冬の澄んだ空気が、何もかもを白く塗りつぶしていく。
 雪の中で、寒さと悲しみに顔中を赤く染めながら、それでも彼女は最後までそこにいた。涙は無かった。けれど確かに、泣いていた。



***



 いつもの通り、レーガの目覚めは早かった。
 長年の規則的な生活の中ですっかり身に付いた習慣の所為で、目覚めだけはいつも定刻通りに訪れる。
 天気が良くないのか、朝だというのにまだ薄暗い。部屋中によく冷えた空気が澱のように沈んでいる。未だ残るまどろみの心地良さと、布団の中のぬくぬくとした空間からすぐには抜け出せず、冬のしんとした空気に眉を寄せて顔の半分まで毛布にうずめながら、レーガはぼんやりと窓の外を見た。
 重い灰色の雲が日の光を遮り、町並みがうっすらと白くけぶる。ちらちらと花びらのように舞う白い雪に気付いて、気持ちがほんの少し沈んだ。
(……どおりで寒いわけだ)
 今年に入って初めての雪だ。もうそんな時期か、とどこかでは冷静に考えるのに、積雪の影響を考えると溜息もつきたくなる気分だ。今はまだ大した影響はないが、もうしばらくすれば道は埋もれ、列車の運行が滞り、近くの町からの来客は減ってしまう。雪かきだって面倒だ。
 レーガはまだ醒めきらない意識をふわふわと漂わせながら、現実逃避よろしく一人の少女の姿を思い浮かべる。

 季節に関係なく野山を駆け、土をいじり、手先が器用であれこれと新しい物事に手を出し、飼育している何種もの動物たちに分け隔てなく愛情を注ぐ少女。寒くても暑くてもいつだってひまわりのような笑顔を絶やさず、野兎のように駆け回る姿は、もはやこの町の名物と言っても差し支えないかもしれない。
 この町に来てようやく2年が過ぎようかというくらいの新米のくせに、彼女はすっかり町になくてはならない人物になってしまったように思う。もちろんそれは、レーガにとっても同様だった。彼女はいつも、ぱっと花咲くように微笑んで、その細い身体のどこにそんな力がと疑いたくなるほどの元気の良さで、ふわふわと砂糖菓子のように甘い声で、名を呼んでくれるのだ。
 くしゅん、とひとつくしゃみをして、思考がふつりと途切れる。夜のうちに冷やしてしまったのかもしれない。布団の中にいるのに、肩が冷たい。
 それでもやはり染みついた習慣どおりに、レーガはもぞもぞとベッドから這い出た。未だ意識の半分は布団のぬくもりに向いているが、着替えて店の準備をしなければならない。
 枕元に置いてあったネックレスを手に取り、首にかける。氷のような冷たさに一瞬怯むが、これだけは忘れるわけにはいかない。細い鎖の先で、重力に従って、ほたる石の嵌ったシンプルな指輪が揺れた。



 貿易ステーションと名付けられた町の多目的広場には、その名の通り、大抵の日はどこかしらの国の貿易商たちが店を出している。
 新鮮な野菜の他に、酒や小麦粉、上等な布に宝石類、スパイス、菓子、日用品から何に使うかもわからない珍しい物まで、その品揃えは多岐に渡る。最近ではこれらの店を目当てにわざわざ遠くからやってくる者もいる程で、よく晴れた日ならば朝から夜遅くまで客足が途絶える事はほとんどない。
 とは言え、雪がちらつき、しんと冷えた朝という時間帯では、客もまばらなようだった。あちらこちらで傘が揺れ、白く染まる町並みの中に申し訳程度の花を添えている。
 レーガは傘の陰で欠伸を噛み殺し、出店を見て回った。明日の日替わりスープの具材は今日の買い出しで決まる。いくつかのスパイスを買い足し、野菜や果物を存分に吟味しながら、ふと、視界の端にちらりと見慣れた亜麻色が見えた気がして振り向いた。
「ミノリ?」
 思わず思い当たる人物の名を呼ぶ。
 一瞬、ねぼけて幻覚でも見たのかと思ったのだが、目は無意識にでもしっかりと彼女の姿を捉えてくれたらしい。
 確かにミノリがいた。落ち着いた色彩の地に小花柄が散らされた傘を差し、荷車を引かせた馬を伴って、貿易ステーションの入口に、彼女は立っていた。
 案内所の黒板を見つめる横顔は、寒さのためかほんのりと赤く染まっている。彼女が、畑で採れた新鮮な作物を出荷するために、貿易ステーションによく足を運んでいるのは知っている。レーガが買い物を終えて引き返す際、幾度かすれ違ったこともあるくらいだ。だが、朝早くから彼女の姿を見るのは珍しかった。
 ミノリはしばらくの間黒板を見つめて何やら考えているようだったが、ふと視線をずらした際にこちらの姿を認めたらしい。寒さのためかこわばっていた表情が、花咲くように綻ぶ。
「レーガ」
 目を見開いて、唇を「おはよう」の形にふわりと動かす。馬を引いてこちらへわざわざ歩いてくる様子に、自然とレーガも頬を緩ませた。
「おはよう、ミノリ。珍しいな、こんなに早く」
「思ったよりも色々早く片付いちゃって。レーガはお店の買い物?」
「ああ。ミノリはそれ、今から出荷だろ?」
「うん、今日のは自信作」
 ふふ、と控えめに目を細めるミノリの笑い方に一瞬引っかかるものを感じるが、それよりも思いがけない邂逅に感じる小さな喜びの方が勝る。思わず頭を撫でてやりそうになって、両手が塞がっていることを思い出した。傘も買い出しの荷物も放り出すわけにはいかないので、こちらも笑い返すだけに留める。
「今日もうち、来るんだろ」
「もちろん。レーガの作るご飯を食べたら、すっごく元気になれるもの」
「はは、そう言ってもらえると作り甲斐があるよ」
 ぐっ、と片手で拳を握って笑うミノリに、さっきまで纏わりついていた眠気が嘘みたいに吹き飛ぶ。
 ミノリは裏表の無い言葉で人をくすぐるのがうまい。はじめての牧場経営で、疲れきってくたびれて、苦労するようなことも多々あるだろうに、いつも明るく笑っている。だから、たくさんの人々に愛されている。
 レーガがミノリに惹かれたのも、その明るさと真っ直ぐすぎるほどの優しさと、彼女から発せられる素直な言葉がいつも胸の内を満たすからだ。掌をひらひらと上げ下げして身振り手振りで一生懸命話す動作も可愛らしい。ミノリと話していると、時が過ぎていくのが惜しく思えるから不思議だ。
「あっ、ごめんなさい。引き止めちゃったよね」
 不意にはっとした様子でミノリは会話を中断した。
「ん? ああ、いや別に気にするほどじゃないだろ」
 会って5分も経っていないはずだが、レーガもミノリもまだ仕事の途中で、のんびりと立ち話をしていられるような時間は無いのも確かだった。それ以上会話を引き延ばす理由も特に思い当たらないし、話をするのならばまた時間を改めればいいだけだ。
 いつも通り夕方にはレストランに顔を出すと言うミノリに対し、レーガも頷いた。
「じゃあ、またあとで」
 傘をくるりとひるがえし、微笑みを浮かべて、ミノリは慣れた手つきで馬の手綱を引く。荷車に載せられた木箱から覗く白菜や大根の山は確かに新鮮そうで葉のつやが良い。野菜の山と一緒に、束ねられた青い薔薇、りんどう、スノードロップといった花々が丁寧に積まれている。
 その背をしばらく見送ってから、レーガはようやく買い物を再開した。


 帰路につく頃には雪はますますもって町を覆い尽くさんとばかりに舞っていた。煉瓦を敷き詰めた通りの端にはわずかに雪が積もり始めている。このまま降り続ければ、明日の朝には一面の銀世界になっていることだろう。
 リーリエに言わせれば、今年の冬は去年と同じか、それ以上に寒くなるらしい。
(去年か……)
 そこまで思案して、レーガは足を止めた。荷車に乗せられた花と、控えめに細められた目。彼女はあんな風に、儚げに笑うような子だっただろうか。
 去年の冬、雪が降りしきる中で、声も涙も零さずに泣いていたミノリの表情が、フラッシュバックする。先程見せられたミノリの表情は、思い返してみればあまりにもあの光景と重なって見えた。

 一瞬だけ引っかかったものの正体に気づいた。あくまでいつも通り会話をしようと努めていたミノリの姿に、少し悲しくなって、胸の内にかっとわだかまりのような熱が灯る。服の下で、首に提げられた指輪が小さく揺れた。

 ミノリは、またあの夜のように泣くのだろうか。



***



 葬儀には、この町に住む全員が出席した。エッダという一人の老婦人は、それほど皆に愛されていた。
 雪が降りしきる中、町の住人たちは色とりどりの傘を差して、ベロニカの弔辞に耳を傾ける。季節の花を一輪ずつ棺に納める淡々とした儀式にも、皆が沈痛な面持ちで参列した。そこかしこですすり泣く声が聞こえ、身を切る寒さよりも悲しさが上回り、誰もが肩を寄せ合っていた。
 レーガ自身も、引っ越してきた当時はまだ幼い子供だったからか、エッダにはよく可愛がってもらったものだった。リーリエやアンジェラといったレーガと同世代の若者のみならず、この町に古くから住む人々は皆、彼女に子供か孫のように接してもらった記憶があるだろう。
 比較的新しい顔ぶれであるエリーゼやフリッツも、やはりそれぞれにエッダとの思い出があるらしい。エリーゼは花を手向ける際に目を伏せて小さな声で祈りの言葉を捧げ、フリッツに至っては泣き顔を隠そうともせずにぼろぼろと涙を零していた。
 レーガは不意に気になって、ミノリに視線を向けた。表情は傘の陰に隠れて見えないが、いつものひまわりのような笑みはすっかり消え失せているに違いなかった。
 今年の春に越してきたばかりの若い牧場主は、エッダの持つ土地のすぐ隣の地で日々奮闘していたはずだ。自然と、付き合いも長くなっただろう。レーガは、ミノリの口から「お隣のおばあちゃん」との数々思い出を、例えば作りすぎた煮物を持って行って一緒に食べたのだとか、遊びに行くといつもとっておきの茶葉でお茶を淹れてくれるのだとか、息子さんやお孫さんの小さかった頃のアルバムを見せてくれたのだとか、そういった他愛のない話を何度か聞いていた。エッダとの微笑ましい日常を臨場感たっぷりに身振りを交えて話すミノリに、いつしかレーガは亡くなった祖父との思い出を想起するようになっていた。

 身一つで越してきたミノリは、この町で一人暮らしをしている。
 それから、可愛がってもらった親しい人を、亡くした。
 レーガには、ミノリが感じているであろう悲しみや痛みを想像することしかできない。
 けれど大切な人を亡くした辛さは、痛いほど知っているつもりだ。
 町の皆にとっても「おばあちゃん」のような存在だった人を亡くした悲しみと、ミノリの姿に過去の自分を重ね合わせてしまって、胸が締め付けられるようだった。



 葬儀はしめやかに行われ、皆がそれぞれの言葉で別れを告げ、やがてこの儀式も終わる。
 人々は山道を引き返し、あたたかい家へと帰っていく。色とりどりの傘の群れが、雪の降る夕闇にぽっかりと浮かんでいる。レーガも彼らに倣おうと歩き出し――一歩踏み出しかけ、振り返った。

 ミノリはまだぽつんと立っていた。

 先程までベロニカに何か話をされて、こくりこくりと頷いていたようだったが、今はたった一人で佇んでいる。
 泣いているのだろうか。彼女の顔は、落ち着いた色彩の地に小花柄を散らした、ミノリの雰囲気をそのまま表したかのような傘の下に隠れている。表情は窺えない。ただ、俯いていることだけは、確かだった。

「ミノリ」

 レーガは少女の名を呼んだ。無意識だった。ミノリがやや目を見開いて顔を上げるよりも先に、自分の方が驚いてしまったくらいだ。

「レーガさん」

 震える唇を動かして呟かれた声は、ほとんどが雪に吸い込まれて聞き取りづらい。ミノリの顔は、頬も耳も鼻も目元も、悲しみと寒さで赤く染まっていた。琥珀を思わせる透き通った目は不安げに揺れている。涙は無かった。けれど確かに、泣いている人間の表情だ。
「……帰ったんじゃ、なかったんですか」
 どうしたって震えてしまう声を、なんとかいつもの調子に整えようとしているのだろう。誰にでも明るく振る舞う普段のミノリからは想像もできないような、硬くこわばった声音になっている。
 レーガはそれには返事をせず、積もった雪を踏みしめ、ミノリとの距離を縮める。ミノリは震えていた。悲しみのせいだけではない。雪の降る中、動かずに立ち尽くすだけでは身体も冷え切っていくだろう。
「寒くないか。もう家に戻ったほうがいい」
「はい。でも、あと少しだけ」
「あんた、明日も早いんだろう。もう休んだ方が」
「大丈夫ですから」
 ミノリは、空いた方の手をお腹のあたりできゅっと握りしめる。白く小さな手が、震えているのがわかった。何が大丈夫なんだ。苛立ちにも似た感情が一瞬胸の内を焦がし、レーガは咄嗟に、その手を取った。
「ひゃっ!?」
 間の抜けた声と同時に、ミノリの傘が雪に落ちる音がした。
 握った手は冷たい。長時間寒空の中に立っていたレーガの手も冷えているはずなのに、それでもミノリの方が冷たいと感じる。
「このままじゃ風邪を引くぞ。そうなったら困るのはあんただろう」
 湧き上がった感情は抑えて、できるだけ優しく言ってやる。ミノリは頑なだった。
「私、丈夫ですから。このくらいじゃ風邪なんて引きません」
 拗ねた子供のようにふいと視線を逸らす。レーガは少しの間を置いて、ふう、と息を吐いた。
「……分かった。どうしても帰らないって言うなら」
 握っていた手を軽く引く。ミノリの身体は簡単に傾いで、慌てて片足を前に出して踏みしめる。ミノリの意図はともかく、一歩、踏み出す形になった。――家とは反対の方向に。
「レーガさんっ?」
「うちの店で何か温かい物でも飲んでいって。……ていうか、飲みなさい」
「でもっ」
 ミノリは何か反論しようとしたらしい。しかし絶妙なタイミングで、きゅう、と奇妙な音がした。
 慌ててお腹を押さえているところを見ると、やっぱりこういう時でもミノリは素直なんだなと妙に感心してしまう。頬は変わらず赤いが、先程よりも深く染まっているように見えるのは気のせいだろうか。

 握ったままの手を軽く引くいてやる。今度はか細い声で「すみません」と小さな謝罪を零して、それ以降は黙ったまま、大人しくついてきた。



***



 カウンターベルの音は祖父の代から変わっていない。
 元々は忙しい時間帯に店主を呼びたい客が使用する物だが、ミノリはこの音をいたく気に入っているのか、時折意味もなく鳴らしたがる。
「こんばんは、レーガ」
 夕方に来ると言っていたはずのミノリは、閉店間際の、ほとんど客のいない時間にようやくやって来た。丁度テーブルを拭いている最中だったので、ミノリはここぞとばかりにベルを鳴らす。
「いらっしゃい。今日は随分働いたんだな」
「ちょっと作業に夢中になっちゃって。気が付いたら、もうこんな時間だったんです」
 お疲れ様、と笑いかけていつものカウンター席へ案内する。ばつが悪い時や、恥ずかしい時は未だに敬語が出るらしい。以前指摘したところ、直そうにも、既に癖になってしまっているからどうしようもないのだと困ったように笑ったので(その際も敬語になっていた。困った時もそうなるらしい)、気にしないことにしている。時折こちらにも移ってしまう以外は特に支障もないので、それ以上指摘したことは無い。
 レーガが何かを聞く前に、ミノリは「オムライスとスイートポテト!」と弾んだ声で注文する。女の子らしい恥じらいや遠慮などといった言葉は、こと食べ物に関してはミノリの頭の中から消え失せてしまうようだ。レーガは頷いて、キッチンに入る。ミノリは最近レーガの作る卵料理にはまっているらしく、「このふわとろ卵はいくら頑張ってもなかなか再現できない」と嘆いていた。それから、「いつか絶対に再現して見せるから!」とも。そういうところも、レーガが彼女を好きな理由の一つだ。
「外、寒かっただろ」
 顔が真っ赤だぞ、と指摘してやると、ミノリは慌てたように両手で頬を擦りはじめる。どうやらそれであたためているつもりらしい。彼女がぱちりとまばたきをすると、亜麻色のまつげに積もった粉雪がはらりと零れた。
「もうね、雪が結構積もってるの。明日には雪だるまが作れちゃうかも」
 雪だるま。レーガの脳内に、ミノリが街の子供たちと一緒にごろごろと雪玉を転がしている様子がたやすく浮かぶ。  きっと実際の姿も想像上のミノリとそう変わらないだろう。
 立派な雪だるまを完成させて跳びはねて喜び、そのうちに足を取られて雪の中にダイブするところまで鮮明に想像できた。密かに笑みを浮かべ、レーガは棚からマグカップを一つ取り出した。



***



「どうぞ」
 カウンター席に無理矢理座らせたあと、ミノリはずっと黙っていた。
 差し出したマグカップを受け取る際にはかろうじて「ありがとうございます」と聞こえたが、それ以降も沈黙が続く。
 何か言わなければ、というような空気がミノリの周囲を渦巻いていて、でも何かを口にしてしまえば泣いてしまうのが分かっているから、何も言えないでいる。レーガの目には、そう映った。
 白いシンプルなマグカップを包み込む手は小さく、寒さのためか指先が赤くなってしまっている。桜色の爪は短く切り揃えられ、よく見れば右手には治ったばかりの切り傷の跡も見えた。
 いつもならまだ店を開けている時間帯だ。普段はもちろん暖房も効かせているのだが、今日ばかりは店内も冷え切ったままだ。そういえばドアには「都合により今日は休みます」の知らせを貼りつけたままだった事を思い出して、直後にまあ明日にでも剥がせばいいかと思い至る。
 レーガはさっそく目の前の仕事に取り掛かった。レストランのシェフである以上、お腹を空かせたお客様には、あたたかい食事を作らなければならない。必要最低限の明かりに浮かぶカウンター席で、ミノリがのろのろとホットコアを冷ましている。背の高い古い振り子時計の音と、調理器具がかちゃかちゃとぶつかる音。フライパンの上で油が熱され、弾ける音。人の声がまったくしない店内では、薄暗さも相まって、不思議と時間の流れが遅く感じる。
「あの、本当に、ありがとうございます」
 ぽつりと落とされた言葉は、幾分かやわらかさを取り戻したように聞こえる。レーガは手元に視線を落としたまま、口を開いた。
「落ち着いた?」
「はい。おかげさまで、少しは」
「それなら良かった」
 安堵から、ふっと笑みが零れる。もうすっかり自分の手の延長みたいになっているフライパンを操って、生地を焼いていく。小麦粉とミルクの甘い香りが、静かなレストランに漂う。お腹を空かせた牧場主には少し物足りないかもしれないが、今の時期に出しているメニューの中ではこれが一番手早く作れるので仕方ない。
「人間、落ち込んだ時にはあたたかい物を食べるべし、ってな」
 郷愁に浸って呟く。レーガの小さな声を拾って、ミノリが首を傾げる気配がした。一瞬だけ彼女の様子を横目で見やる。カップの中身は、まだ残っているようだ。
「じいさんの受け売りだよ」
 レーガの中に重く沈んだままの過去の情景を、ミノリにはするりと話すことが出来るのが不思議だった。
 少し前に、風邪で倒れるなんて情けないところを見られ、あまつさえ弱音を吐いてしまったのも原因の一つだろう。だがそれ以上に、誰にでも真摯に、素直に向き合うミノリには、話しても大丈夫だという信頼と安心感が、いつの間にか芽生えていたのかもしれない。
「レーガさんのおじいさんが」
 おうむ返しにレーガの言葉を繰り返し、ぱちりとまばたきをする。
「……素敵な人だったんですね」
「ああ」
 率直な感想に頷きだけを返して、レーガはそれ以上何を言うべきか、しばらくの間答えを見つけられなかった。
 ミノリがココアを一口啜り、小さく息を吐く。それを数回繰り返すのを、レーガは手を休めずにたまに横目で窺った。

 焼き上がった生地を皿に盛り付け、3種のベリーのジャムとありあわせの果物で作ったコンポートを添える。生クリームを泡立てる時間が無かったのが惜しいところだが、店に出しても申し分ないホットケーキが出来上がった。
「お待たせいたしました」
 キッチンから出てミノリの傍まで歩き、彼女の目の前にプレートを置く。甘い香りに誘われて、ミノリの痛々しいほど沈んでいた表情に仄かな光が灯った。
 甘い物とあたたかい物。子供の頃、幼さゆえにまだいくらかの悲しみや憤りをうまくやり過ごせなかった時、祖父がきまってレーガに差し出してくれたのがそれだった。どんなに泣いても怒っても、お腹は空くものだ。当然だ。生きているのだから。
 ミノリは一瞬躊躇するような表情を見せたものの、空腹には勝てなかったらしい。ナイフとフォークを手に取り、小さな声ながらもはっきりと「いただきます」を言って生地を切り分ける。作りたてでまだ熱いコンポートと一緒に口に入れ、もくもくと咀嚼する。
「……おいしいです」
 女の子は皆甘い物が好きだ。ミノリもその例外ではないらしく、唇が花のように綻んだ。しかし同時に、彼女のなめらかな頬のラインを、ころりと一筋の雫がなぞった。さすがにレーガは一瞬どきりとしたが、こわばった表情で悲しさと寒さに震えて一人耐え忍ぶよりも、この方がいくらか彼女らしく見える気がして、微笑んでみせる。
「泣ける時に思いっきり泣いた方がいいぞ。ただでさえあんたは頑張りすぎるんだから、あまり一人で抱え込むなよ」
 ミノリの頭にぽんと手を乗せてやる。いつかレーガ自身が祖父にそうしてもらったように、出来るだけ優しく撫でる。するとそれに応じるかのように、ミノリの透き通る宝石のような両の目から、ぽろぽろと涙があふれ始めた。
「レーガさん」
 あとからあとから流れる雫をなんとか止めようと目元を擦りながら、ミノリは涙と一緒に言葉も零し始めた。
「エッダさん、私に土地を継いでほしいって。だから、エッダさんの住んでたお家は、業者さんに来てすぐに取り壊してもらう予定だって、言われて」
 俯いてぐすぐすと泣きじゃくる少女の頭を撫で、レーガは「うん」と相槌を打つ。
「牛や鶏は、本当は全部私が面倒を見れたら良かったんですけど、私、今の子たちだけで精いっぱいだったからっ……明日、ベロニカさんが責任を持って、貿易商の方にお譲りするって」
 彼女の亜麻色の髪はふわふわしていて、撫でているとかすかに花の香りがした。すん、と鼻を啜る音が聞こえる。子供みたいに両手で涙を次々と払いながら、ミノリは雪のように積もった言葉を吐き出していく。
「私、やだよ……おばあちゃんともっといっぱい、お話したかったのに……思い出も全部消えていくみたいで、いやで、でも、泣いたらおばあちゃんに心配かけちゃうからっ……、でも、私。……レーガさん、私」
 レーガには、祖父が遺してくれたレストランがある。スパイスと使い込まれた調理器具が並ぶキッチン、店内を見守る古い振り子時計、シンプルながらも、端に丁寧な刺繍があしらわれた洒落たクロス。何度も磨かれてつややかに光る木目の椅子。物に宿る思い出という物は、存外に大きなものだ。
 ミノリには、土地しか残されない。それがエッダの望んだことであっても、今のミノリには耐えられないのだろう。
「辛かったな、ミノリ」
 かがんで、ミノリに目線を合わせる。優しく呼びかけてやるはずが、レーガの声も少し掠れてしまっていた。ミノリは涙をぬぐうのを諦めてしまったのか、口元を両手で覆って、嗚咽を抑えて泣いている。
 居ても立ってもいられず、レーガはそっと、ミノリの背に腕を回し、軽く抱き寄せた。
 年の近い女の子、それも恋人でもない単なる友人相手に大変失礼なことだと自覚はしている。けれど、ミノリをちゃんと泣かせてやりたくて、あやすようにぽんぽんと背中を叩いた。
「エッダさんは多分、今頃幸せに笑ってるよ。ミノリが泣いた分だけ、きっとその気持ちも伝わる」


 あとはもう、言葉にはならないようだった。
 何度かエッダの名を呼び(ついでに時折レーガの名も混じり)、ミノリは年の近い女の子とは思えないくらい子供っぽく、涙が枯れるまでわんわん泣いていた。頭を撫で、背中をさすってやると、ミノリはおずおずとレーガの背に手を回す。縋り付くようなその手はいつまでも震えていて、レーガもつられるように泣きじゃくるミノリを手繰り寄せた。

 上手に泣けるミノリがほんの少しだけ、羨ましかった。自分の時は、そんな風に泣けなかったから。



***



「ミノリ」
 食べ終わり、落ち着いた頃を見計らって、声をかける。
 時刻はとうに閉店時間を過ぎている。残っている客は当然ミノリしかおらず、店内のBGMも切ってある。
 ホットココアのおかわりを啜っていたミノリは、「なあに?」と可愛らしく首を傾げた。鎖骨のあたりに、いつも彼女が身に着けている素朴な革紐のネックレスがちらりと見えた。その紐の先にほたる石の指輪が下げられていることは周知の事実だが、どんなデザインの指輪なのかはレーガしか知らない。
「泣きたい時は無理せず泣けって、前にも言ったよな」
 さり気ない言葉に聞こえるように、キッチンの後片付けをしながら言う。ミノリは虚を突かれたように固まると、とたんにくしゃりと泣きそうな表情をして、けれど涙は見せなかった。
「さすがに、もう1年経ってるもの。いつまでも泣かないよ、私」
 なんとか唇を笑みの形に歪め、誤魔化すようにカップを傾ける。どうも、ミノリの中では、去年の冬にレーガに縋り付いて泣いた出来事は、恥ずかしい思い出として処理されているらしかった。

 涙も収まってきた頃にぐちゃぐちゃに濡らした挙句しわくちゃになったシャツを見て真っ青になり、平謝りして別の意味で泣きそうになっていたミノリに、「明日は定休日だから大丈夫」となだめるのにかなりの時間を要したのは事実だが、半分以上はレーガがそうさせたくてやったのであって、ミノリに一切非は無かったと言える。むしろ、故人を悼んで流したあの涙に、レーガがいくらか救われた気持ちを抱いたくらいだった。

「本当にそうなら俺もこんなこと言わないんだけどな。ミノリ、朝から随分落ち込んでたみたいだったし」
「そ、そんな風に見えた?」
 無自覚だったらしい。レーガは憮然として頷いた。
「見えた」
「そうだったんだ……」
 しょんぼりと肩を落とすミノリの額をちょんと指先でこづいて、「こら、そこで落ち込まない」と笑顔を浮かべてみせる。
「表情もそうだけど、朝、ミノリが花を出荷してるのを見て気付いたんだよ。大方この日に摘める頃合いを見計らって育てて、墓前に供える花束でも作ってたんだろう」
「う……」
 どうやら図星だったらしい。レーガは今度こそ呆れて溜息をついた。
「俺にも言ってくれたっていいだろう。無関係じゃないんだし」
「だって、忙しいかと思って」
 今年は定休日と重ならないみたいだし、と言い訳がましくぼそぼそ呟くミノリに、思わず食器を拭く手も止まる。
「そんなことない、とは言い切れないけど。ミノリを一人で泣かせるくらいなら、時間なんていくらでも作れる」
 真面目に言ったつもりだったが、ミノリはぽっと頬を朱に染める。「あ、う」と口をぱくぱく動かして、泣きたいような、けれど嬉しさの方がずっと勝ったような、やわらかい笑い方をした。
「ありがとうございます」
 照れているらしい。いそいそとカップを傾けて、落ち着かなく視線を彷徨わせている。
 一口飲んで、ほう、と息を吐く。まだ店内はあたたかいので、寒さに吐息が白く染まることはない。
「……本当のところは、今もまだ、やっぱり悲しくて」
 カップを置いて、ミノリは秘密を打ち明けるように囁いた。
「でも、今はだいぶ、前を見れているような気がするの。レーガのおかげ」
 ありがとう、と笑って、ほんのり上気したミノリのなめらかな頬を、涙が一粒だけ滑り落ちていった。

 涙はその一滴だけで終わった。
 彼女は、それ以上泣かなかった。



***



 翌日はレーガの店は定休日だったが、年中生き物を相手にしているミノリに、休日は無い。
 雪はもう止んでいた。けれど暗い山道を、更にさっきまで泣いていた女の子を、当然ながら一人で帰すわけにはいかず、かといって恋人でもない異性を家に泊めるのもそれはそれでどうなのかと考え、結局レーガはミノリを送っていくことにした。
 最初は遠慮していたミノリも、さんざんひどい泣き顔を見られたあとでは何かが吹っ切れたのか、案外と早く折れてくれた。

 積雪で道が分かりづらくなっているので、ぽつぽつと立てられている道標を二人がかりで確認する。下手したら遭難しそうだなと縁起でもないことを考えかけて、それ以上の想像はやめておいた。選択はこれで間違っていないと思うのだが、もし祖父が生きていたら、間違いなく怒られそうではある。

「私、春になったら花をたくさん育てようと思って」

 一歩前を歩くミノリが、振り向くことなく弾んだ声を上げる。
 足元を照らすだけの頼りない光に照らされ、ミノリの亜麻色の髪は夜闇の中でもふんわりと輝いている。
「エッダさんの好きな花、前に聞いたことがあったの、さっき思い出したんです。お別れの時にみんなが持ってたような冬に咲く花もきれいですけれど、大好きな物の方が、やっぱりもっと嬉しいと思うだろうから」
 レーガは返事ができないでいた。ミノリの方も、元より独り言のような物なのだろう。気にすることなく、喋り続ける。
「ピンクのと、赤いのと、白と、黄色と、紫のと、とにかくいっぱい。それから、リネンとコットンのリボンで束ねて。両手に抱えてもあまるくらいの花束を、たくさん作りたいです」
 彼女の吐いた息が白く染まり、すぐに空気に溶けて消えていく。
 冬の終わり、春に向けて土に種を撒くミノリの表情がどんなものになるかは、今はまだレーガには想像できない。
「届くといいな」
 それだけを言うのがやっとだった。ミノリは大きく頷く。
 春はまだ遠い。けれど、雪解けはいつか必ずやってくるものだ。今はただ、春の訪れを待ち続けるしかない。



***



 水曜日、レーガはミノリと共に久しぶりにその場を訪れた。
 ミノリが以前に供えたであろう、青い薔薇とスノードロップが束ねられた小さな花束は、雪のせいかずいぶんかわいそうなことになっていた。ミノリはそれを拾い上げると、冷たい墓石に積もった雪を慣れた手つきで丁寧に払い、新しい花束をそっと横たえる。
 雪に潰れて濡れた花束と同じく、この季節に咲く花のみで構成された、落ち着いた色合いの花束だった。

 エッダが住んでいた家や畑は今は跡形もなく、その代わりに冬の陽光を弾いてまぶしいビニールハウスや、ミノリが大事に育てている果樹が規則正しく並んでいる。広い土地の端からミノリの日々の奮闘を見守っているエッダは、今の彼女を見てどんな風に笑いかけるだろうか。

「エッダさん、もう少ししたら、また春の花束を届けに来ます。それまで、この子たちで我慢してね」

 微笑んで墓石に話しかける。ミノリはこうして、いつも季節の花を束ねて駆けていく。時には商品として出荷し、時には大好きな友達の誕生日にプレゼントして、花祭りには一輪ずつにリネンの鮮やかなリボンを結んで町の人々に配り歩き、それから、時折、大好きだった隣人にもお裾分けをする。
 ミノリの右手がレーガの左手に触れた。手を繋ぐには、それだけの合図で事足りる。レーガは掌のぬくもりからミノリの存在を確かめるように、ほんの少し強く握った。何でも器用にこなし、動物たちを愛情こめて撫で、白く細い指の先で桜色の爪が短く切りそろえられた、小さな傷をいくつも作る、世界中の誰よりも可愛い、少女の手を。

「おばあちゃん」

 空いた手で、ミノリは服の上から胸のあたりをきゅっと掴んだ。首からいつもかけているであろう指輪に触れ、ことさら明るく声を上げる。

「私、好きな人ができたんだよ」

 レーガはそっと、ミノリの横顔を見た。
 彼女の透き通る色の瞳が揺れている。
 吐く息は白く染まっては風にさらわれ、冬の空気の冷たさに、頬や耳がすっかり赤くなっている。
 しかしその目元は、頬は、唇は。まるでみずみずしい蕾が春の訪れに歓び咲き綻ぶように、美しく穏やかな表情だった。

 そのうちにミノリはこちらを仰ぎ、照れた笑みを浮かべた。
 冬が過ぎれば春が来るように、彼女はいつだって、花のように微笑むのだ。



140316 // 冬に咲く花