前国王、リリアノ・ランテ=リタント=ヨアマキスは、神の国へと去った。
 その知らせを聞いた時、私はどんな反応を示したのかはっきりと覚えていない。
 ただ一つ、私は選定印を持つ寵愛者でありながら、神に見捨てられたのだとその時に悟った。
 彼女が去った今、もう誰も彼を止める事はできやしない。ましてや表舞台から葬り去られた私に味方してくれる者など、どこに存在するのだろう。
 私は永遠にこの場所に縫い付けられる。きっと私自身が神の許に招かれる時が来ようとも、このフィアカントに魂ごと縛り付けられる。そんな予感さえして、一つ身震いした。有り得ない話じゃない。彼だったらきっとそうする。誰よりもこの城に縛られた彼は、私が故郷に想いを馳せる事すら許さなかったのだから。


***


 窓の向こうから鳥の鳴く声がかすかに聞こえ、私は寝台から身を起こした。横になったままなかなか寝付けず瞼を閉じてまんじりともせず過ごしていた記憶があったのだが、どうやらいつの間にか眠ってしまっていたらしい。私は何の感慨もなく窓を見た。明かり取りのための小さな窓は、外界の青空をいやに小さく切り取っている。
 ふと、私がここに来てどれ程の時が経ったのかと考えかけて、やめた。
 数えるのも面倒だし、意味がない。今の私には昼も夜も区別がつけられない。何しろ自由がない。やる事と言えば、日がな一日中寝るか、ぼんやりと起きているかだ。もしくは口数の少ない侍従が運んできた食事を口にし、また数日に一度沐浴をさせられる。それだけだった。本の一冊、花の一輪でもあれば幾分か気が紛れるだろうに、私にはそれらの所持すら許されていないのだった。

 私は額にそっと触れる。そこには神に愛される者である証が、今も鈍く輝いている。そして確かに私は、誰よりも神に愛されていた筈だった。田舎で育った、文字も読めない、礼節すらない、ただの子どもだった私が、玉座を手に入れるに相応しい人物であると誰もが認める程成長したのだ。――彼の剣に屈することがなければ、今頃玉座に座していたのは他の誰でもない、私だった。
 もしもあの時、と詮無い事を考えて、私は再び寝台に倒れこんだ。行儀は悪いが、誰が見ているわけでもない。ころりと転がって、目の奥が熱くなった一瞬の感覚をなんとか忘れようと努力した。長く伸びた髪が鬱陶しい。乱雑に払いのける手は、子どもの頃とほとんど変わっていない。細く弱弱しい手だ。この部屋で過ごすようになって久しく体を動かしていないから、剣の握り方も忘れてしまった。
 この部屋には鏡石すらないから、今私がどんな顔をしているのかわからない。体の方は成人して幾分か丸みを帯び、少しだけ背が伸びた。篭りを終えてすぐは鏡石を覗き込んで、私の面影を残す女がこちらを見ていることに驚きはした。でも今はきっと、およそ女性らしい顔はしていないんだろう。消耗しきった死人みたいな顔をしているに違いない。だって私は今、生きているという実感がないもの。
 ただ「生きる」という行為は惰性でずるずると続く。食事をし、眠り、目覚める。これを繰り返すだけの日々。世話をする侍従は皆一様に口を閉ざし、最低限の事しか口にしない。自害などせぬようにと、調度品にも配慮がなされている。
 私は飼われているのだ。羽を切られた小鳥と同じ。ただ一つ違うのは、飼い主は鳥を嫌い、籠には一切近寄ろうとしない事だ。誰にも必要とされず、羽を切られては空すら飛べず、籠の中でじっと、時が過ぎ去るのを待つしかない。ただそれだけの毎日。いっそ殺してくれたらいいのに、と私は思う。彼がそこまで私を憎むのなら、私は彼の手にかかって死にたい。だけど彼は私のそんな思いを知っているから、殺さないでおく。生かし続ける。
 一体、いつどこで歯車がかみ合わなくなったのだろう。
 彼も私も、確かにあの時は心を通わせていた筈なのに。

「レハト様、お食事をお持ち致しました」
 ぼんやりと考え事をしていると、神経質そうな声の後に扉が開けられた。どうやらいつもの侍従が食事を運んでくる時間になっていたようだ。私はなんとか返事らしい声を絞り出して、以降は何も言わずに物を口に押し込む作業に没頭した。こんな時でも一応作法に則って食事をするのがなんだか可笑しくて、時々私は笑みを漏らしそうになることがある。
 スープを少しずつ啜っていると、いつもだったら食事が終わるまで黙っているはずの侍従が、突然口を開いた。
「それと、本日は夕食までに身支度を整えるよう手筈を整えております故、昼食が済み次第沐浴の準備を致します」
 私は反射的に顔を上げた。
 身支度?籠の中で着飾って一体何をしろと言うのだろうか。
 私が疑問を口にする前に、従者は再び口を開いた。
「陛下がこちらにいらっしゃいますので、お見苦しい姿をお見せになりませぬよう」
 その一言で、私は凍りついた。
 陛下。
 その言葉が意味する人物は、今の世には一人しかいない。
 私をここに閉じ込めている張本人。私を憎む人。武力を以って私から王位を奪った人。子どもの頃、一緒に無邪気に遊んだ人。もう一人の寵愛者。神に選ばれた子。――私が愛した人。
 私は硬直したまま、なんとか侍従から視線を逸らした。
 どうして今更。
 私をこの場所に押し込めて、ただの一度も会いに来なかった彼が、私を訪ねる事など一生ありはしないと思っていた。彼はそういう人だ。彼を裏切った者は、決して許さない。いい意味での訪問とは思えない。
「……わかりました」
 私はわずかに震えている事を悟らせないように、無難な返事をしておいた。それでも、強張った声がかすれていた事には気付かれているだろう。
 何事もなかったかのように、食事は再開された。食器が擦れて音を出さないよう、細心の注意を払う。彼の息がかかっている侍従に、動揺を悟られたくはない。震える手を制御するのに随分と苦心しながら、ゆっくりと食事を取った。

 侍従は何も言わず、食事が終わると一礼して去っていった。それと入れ替わりに、私の身支度を整えるために数人の侍従が扉をくぐる。
 身体を清め、髪に櫛を通し、運ばれた衣服に袖を通す。ただそれだけの作業だが、今日はやけに時間をかけて丁寧に磨かれ、髪を整えられ、数着のドレスを宛がわれた。舞踏会へ出席するためのような華美な物ではないが、貴人達とお茶を共にするには丁度良いくらいの華やかさは備わっている。
 これ程身を飾るのは実に久しぶりの事だった。
 城に来てまだ間もない頃から次代の王が決まるまでの期間は、気心の知れた二人の侍従があれやこれやと身の回りの世話をしてくれていた。昔と違うのは、ドレスのスカートの広がり具合や、首元や髪を飾る物まで気を配られる事と、侍従達が終始無言で作業を続けるために物音が大きく聞こえるくらいだろうか。かつて私に仕えていた、きちんとした敬語も使えるか怪しかった侍従の明るく優しい声が急に恋しくなった。彼女に貰ったケープは、今どこにあるのだろうか。私物は一切持ち込めなかったから、あのお気に入りだった品に縋って泣く事すらできやしない。

 支度が整って侍従が去ってからが長かった。
 永遠の時が流れたように思う。寝台の隅に座って、何をするでもなく目を閉じていた。あんまり昔の事を思い出すと泣いてしまうに違いないとわかりきっていたのに、私は過去の事ばかり思い出していた。二度と会う事がないと思っていた彼が訪ねるというのだから、感傷に浸ってしまうのも無理はない。
 城に来て右も左もわからなかった田舎者だった私を、彼は手を取って引っ張り回してくれた。彼がいたから城での生活も苦ばかりではなかったし、私は彼を気に入って、彼も私を気に入ってくれた。私は彼に感謝していた。だけど、大好きだった村と、彼と共にいる事を天秤にかけた時、ほんの少しだけ故郷に傾いたのがいけなかった。歯車はわずかに、けれど決定的にずれてしまった。
 ずっとここにいると約束はできないと伝えた時の彼の表情を、私は生涯忘れられない。今だって、あの瞬間を時々夢に見る程だ。夜の湖に広がる静寂の中で、私は彼の絶望に叩き落されたような表情を黙って見ている。暗い湖の奥底から何かが囁きあう。そんな夢を。

 過去に戻ってやり直せるのなら、私はあの湖でのあの瞬間に戻りたいと思う。
 でも、それはもしもの話。御伽噺にだって、そんな陳腐な奇跡は起きやしないのだ。

 自嘲気味に思考を打ち切って、私は目を開けた。
 もう夕刻に近いのか、外はすっかり暗くなってしまっている。
 私は机の隅に置かれた明かりを灯し、その時を待つ。温かみのある光が部屋を照らしている分、部屋の端にうずくまる闇は幾分か濃くなった気がする。それはまるで彼みたいだ、と咄嗟に思いついた。底のない暗闇を明るさで覆い隠して笑顔を浮かべている子どもの頃の彼の姿が、優しくゆらめく炎の中に浮かんで見えた気がした。


***


 果たして彼は現れた。
 夕食までにという話ではあったが、結局夕食はいつものように侍従が無言のまま私を見ていたままで何の変わりもなく、ひょっとして彼は来ないのではないかと、安堵にも似た思いを抱いた矢先の事であった。
 呼び鈴の音もなしに扉は無遠慮に開かれ、驚いた私の目に映ったのは、紛れもない彼の成人した姿だった。
「よう、久しぶり」
 彼は侍従を下がらせると、昔のままに気軽に声をかけてきた。
 その気安さはいの一番に罵声か嘲笑でも飛んでくるのかと身構えていた私を戸惑わせるには充分で、私はどう反応していいかわからずに立ち上がる事しかできなかった。
「あんたさ、もう少し何か反応ないわけ? せっかく久しぶりに会ったんだし、何か言う事あるんじゃないの?」
 彼は唇に笑みを乗せて問うた。
 そっちが閉じ込めておいて久しぶりも何もあったものじゃない。私から王位を奪った瞬間はあんなにも鋭利な視線を私に向けていたのに――何となく恐怖を感じて半歩下がりそうになった瞬間、私は気付いてしまった。
 目が笑っていない。
 刃のように無機質な目が私を鋭く射抜く。私は何も言えないまま、かといって足も動かせず、ただじっと彼の顔を、目を見つめることしかできなかった。
 彼はまがい物の笑みを貼り付けたまま、一歩私に近づく。
「ここでの生活はどう? 何不自由ないように言い聞かせてあるから、生きる分には何も問題ないでしょ」
 靴音が響く。彼が私との距離を詰める音が。元よりそう広い部屋でもない。彼はゆっくりと、まるでわざと大きく音を響かせ、私に言い聞かせるように歩み寄る。
「ねえ、何か答えなよ。それともここにいる間に声を失くしちゃった? そんなわけないよね、レハト。あんたの精神はこのくらいじゃ死にはしない。ただ籠に入れておいて餌を与えるだけならその辺の鳥だってもう少し長く生きる。違う?」
 彼が近づく。私は咄嗟に一歩後ろに下がり――いや、だめだ。ここで逃げてはいけない。下がりそうになって、私は踏みとどまった。
「どうしてここに来る気になったの。私を殺すため?」
 ストレートに尋ねると、彼は声を上げて笑った。
「あんた、可笑しな事言うんだね。そんな事しないし、させないよ。どこにもやらない。逃がしてなんかやらない。このままずっとここに居てよ、それこそ朽ちて果てるまで」
「どうして? 私が憎いのならさっさと殺せばいい」
「だからこそだ。死んで神の国に逃げるなんて、俺が赦すと思う? それに、あんたが望むような事を俺はしたくない」
 コツ、と最後の靴音を鳴らし、彼は私のすぐ目の前で立ち止まった。手を伸ばさずとも触れられそうな距離で、彼は私の頬に触れた。
「その命が果てるまで、ここでずっと苦しみ続ければいい」
「……それがあなたの望み?」
「随分健全だと思わない? 虚偽にまみれ、裏切りも物ともしない人間に望む事が、こんなにも単純な事で」
「私は裏切るつもりなんてなかった。私はただ」
「つもり? ……何言ってるの、立派な裏切り行為をしておいて。俺の手を取らなかったくせに」
「聞いて、私は」
「煩い、黙れ」
 頬に触れていた手が顎を掴んで、強引に顔を上げさせられる。力が込められ、私は言葉を発せられずに中途半端な声を漏らすだけに留まった。
 彼は今や表情を繕わず、純粋な憎悪を剥き出しにした表情で私を見下ろしていた。水底のように暗く冷たい目とは反対に、顎を掴む指の温度が心地良いなと考えてしまう辺り、私もどうかしてしまっているのかもしれない。私は彼の手に触れようと、半ば無意識に両手を彼の腕へと伸ばしていた。
「あんたは変わらないな。この印も、瞳も。変わった事と言えば女になった事くらいだ」
 彼は私の手を払いのけると同時に手を離した。
 と、次の瞬間には腕を掴まれ、その力強さに私はぎょっとした。
 無理もない。彼は王になったあとも政務の間を縫っては鍛錬を続けていたに違いなかった。久しく剣も取らなかった私が――いや、そうでなくても今や女である私が彼に逆らえる筈もない。
 振りほどく術もなく、私は彼の胸に引きずり込まれた。戸惑う間もなく、まるで恋人にそうするかのように耳元に唇を寄せられ、私は何をされるかわからない恐怖に硬直してしまった。臆してはならない。そう言い聞かせても身体は言う事を聞かない。彼はぞっとするほど優しい笑い声を上げて、囁いた。
「選定印を持つ者は血筋で生まれるとは限らない。でも、印を持つ者同士だったら、生まれる可能性は高くなる」
 その優しい声音と、言っている言葉の意味に血の気が引いていくのを感じた。
「っ、そんなの!」
「可能性は否定できない。だって今まで印を持っていたのは、ほとんどが王家の血筋に連なる者だ。あんたにはそれなりの価値があるんだ、例え裏切り者だろうと」
 腕を振り払おうとしたが、その前に強く抱きしめられた。力強く囲われ、逃げることは到底不可能だ。
「選択肢はないよ、レハト。ランテの血は継承される」
「いやっ!」
 あんまりだ。こんなのってない。確かに私は彼が好きで、彼も私の事は多分好きだった筈で、いつの間にかずれてしまった歯車のせいでこんな運命になってしまった。もうそれが二度と修復できないというのなら、いっその事彼の手で終わらせてくれたらと焦がれていた。
 用意されていた結末はあまりにも残酷だ。
 無理矢理引き摺られ、寝台に縫いとめられる。腕も足も押さえられ、体重をかけられ、なす術もなく私は拒絶の言葉を吐き続けた。首筋に噛み付かれ、痛みのあまりに声が引きつる。
 こんなに叫んでいるのに、扉の前にいるはずの衛士が駆け込んでくる事もない。残された手段は神に祈るのみで、その神すら、夜の闇に隠れてしまっている。もう誰にも止められないのだ。私は彼の憎悪を、一生この狭い籠の中で受け止め続けなければならないのだと、この時悟った。
 衣服の中に彼の手が滑り込む。好きでもなんでもない女をこうも簡単に抱ける事が、私には信じられなくて彼の目を見た。
 彼は私の表情から何かを汲み取ったのか、嘲笑交じりにこう言ってみせた。
「そんなに嫌なら、女なんて選択しなきゃ良かったのに」
 くすくすと楽しそうに笑う声があまりにも明るくて、この場に似つかわしくない。
 女である事がこの事態を引き起こしてしまったのだろうか。いや、違う。男だろうと女だろうと、結局はあの時約束をしなかった事が原因だ。裏切りの代償がこれか。私は裏切るつもりもなく、誠実な答えを探そうとしての選択だったのだと、今の彼に言っても通じる事はないだろう。
 私は彼に嬲られながら、遠い昔の出来事を思い出していた。

 成人したら性別どっちにする?
 うーん、私はどっちでもいいなあ。
 俺は絶対男!レハトは女を選びなよ。
 なんで?
 だって、そっちの方がいいじゃん。
 男同士でもいいじゃないか。
 でもさあ、性別違う方が、多分ずっと一緒にいられるし。

 無邪気な会話は今は霞がかっていて、浮かび上がっては消えていく。すべてがきらきら輝いていたあのひと時が、私の両手から零れ落ちていく音が聞こえた。
「――ヴァイル」
 衣擦れと互いの息が耳に響く。過去の記憶が薄れていくのが怖くて、私は縋るように彼の名を呼んだ。



100520 // 鳥籠姫
100530 - 改稿