#06


 モノクロの盤上に佇む王を模った駒を、これでもかというほど一心に睨みつけながら唸る青年が一人。数分前から全く代わり映えのしない光景にいい加減うんざりしながら、ロナードはついに特大の溜息を吐いた。
「いい加減諦めろ、レイナス。お前の負けだ」
「いや、カイゼルシュルトの騎士たるものそう簡単に諦めるわけには……」
「これは戦争ではない。ゲームだ。そうだろう?」
「罰ゲームが設けられている以上、例え遊びでも戦いと同じだ」
 きっぱりと言い切る親友の気持ちはわからないでもないが、それにしたってもうどうしようもないんだからいい加減に負けを認めて欲しい。これがもし逆の立場ならば恐らく自分もそうしているに違いないだろうが、それはもしもの話であって現実ではない。
「レイナス、男なら腹括っちまえよ」
 横からハントが茶々を入れるがレイナスはそれでもしつこく残った駒を見渡す。盤上は素人が見ても簡単にわかるほど圧倒的に黒が有利で、先手であるレイナスが生き残る可能性は極めてゼロに近い。というかどうあがいても生き残れるはずがない。
「くっ……!」
 とうとうレイナスはやむを得ない、と言わんばかりに残り少ない駒を限られた範囲内に動かしてから、まるで戦場で死を覚悟した兵士のような表情で駒から指を離した。その表情からも盤上の状態からも己の優位がわかる。勝った。胸中で呟きながら、ロナードは非情にも優雅に駒を動かして宣言した。
「チェックメイト」
 追い詰められた白い駒を目にして、レイナスは肩を落として深く溜息を吐いた。
「ああ、今日に限って負けるなんて」
 呟くレイナスの声は本当に心の底から落ち込んでいた。先程ヴァイスやハントにも負けて実質最下位の不名誉な称号を与えられた彼には一週間デッキの掃除当番という罰が与えられる。そう思うと不憫ではあるが、だからといって代わる気は毛頭ない。
「残念だったなあ、レイナス。ま、せいぜい腰痛めないように頑張れよ」
「うう、不覚だ……実力は五分と五分のはずなのに」
「恨むのなら俺ではなくお前の判断力を恨むんだな」
 言いながらさっさと卓上を片付け始めるロナードを軽く睨みつけるレイナスはまるでふてくされた子供のようで可笑しい。年齢に似つかわしくないその様子に思わず笑ってしまうのは無理もないことだろう。

「おや、もう終わってしまいましたか」
 つい先程席を立ったヴァイスが戻ってくると、先刻のゲームの熱も若干冷めたように思える。小さな紙袋を抱えて現れた宮廷付の魔術師は見るからに上機嫌で、それは彼が先のゲームの結果で罰ゲームを免れているせいだけではないことは容易にうかがい知れる。
「それで、誰が負けたんです?」
「こいつ」
「それはお気の毒に。一週間よろしくお願いしますね」
 言葉とは裏腹に、勝敗の結果を楽しんでいることは表情でわかった。
「くそ、大体なんで罰ゲームなんて……!」
「そうでもしないと面白くねーだろ」
 ギリギリで罰ゲームを逃れたハントは嬉しくて仕方がないらしく、必要以上にレイナスをからかっては楽しんでいる。ヴァイスは同じく楽しそうに、しかしハントとは違ってその感情のベクトルは専ら傍らの袋に注がれているようだった。そういえば彼がここまで上機嫌になることは珍しい。
「そういえばヴァイス、さっきから何を持ってるんだ?」
 そう思ったのはロナードだけではなかったらしく、レイナスが袋を指差して思わずといった様子で訊いていた。問われた当人はよくぞ聞いてくれましたと言わんばかりに袋の中身を一つ取り出す。
「先程近くの店で買って来たんですよ。皆さんの分もありますので良ければどうぞ」
 楽しそうに取り出したのは、透明の容器に詰められ、ぷるんと震える黒い物体。
 それはセントミラの人間ならば誰もが知っている食べ物で、そしてその食べ物を知る人間の誰もが食することを遠慮願いたい代物でもある。ロナードは全身の毛がぶわりと逆立つような感覚に思わず身震いした。
「これは……もしかしなくても」
「カフジェレー……か?」
「はい。3つしか入荷しなかったそうなので、残念ながら最下位の方はおあずけという形になりますが」
 にこにこと満面の笑みを浮かべる表情に悪意は欠片も見られない。残念でしたねレイナスさん、と呼びかけているものの、レイナスは先刻のゲームに負けたときの悔しさに対してお釣りがくるほどの安堵の表情を見せて「そうだな、あはは」と空々しく笑っている。
「一応訊いてみるが……絶対食べなきゃだめ、なのか?」
「あなたは私の好意を踏みにじるつもりですか?」
 ハントの問いかけに対して、その指先で小さな雷が発生したのはこの際見なかったことにしたい。
「クリームはないのか? せめて甘いもの……ミルザフルーツとか」
 ロナードにとっての最後の命綱は無言の肯定によって掻き消された。

 こんなことになるとわかっていたならば、たかがゲームにあれほど本気を出さずにすんだものを。口には出さず、ロナードは心の底から一人この地獄から救い出された親友を恨めしく思った。



080426 // カフジェレー