「どうして僕に言わなかったの!」
「だって、お忙しいかと思って」
 ちっとも悪びれた様子もなく、リスベスはいつものように可愛らしく微笑んだ。
 ジャンゴは彼女の見せる表情の中でも、笑顔が一番好きだ。夏の太陽のように周囲のすべてを照らす眩しい表情ではなく、春の始まりに少しずつ蕾が綻んでいくかのような、ゆるやかで穏やかで、とろけるような笑顔。かといって周りの空気に溶けることはなく、むしろ彼女の周りにだけ、いつも春の空気がやさしく渦巻いているように感じられる。事あればギルドに寄せられる依頼のために、銃を持ってあちこちを駆け回るジャンゴにとって、リスベスのまとう空気は他の何にも代え難いオアシスになりつつあった。だけどこの時ばかりは、リスベスのふんわりとした笑顔はジャンゴの苛立ちを助長する材料にしかならず、(彼にしては珍しく)ますます声を荒げて畳み掛けた。
「一人でアクーナに行くなんて、どれだけ危険なのかわかってるだろ!」
 ほとんど叫ぶようにして搾り出された声は、少し震えてしまっていた。別に泣きたいわけじゃない。怒っているわけでもない。胸のあたりにごちゃごちゃとつっかえている何かが、喉にからみついているだけだ。
 いや、本当は怒りたいのかもしれない。だって、――だって、あろうことか彼女は、僕のあずかり知らぬところで魔物が徘徊する街の外へ出たというのだ。それもたった一人で!
 武器を持つギルドの人間すら、一人で行動することはあまりない。その理由にはもちろん、まだ未熟である者は最低2人以上の行動を義務付けられていたりとか、少しでもリスクを減らすためだとか、ギルドという集団において必要な協調性を高めるためだとか、さまざまな理由がある。ジャンゴだって、最近になってようやく単独行動を許されるようになったばかりだ。それなのに、武器すら持ったことのない少女が一人で廃墟の街を歩くなんて、何があってもおかしくない。それこそ死んだって、何も不思議ではない。最悪の予想がふと脳裏によぎって、強く握った拳がかたかたと震えた。
 先の通りを一息に言い終えると、リスベスは困ったように眉を下げて、それでも微笑んだままだった。
「大丈夫ですよ、ジャンゴ様」
「リスベス」
 咎めるように呼んでみても、彼女はほんの少し菫色の瞳を揺らしただけで、表情は変えなかった。
「私たちは、大丈夫です。ギルドの銃士様達が――ジャンゴ様が、安全な街道を作ってくれているではありませんか」
 星喰いを退けてから数年、ギルドの目下の活動は、旧クリアカン市街を中心に周辺の街までの安全な路の確保に絞られている。公爵が斃れてもなお、魔物がいたるところに蔓延っていて、ヴァンパイアの圧政に苦しんでいた街への援助もままならなかったためだ。ギルドも各地に点在しているものの、その全てが有能なわけではない。せめて商人くらいは自由に行き来できるようにと、勢力の大きなギルドが率先して、かつて人々に親しまれてきた路から魔物を追い払い、その住処を焼き、少しずつ整備していた。
「それでも、100%安全なわけじゃ」
「だいじょうぶ、です」
 否定しかけたジャンゴを遮るように、リスベスはゆっくり、はっきりと言いきった。
「私たちは、いえ、商人は皆、ずっと前から自分達だけで品物を遣り取りしていたんです。まだあの大きな街道にもたくさん魔物がいて、死ぬかもしれないとわかっていても、行くしかなかった。……だけど、ギルドの方々のおかげで、前よりもずっとずっと安心して歩けるようになりました。死者も減りました」
 こくり、と彼女の喉が動く。それからまるでこらえていた何かを押さえ込むような仕草で、エプロンの裾を強く掴んだ。その手は信じられないくらいに、細くて白い。ジャンゴの目には、彼女の栗色の睫がかすかに震えるのがはっきりと見えた。彼女はそれでもなお微笑む。こわばった頬をうすく色づかせて、弧を描いた唇を開いた。
「あなたたちが守ってくれているから、大丈夫なんです、私たちは」
 リスベスはまっすぐにこちらを見上げた。ジャンゴはほんの少したじろぐ。いたたまれないような気持ちと、胸の奥に居座るごちゃごちゃした感情に苛まれて、一瞬息をするのが遅れたようだった。
「でも僕は、僕の知らないところで君が傷つくなんて、嫌だ」
 思ったままを口にすると、リスベスは目を見開いた。彼女がぱちりとまばたきをする瞬間、その睫がしっとりと濡れたことに気がついてしまった。
「それは私も同じです、ジャンゴ様」
 エプロンを握る指の関節が、きゅっと白くなる。
「私たちは守られています。だけど、私たちを守る人を、いったい誰が守ればいいんでしょう」
 リスベスの問いに、ジャンゴはうまく返せない。途端に降りる沈黙。もどかしくて堪らない。
 ジャンゴが思わず彼女に叫んだ言葉を、彼女はいつも胸の内に秘めて、ただじっと沈黙を守り続けていたに違いない。ジャンゴは想像する。愛用の太陽銃を構えるより早く、射程範囲内に滑り込む魔物。その牙に、爪に、引き裂かれる自分の腕。焦りと痛みで照準の合わない銃口。焦りから零れ落ちる判断力。なおも暴れるけもの。単独行動を許された銃士の最期。力を認められることはすなわち、命の重さを一人で背負い込むことだ。幼い頃、街の人々や他の商人に助けられながら母の店を守っていたリスベスもまた、成長した今ではジャンゴと同じ重みを背負っているのかもしれない。
「大丈夫だよ」
 ようやく開いた唇から零れたのは、たった一言だけだ。更に情けないことに、つい先刻彼女が笑顔ではっきりと言い切った言葉をなぞっただけにすぎなかった。
 リスベスの濡れた睫が一瞬だけ伏せられ、震える。
「大丈夫」
 リスベスを慰めるためのものではない、ただ自分自身に言い聞かせるように、ジャンゴは繰り返した。
「だって、待っている人がいるから」

 銃を提げ、星霊獣を連れて街を出る時、きまって考えるのは街にいる見知った人々のことだった。情報収集にいつも立ち寄る店のマスター。いつも明るいアリス。お世話になっている商人のおじさん。苦楽を共にするギルドの面々。隣に立つ、表情の動かない相棒。リスベス。
「死を覚悟したことはあるか」
 いつだったか、何年か前に相棒に訪ねられたことがある。その時どんな風に返したのかはよく覚えていないが、僕のことだからきっとこう答えていただろう。
「ないよ。いつも生きて、みんなのところに帰ることばっかり考えてる」
 彼はきっと呆れてひとつ溜息を吐いたに違いない。戦いの中に身を置く者にしては変だろうか。甘いだろうか。それでも僕は、きっとその考えを曲げない。強く思っている限り、必ず再びこの街の土を踏めると信じている。

「それを聞いて安心しました」
 リスベスが微笑んだ。
 春の訪れのようなとろりとした表情に、ジャンゴもつられて曖昧な笑みを返す。彼女がひとりで傷つくことも、ましてや泣くこともあってはならない。もしも彼女が傷つきそうで、泣きそうな時があれば、何もできなくとも傍にいてあげたい。そのためには何があっても生きて、この場所に帰ってこなければならないのだ。胸の奥底から込み上げてくる感情を抑えられぬまま、ジャンゴはリスベスの手を強く引いた。




081022 // 春の女神は微笑んだ
091110 改稿
精一杯夢を詰め込んだ+χ年ジャンリス。
リスベスは春のイメージ。どうも蝶の髪留めの印象が強い。