以前からミリィは、ふとした時に突拍子もない発言をすることがあった。 そしてそれはミラに落ち着いた今でも、変わることなく続いている。 彼女の癖は今も昔も変わらずに、僕のこころの中をすうっと通って、あたたかな空気で満たしてくれるから、そういう些細なことすら、ミリィを好きな理由のひとつだったりするのだけれど。 柔らかな風が心地良い午後の時間だった。 彼女が入れた、なんとかといった花の紅茶の香りが意外と強くて、咽そうになりながらカップを手にした丁度その時、いつもの彼女の不意を突く発言が飛び出した。 「ねえ、サギ。サギは海の底って、どんな感じだと思う?」 「海?」 「そう、海」 鸚鵡返しに尋ねたら、案の定そのままに返され、僕は普段あまり馴染みのない単語を何度も口の中で反芻してみた。海。うみ。 「どうしたの、急に」 「ま、ちょっと。ね。――で、どう思う?」 どうといわれましても。 僕はしばらく悩んだけれど、とんと答えは浮かばない。古代では確かにその貴重なお姿を拝見こそしたものの、浮島のあるこの時代で生活する者としては、やはり海は異質で、神聖で、最も遠い存在だ。 それなのに唐突に、あろうことか“海の底”だなんて。 「想像もつかないよ。ミリィは?」 「そう。……実は私も」 「やっぱり、ミリィも?」 僕は軽く苦笑しながら、紅茶をひとくち啜った。案の定強い香りが、舌よりも鼻腔に刺激を与えてくる。ミルクでも入れれば少しは変わるだろうか。 「実はね、昨日、本で読んだの。ある科学者の海に関する想像と理論なんだけど」 ミリィはそこで軽く息を吸い、楽しそうに続ける。 「昔は、凄く広い大地があって、見渡す限りどこまでも果てしなく続いてたでしょう?――それを地平線っていうらしいんだけど。で、それよりもずっと広い面積を持った海が、果たしてどんな色でどんな味でどんな生き物がどのように生活してたのかって、その人の想像で全部書いてあってね。読んでるうちに、私、空もいいけれど海もとっても素敵なものなんじゃないかって思えてきて」 僕は楽しそうなミリィを眺めながら、カップの中にミルクを垂らす。相変わらず初夏の風は心地良くて、そのせいかミリィの表情がいつもよりきらきらして見えるから不思議だ。 「だけど、どのページにも誰が書いた本にも、海の外見の想像は載っていても海の底までは記述されてないのよ。夜明けに染まる水面も、魚の種類も書いてあるくせにね」 「なるほど。それで、誰も書いていないのなら僕らで想像してしまおう、ってわけだね」 「そういうこと。……でも、悲しいことに何も浮かんでこないのよね」 もっと想像力を鍛えておくべきだったわ、とぼやくミリィがなんだか可笑しくて、僕はカップを傾けるふりをしてこっそり笑った。 彼女らしいといえば、らしい考えだ。遠く古代に思いを馳せるなんて、なんともロマンチックじゃないか。(実際、海なんてこの目で確かに見たのだけれど) 「もしかしたら、空でも見ていたら思いつくかもしれないよ?」 なにしろ空は現代の人々にとって生活の基盤なのだ。古代の人々にとってのそれが海ならば、空でもぼんやり見ていたらいつか海の底を垣間見れるんじゃないだろうか。 それが幻覚であれ、白昼夢であれ、彼女と同じ世界に立てるなら本望だ。こんな一見時間の空費にしか見えないことは、若いうちじゃないとできっこないし。 半ば冗談混じりで言ってみたら、ミリィはぱっと顔を輝かせる。 「いいわ、サギ!これから夜が明けるまで、空を眺めるのも悪くないわね」 そういうわけで、ミリィ(この場合は、もしかしたら僕になるのかもしれない)のふとした発言から、今夜は明け方まで天体観測でもしようということになった。 無論、夜空は果てしなく広がる海原、輝く星座は魚に見立てた、こどもの遊びのようなもので、ロマンチストな科学者の想像も理論も全部そっちのけで空想する。 バランソワールから見える夜空は、僕らにはもう黒や紺には見えず、どこまでもカラフルな海の底として頭上に広がる。 地平線のように、遥か彼方、果てのない世界が広がっていく。 結局、夜が明けても海の底の様子については結論が出ず、ミリィも僕もその話題はいつの間にか忘れていった。どちらかというと、ミリィのほうが早く忘れてしまったのだけれど。(言いだしっぺのくせに) 僕は、まあ。彼女の、そういうところも好きと言えば好きなので、特に何とも言わないでいる。 ミリィもミリィで、癖も気質も直す気はないようなので、きっとこれからもこんな調子なんだろう。 060904//夜明けの地平線 漆黒に堕ちる夜闇の中、灯されたランプがひとつ。たったひとつの光源にも関わらず、意外にも明るいそれは部屋全体を柔らかなオレンジ色で照らして、しあわせな空気でいっぱいにしてくれる。 私は指先でシーツを撫でた。さらさらした感触。スプリングの効いたベッドにうつ伏せでダイブしたまま、身体は縫い付けられたように動かない。ただ手だけが、真っ白なシーツの感触を楽しむためだけに往復を繰り返している。 「楽しい?」 ふと笑う優しい声が、耳に心地良い。からかうのではなく、慈しむような言い方が、私はとても好き。 私は無言で頷いて、再び白い波の中で戯れた。 「ミリィ」 間を置いて、再び落ちる声。 今度は顔を上げてみたら、真っ先に深い翠の双眸と出会う。夕暮れの少し霞んだ空のような、一度視界に入れてしまうと目が離せなくなる深い色。エメラルドの色だわ、といつも思う。何もかも癒してくれる、魔法の石の色。恥ずかしいから、そんなことは死んでも言えないけれど。 「何?」 と、言葉にするより早く、サギは腰掛けていた縁から身体を乗り出す。私の上に覆いかぶさるような形で。唐突な錘の移動に、悲鳴を上げるスプリング。私の身体は少し浮き上がる。手の動きは止まったままで、代わりにぴょん、と脚が跳ねた。自分でも滑稽だと思う格好。 「な、何よ突然」 驚くぐらい脈打つ心臓。煩くて嫌気が差す。どうかサギに聞こえませんようにと祈る。ところがサギのほうはというと、大した変化もなくいつも通りの笑顔を浮かべて「全然何でもないよ」といつも通りの声で笑う。私の大好きないつもの笑顔で。 その顔をちゃんと正面から見たくなって、身じろいで首が痛くないように枕を引き寄せる。お互いに目が合うと、自然と笑みが零れた。それからはお決まりのパターンで、どちらからともなくキスをする。 「消していい?」 返事を待たず、枕元のランプに手を伸ばすサギを制止する間もなく。ランプは光を失って、代わりに月明かりがお互いの顔を照らす。そういえば今は夜だったわ。当たり前のことを今更考えて、私はそっと目を閉じた。 060915//幸福のランプ 「残念ね」 ふぅ、と溜息をつく同僚に、何が? とは訊かなかった。確かめなくてもわかる。大樹のことだ。 「今年も花が咲かなかったわ。これでもう2度目よ」 「2度目ということは、これでもう60年間も花を咲かせていないのね」 そうね、と同僚が大樹を見上げたので、私もそれに倣った。 今年の三十年花の祭りも、さぞ寂しい気持ちになるだろう。 アヌエヌエの誇りであり象徴ともいえる天の樹が、30年前と同じように花を咲かせずに沈黙を貫き通している。祭りは平年通り執り行われるということでコモ・マイは活気付いているが、三十年花が今年も咲かなかったという落胆と戸惑いは、そう簡単に隠し切れるものではない。 「残念ね」 同僚は再び溜息をついた。どうやら今度は大樹のことではないらしく、天を仰いでいたその瞳を不意にこちらに向けた。が、自分には思い当たる節がないので、今度こそ問い返してみる。 「何が?」 「あんたのこと」 「私?」 何がなんだかわからない。 「あんた、今年結婚するって言ってたでしょう」 「うん、そうだけど」 「きっと天の花に祝福してもらえる、って、あんなに嬉しそうだったじゃない」 ――絶対咲くわ!だって天の樹が何十年も花をつけないなんて、聞いたことないもの! 私は数ヶ月前に自信をもって断言していた自分の言葉を思い出し、わずかに苦笑した。 「結局咲かなかったけどね」 「まあ、ね。……でも、向こうで式挙げるつもりもないんでしょ?」 「もう何から何まで決めちゃったしね。花嫁衣裳も作ったし」 「私が今まで見た中じゃ、きっと一番天の樹の蕾に近い色だわ」 「染めたのはあなただもの。感謝してるわ。彼には最初、向こうのドレスを薦められたんだけど。なんかしっくり来ないのよね」 「ディアデムの花嫁衣裳は綺麗な赤だもの。大陸の周りを取り囲む雲の色。夕日に染まったような赤。この間読んだ本に、"お嬢さん、ディアデムの雲のような頬をしてますね。"なんて文章があったけど、あんたもきっと彼に言われるに違いないわね」 「なあに、それ。私ってお嬢さんなんて呼ばれるようなしおらしい子かしら?」 「それもそうね」 「そこは否定するところでしょう」 私は頬を膨らませて見せたが、同僚はしばらくの間くすくすと笑っていた。 「ねぇ」 「なに?」 「守り番はもう、やめちゃうんでしょう?」 「……」 同僚の寂しそうな声に、私は咄嗟に言葉が浮かばなかった。 「あのピンクのドレス着たら、もうそれで最後なんだよね」 「そんなこと、ないわ。これからもいつだって会えるじゃない」 「あら、だって私はまだ守り番を続ける。あんたはディアデムの騎士の花嫁になる。守り番は天の樹から離れられないし、騎士の妻なんて、きっと守り番よりも大変よ」 「大丈夫よ。定期便があるでしょう。暇を見つけて、それで会いに行くわ」 「……そうね」 「そうよ」 それきり、私たちは黙り込んだ。 風が吹いて、天高くそびえる大樹の葉が揺れる。 ざわざわ、さわさわと心地良い音がして、次第に大樹のふもとに深緑の葉が舞い降りて積もり始める。 三十年花が咲いたら、緑色の葉に混じって淡い薄紅の蕾や濃い色に染まった花弁が空一面に舞い、風に遊ばれてアヌエヌエ中どこにでも降り注いでくるといわれている。その様は妖精の舞いのように例えられているというが、私は未だ一度もお目にかかったことはないので、それが誇張であるか真実であるかは知らない。 それでも、子供の頃に文献を読んで以来、ずっとアヌエヌエの青い空にぱっと花が舞う瞬間を夢に見続けてきた。 その夢も今年ついに叶わなかった。 守り番から離れ、天の樹の傍近く仕えることもやめてしまう。 何百年も生きてきた大樹は時期もとうに越えたというのに沈黙したまま。妖精が舞い降りる気配は微塵も感じられなかった。 「30年後に」 私が口を開いたので、同僚は大樹を仰ぐのをやめた。同僚の視線を感じながら、私は微笑む。そうしてゆっくりと、私は約束の言葉を唇に乗せた。 「30年後に、一緒に天の花を見ましょう。次はきっと、ううん、絶対に咲くわ」 「そうね、次はきっと」 彼女が笑って、私はほっと息を吐いた。 葉擦れの音が頭上からやわらかく降り注ぎ、ふわりといくつもの葉が舞い落ちる。 私はそっと目を閉じて、胸の前で手を組んだ。 この風が花弁を運ぶ時を夢見て、今はただ、こうして祈ることしかできない。 060216//花弁を運ばない皐月 ※流血表現注意 叫び声が耳に痛い。 きっと誰かが泣いている。悲しくて、痛ましい声。 あれは親しい誰かの声だったか、それとも見知らぬ誰かのものだろうか。 もしかしたら誰のものでもないかもしれない。 ああ、きっとそうだ。だってこんなかなしそうな声は一度だって聞いたことがない。とにかく、それがうるさくて仕方がない。 一瞬で、身体のすべてを断ち切られたようだった。 腹部に感じた重い衝撃のあと、痛みよりも鋭い冷たさと鈍い熱さが身の内を焼く。熱は腹部から背中の方へ一気に突き抜け、蛇か、さもなくば棒のような何かが体内に押し込まれたような気持ち悪さを感じた。 それと同時に、熱い、どろりとした奔流が腹部からあふれる。重力に従って滴り落ちる筈のそれは、未練がましく衣服に吸い付くようにして広がっていく。 ゆっくりと自らの身体を見下ろすと、硬い人形の腕が腹部から生えているのが見えた。通りで嫌な異物感を感じたわけだ。 しかしこれはなんだろう。なにがどうなっているんだろう。 どうして自分は――この人形と相対しているのだろうか。 意味のない思考がぐるぐると、遠のきそうな意識を縫いとめるように巡り続けている。 腹を貫く腕を辿っていくと、人形の頭部がそこにはあった。自分の身体は、その腕によって持ち上げられているので、自然と見下ろす形になる。 いつだったか、あの丘の上で長兄に抱えあげられた時のことをふと思い出した。随分重くなったな、――。そうして笑って名前を呼んで、言葉の割には軽々と空に掲げられたっけ。 そういえば彼は今どこにいるんだろうか。彼らはどこに。5人で1つと誓ったのに、そういえばいつの間にかはぐれてしまっていた。探さなくちゃ、きっと待ってる。人形の相手をしてる暇、なんて、ないのに。 (離せ、) 唇を動かしてみたけれど、喉から言葉が出ない。代わりに腹部から流れているものと同じものが、とろりとこぼれた。 急に寒さを覚える。 こぼれた液体が人形の腕に落ちて、重力に従って落ちていく。 きもちわるくないのかな。霞む頭でそんなことを思った。 人形の表情はわからないけれど、爛々と光る双眸は何の感情も示さずに、こちらを見返している。 遠くで誰かの叫びが聞こえた。さっきよりもはっきりと、だけど滲んだインクのように曖昧にしか聞き取れない。どこか懐かしい気さえした。 ああ、行かなきゃ、行って助けなければ。 ごにんでひとつなのに。ここにひとりで、いたら、みんなをまもれない。 人形と、目が合った。布に覆われて見えない顔面は無機質であるのに、どこか人間味がある気がする。隙間から覗く双眸に込められているのは何だろう。怒り? 憎しみ? 哀れみ? そういう類の激情が自分に向けられることはあんまりなかったから、判断はつけられない。自分が一番年下だから、とかいう理由で、いつもみんながそういった悪いものから守ってくれていたから。 今度は自分が守らなければいけない。そのために力を手に入れたのに。ここで使わなければ意味はないのに。 ああ、耳が痛い。 誰かが、どこかで泣いているような声が、聞こえる。 視界が闇に侵されていく中で、人形が今まさに腕を振り上げるのがやけにゆるやかに感じられた。 瞼を閉じて、こころを研ぎ澄ませれば届くだろうか。この叫びが、一心同体の誓いを交わしたきょうだいたちのもとに。 071126//破られた誓い マーノは甘やかされ末っ子のイメージ。 |