その剣の柄は、驚くほど手に馴染んだ。
 太陽の剣。いにしえの遺跡に眠っていた石の欠片から復元されたその赤い刀身と輝きは、泣きたくなるほど懐かしい。これが、魔王を倒すために一角獣の娘が作らせた武器なのだという伝承は、もう誰にも語り継がれていないのだろう。少し残念に思いながら、少年は――少年のかたちをした身体に宿る、ひとつの魂は――鮮明な記憶を遡る。
 15日の命。与えられた肉体。まだその島が空に浮かんでいた時のこと。車もパソコンもなかった時代。学校に通って勉強をして、テストの結果に一喜一憂するような、そんな当たり前の日常が一切なかった世界だ。あの場所で共に戦った彼女が、こうして時代と世界の垣根を越えて再び隣にいる。これを奇跡と呼ばずに、なんと呼べばいいのだろうか。
「スケイル」
「はい」
 龍の化身である異世界の女神の名を呼ぶと、彼女は微笑む。彼女がまだ神ではなかった頃――人間に憧れ、自分のために人間の身体を貰った時と同じ、咲き綻ぶ花のような表情に、知れず心が安らいだ。
「まさかまた、俺がこの剣を手にする日が来るなんて思わなかった」
「私もです。まるで夢のようで……」
 エメラルドグリーンのまつげに縁取られた両の瞳が、夢見心地にとろりとしている。彼女の視線が、少年の手の中に収まる剣に向けられていない事は明白だった。
 さっきから横顔に遠慮なく突き刺さってくる熱いほどの視線は、やはり気のせいではなかったらしい。少年は苦笑して、改めて隣にちょこんと座る女に向き直る。
「スケイル。あの世界の神になっても、お前は変わらないんだな」
「はい。貴方様も」
 しっとりと濡れた瞳でまっすぐに少年を見つめながら、彼女は幸せそうに微笑む。
「俺は変わったよ。身体だってあの時とは違う。魂だって、時間の流れと共に変わっているさ」
「いいえ。どんなに気の遠くなるような時間を越えても、私にとって貴方様はただひとりの存在です。――またこうしてお傍に居られるなんて、奇跡のような巡り合わせに、私は神様に感謝したいくらいなんですよ」
「お前だって神じゃないか」
 可笑しそうに少年が笑う。だが彼女は、至極真面目な顔でゆるりと首を振った。
「私はただ、あの世界を見守るための存在ですから。私にできる事なんて、本当に些細な事だけなんです。たとえば、そう……」
 言葉を切り、彼女は白魚のような指でそっと、少年のてのひらを包み込む。いにしえの剣の柄を握る少年の手から、ほんの一瞬だけ力が抜けた。
「こうして誰かの傍にいなければ、言葉を伝えることだって出来ないんです。啓示のように、心に直に言葉を伝えることも、また心を読むことだって、私には出来ません」
 そこまで言って一呼吸置くと、彼女はずいと身を乗り出してきた。波打つ翡翠の髪がさらりと流れ、水面のきらめきを連想させる。
「会いたかったんです。ずっと」
 まるで愛を囁くようにうっとりと言葉を紡ぐ彼女に、少年は再び苦笑した。
「またすぐに別れが来るのに」
「構いません」
 深紅の瞳が少年の青い両目を覗き込む。彼女はいつだってひたむきで一途だったな、と少年は古い記憶をたぐりよせた。
 好奇心旺盛なくせに、他の者には目を向けたりはしないのだろうか。
 少年は過去の旅の時も、今も、仮初の身体で世界と世界をつなぐだけの存在でしかない。彼女がひたむきに心を傾けるだけの価値が自分にあるとは、少年には思えなかった。
 ただでさえ、神として半永久的に世界を見守る責を負わせてしまっているのに。せめて心のよりどころくらい、彼女の手の届く範囲で見つけられればと願わずにはいられない。もっと別の幸せに身を任せてしまったほうが、彼女のためになるのではないだろうか。
 頭の隅ではそう思っているのに、それでも本能に近い部分で、少年は空いた手をそっと伸ばし、彼女の髪の一房に触れる。
(……それでも、手放したくない)
 そう思うのは子供じみた独占欲かもしれなかった。
「スケイル」
 いくつかの思いを込めて再び名を呼ぶと、彼女はマシュマロのような笑みを浮かべて嬉しそうに返事をする。
 少年は握っていた剣を学生鞄に半分押し込めると、空いた両手で彼女の頬に触れた。
 それが何かの合図だと理解していたかのように、彼女はそっと瞼を閉じる。唇が弧を描き、すべらかな頬を雫が一筋、転がり落ちた。
 あの日、最後に別れを告げた時と同じその表情に、少年はただ静かに微笑む。あの日と違うのは、少年の指が零れ落ちる涙を拭ってやれる事だ。

 すぐにそうできなくなる日がやって来ると知りながら、それでも少年は、彼女に触れるのをやめようとはしなかった。



110522 // 勇者と竜と太陽の剣