に話してくれたフルーツの」
「ミルザか」
「そう、ミルザ。俺そっちにも行ってみたかったな。いいところなのか?」
「いや、俺も行ったことがない。ミルザ地方は何度か軍艦で通り過ぎたが、ミルザに降りたことは一度もない」
「そうなのか? 意外だな」
「何がだ」
「ロナードはクラウディアのこと色々知ってるかと思ったからさ」
「……俺はカイゼルシュルトの騎士だ。そうやすやすと諸国を廻ることはできんさ」
「そっか」
「ああ」
 それきりロナードが押し黙ったので、自然とザードも口を閉ざす。

 クラウディアの夜はエルディアに比べて明るい。きらきらとした小さな光が上空に瞬いていて、更にそれらを見守るように大きな丸い光がやさしく足元を照らす。クラウディアに来て初めての日にラナがはしゃいでおっさんに色々聞いていたっけ。その時の会話を思い出しながら、
「月、かあ」
 気付いた時にはまだ言い慣れない単語を呟いていた。
 最初にあの光を見た時、ニアにとても似た光だと漠然と思った。眩く強い光というよりも、やわらかくやさしく包み込む姿がニアの姿と重なる。クラウディアで夜を迎えるたび、あの頭上に浮かぶやさしい光を見上げて、苦しんでいるであろうニアのことを、そして立ち向かうべき敵のことを思いながら眠りに就いていたのだが、その旅が終わった今では月はただの真ん丸い光にしか見えない。
「昔の話だが、」
 不意にロナードが口を開いたので思わず見上げると、珍しく彼が若干困ったような、どこか楽しいような笑顔を浮かべているのが見えた。
「月が欠けるのは誰かが食べてしまうのだと言っていた奴がいたな」
 どう思う? と言わんばかりにちらりと目だけを向けられて、ザードは思わず笑う。ロナードが真剣に問いかけているわけではないということはその表情でわかった。
「……なんだそれ。よほど喰い意地張ってるやつじゃないと喰えねーよあんなもん」
 クラウディアに来たばかりのザードでさえ思わず笑ってしまうほど、子供っぽい話だ。
 ロナードも何かを思い出すような目で月を見上げながら、(本当に今日のロナードは珍しい)ザードに倣うように微かに笑った。
「奴も冗談だったんだろうがな、会ったばかりの時にそう言われたから一瞬そいつの頭を疑ってしまった」
「あはははは、ひでぇー! てかなんか想像つくな、そん時のロナード」
「先に言っておくが、お前の想像よりはマシな対応だったと思うぞ」
「そんなん本人に聞かなきゃわかんねーって」
 そこまで言って、ザードは彼の語るその人について思い当たってしまった。
 はっ、と一瞬止まってしまったザードの表情に、ロナードもザードが思い当たったことに気が付いただろう。

 ああ、そういえばロナードと凄く親しそうにしていたっけ、あの人は。聞けば士官学校時代からの一番の親友らしい。カイゼルシュルトで何度か噂を耳にして、初めて見たのは城内でのことだった。人懐こい笑顔で挨拶され、初対面だというのにその人柄が嫌でもわかってしまって、なんとなく気圧されてしまったのを覚えている。軍服を着ていなければ軍事国家の大尉だなんて誰が気付くだろうか。いや、それよりも(ニアはどうやって彼と知り合ったのだろうか)。
 ザードは再び、なんとなく口を閉ざしてしまった。ロナードも何か考えているらしく、ザードから目を逸らすように月を見ている。月までは遥か遠く、それこそ街の一番高い建物の屋根に上って手を伸ばしたって、かじるどころか指先すら触れることができないほどの距離がある。ためしにここから右手を伸ばしてみても、空気に触れるばかりで何も掴めない。よく見ると今日は満月ではなく、ほんの少し削り取られたような不恰好な形になっていた。
「月ってどんな味がするんだろーな」
 あまり深く考えずに呟くと、二呼吸ほどの間が空いてから声が返ってきた。
「さあな。食べた奴に聞くしかないだろうさ」
 誰だよ、それ。苦笑して、不意に月から目を逸らした。やっぱり幼稚な話だよなあ、と笑ってから、実年齢よりも幼く見える彼の黒い瞳を思い出す。彼は月に手を伸ばせるのだろうか。ザードの手では掴めないものに容易く触れることができるのだろうか。もしもそうだとして、じゃあ俺はどうしたらそこまで手を伸ばすことができるんだろうか。届く日は来るのだろうか。

「ああ、もうやめだ、やめ。他にもたくさん考えなきゃいけないことがあるのに、いちいち気にしてられるか!」
 雑念を振り払うように大声で叫んで見せると、ロナードの長身がびくりと一瞬震えて怪訝そうにこちらを見下ろしてきた。彼の胸中が言葉にせずとも伝わってくるような、その若干冷たい視線に応えるために、ザードは笑ってみせる。
「よし、そろそろ戻ろうぜ、ロナード。明日は朝早いんだろ」
「……先にお前に言われるとは、俺も堕ちたものだな」
「どういう意味だよ!」
 苦笑して先に立つロナードを早足で追いかけながら、夜中にも関わらずザードは大声ではしゃぐ。あんまり煩いものだからご近所の迷惑になるのではないだろうかとロナードは危惧したが、今までの旅路のことやザード自身のことを思うと、それを諌める気にはあまりなれなかった。



 彼女を守ると決めたのは一体いつだったのか思い出すことはできないが、軽々しい決意でないことは自分自身がよく理解していた。うんと小さな頃から傍にいたせいか、その想いは日を追うごとに強く増していったし、今この瞬間にもその想いは少しずつ大きく育っている。だからこそ、彼女がいつどこにいようとも守り続けなければならないし、それがザードの生き方で、それしかザードは知らない。ニアだけがザードにとってのすべてで、ザードのすべてを誰かに横から取られる可能性については、今は考えたくない。考えたくもない。屋根に上っても手が届かない存在ならば、最初からザードは手を伸ばしてなんかいないはずだ。



080424 // ムーンイーター
キャラが把握できてないのに書くとこうなる。