「よし、できた」
 窯から取り出した焼き菓子の色合いを眺めて、僕は思わず微笑んだ。
 昔、城にいた頃に侍従から教わったレシピは頭の中で風化しかけていたのだが、うろ覚えで作ってみても案外なんとかなるものらしい。
 焼きたてのそれをひとつ摘み上げて口に放り込むと、サクリと軽い歯ざわりの後にふんわりと甘さが舌に広がる。うん、上出来だ。これならきっと、彼女も喜んでくれるに違いない。
 件の彼女――つまり僕の可愛い恋人は、つい先程調合した薬を近隣の町に売りに行くと出て行ったばかりで、きっと夕刻まで戻る事はないだろう。本当は一緒について行きたかったのだが、同行を申し出ると彼女はじとりとこちらを睨みつけ、「私一人の方が動きやすい。お前はここで術式の練習でもしてりゃいいんだよ」と突っぱねられてしまった。一応師に言われたので後できちんとやるつもりだが、瞑想は菓子を焼いている間に済ませて、術を編む練習もおざなりにしていたと知ったら、やっぱりひどく怒るんだろうか。……うん、きっと怒るだろうな。
 でも、どうしても作っておきたかった。
 王位継承権を捨ててまで彼女と共にいる事を選んだけれど、その事が未だに彼女と僕の行動に制限をかけてしまっている。きっと次の継承者が現れるまでは、僕は城からの捜索の手から逃げ続けなくてはならない。それでも文句一つ言わずにこうして共にいてくれる彼女に、何かしらお礼をしたいと常々考えていた。結局、僕に出来ることと言えば薪割りを始めとする力仕事か、こうして彼女のために何かを作ってあげる事しか出来ないのだけれど。
「早く帰ってこないかなあ」
 溜息交じりに呟いてみたところで、その言葉が現実になるわけではない。僕は仕方なく、暇つぶしに(と、言ったらものすごい剣幕で怒られそうだ)指先に神経を集中させ、小さな障壁を作り始めた。身体の内側から泉のように湧き出す力の欠片を汲み上げるイメージを膨らませ、外側に向けて展開する。毎日瞑想と術の訓練を重ねているだけあって、子供の頃よりも随分と魔術の扱いも様になってきたものだ。勿論彼女からしたら、まだまだだとは思うけれど。
 僕はその障壁を消してはまた作るという作業を片手や足の指先で繰り返しながら、焼き菓子を皿に移して丁寧に盛り付けた。二つの作業を同時にやるのは結構難しい。思っていたよりも集中力のいる作業になって、なかなかいい訓練になったかもしれない。あんまり力を入れすぎて魔力の残滓を濃く残すのもあまり良くないだろうから、力の調節にも随分と気を使うはめになった。
 盛り付けた焼き菓子の皿に覆いを被せ、僕は魔術の訓練を一区切りさせると、家の裏手に出た。これから薪を割って、彼女が帰ってくるまでに夕食の準備を整えておかなければならない。水も汲んでこないと。それから洗濯物も取り込んで、きちんと畳まなければならない。
 こういう細々とした仕事は村にいた頃もよくやっていたので、全く苦にはならなかった。自分に出来ることがあるというのは、面倒なようでいて実に気持ちがいい。城にいた頃がまるで嘘みたいだ。
 額の徴のみに己の存在価値を見出されていた一年間は、やはり一端の田舎者には随分と重いものだった。
 そういえば、彼は今どうしているのだろうか。僕と同い年の寵愛者。現在この国を治めている若き国王の、明るい髪の色を思い出す。
 彼の事は嫌いではなかったが、もし追っ手がこの家に来てしまえば僕は彼と対峙する事になるんだろうか。
 あんまりそういうのは好きじゃないな、と僕は再び彼女を思う。 そんな事態になっても、彼女は僕と共にいてくれれば嬉しい。出来ることなら、僕の都合に彼女を巻き込んで、これ以上彼女を幸せから遠ざけるような真似はしたくないのだが。
 彼女を守り通すためには、僕自身が修行を積んでもっと、もっと強くならなければならない。
 よし、と僕は小さく声に出して気合を入れた。
 とりあえず今のところは、彼女が帰ってくる前にさっさと薪を用意すべきだ。僕は夕食の献立を考えながら、小ぶりな手斧を力強く握り締めた。



100614 // ハニー・クッキー
ルー様の主夫になって毎日焼き菓子を作ってあげたい。