一つの墓を前にして、少女は泣き腫らしたまぶたを閉じてじっとうつむいていた。
 アーウィンはそれをただ眺めている。彼女が顔を上げるのを辛抱強く待つつもりは毛頭ないが、かと言って何か声をかけてやる義務もない。中途半端な苛立ちが胸の内を這いずり回って気持ちが悪い。だが決して顔には出さずに、かわりに墓石に刻まれた名からさりげなく目を逸らした。

 人は皆、遅かれ早かれ死ぬ。

 それが自然の摂理で、フレデリックは人として死んだ。ただそれだけのことだった。
 人間の死や、冥使と人間の間に横たわる深い溝や時間の感覚の差について、アーウィンはさして大きな興味も感慨もない。だが『彼』と全く同じ名が刻まれた石を目にすると、死とは何だろうかと頭の片隅でぼんやりと考えてしまう。
 滑稽だとは自分でもわかっている。だがその思考は、アーウィンにとって唯一無二であった友の存在が、膨大な時の流れの中にあってさえ、かけらも風化することはないのだという証でもあった。まぶたを閉じさえすれば、記憶の中に焼きついた眩しい灰色の人物をはっきりと思い出すことができる。その事実にほのかな安堵を覚え、アーウィンは細く息を吐いた。
「レナ」
 いつまでも顔を上げようとはしない少女にしびれを切らして短く声をかけると、呼ばれた少女はようやくのろのろと振り向いた。
 琥珀の双眸はひどく虚ろで、何を見ているのか、そもそも何か見えているのかすら怪しい。鈍重な挙動はアーウィンをわずかに苛立たせたが、それよりも白み始めた空の方が気になった。
「じきに夜も明けます。体力を消耗した状態では、日光は毒になる」
 忠告のつもりで口に出した言葉は、どうやらレナには届かなかったらしい。ゆるりとした動作で頷くような素振りは見せたものの、つまさきどころか指の一本すら動かすつもりはないようだ。レナに同情する気はかけらもないが、身近な人間が亡くなった際の喪失感は、アーウィン自身もよく覚えている。 苛立ちは未だ残るものの、それ以上何かを強く言う気にもなれなかった。

 その日は、木々の隙間から見える明け方の金星を眺めながら朝を迎えた。


***


 東洋では、死は火によって清められ、魂は煙と共に天へ昇るのだと言う。
 肉体が焼けてしまっては魂ごと焼き払われるのではないかと、アーウィンは思う。
 だからレナが墓を暴き、彼の遺体を焼きたいと言った時、さすがのアーウィンでも驚きを隠せなかった。
「正気ですか」
「わからないわ」
 声だけは普段の冷静さを保った問いかけに、レナは弱弱しく呟いた。
 無理もない。遺体が収められた棺に土が被さる光景ですら、泣きじゃくって手を伸ばして、何度も彼の名を呼びながら見ていたのだ。
『そんなに土を被せてしまっては、重くて身動きが取れないわ。お願い、やめて、やめて――!』
 つい先日に聞いたばかりのレナの悲痛な叫びが記憶から掘り起こされる。
 “村”の祓い手の男が二人がかりで止めなければ、レナは早急に土を払いのけ、棺を開けて、横たわる冷たい肉に血を捧げようとしただろう。
 馬鹿な娘だ。央魔の奇跡で死者が――まして、祓い手を束ねる大老師ともあろう者が蘇るなどあってはならない事だし、そもそも奇跡を起こすには時間が経ちすぎていた。
 死は必然であり絶対だ。彼が人である限りは。
 レナは、未だにその事実を受け入れる事ができていない。
「でも私は待てないのよ、アーウィン。私の血も、土も、今すぐにだって用意できるわ。だけど骨は……」
 そこで一呼吸置いて、レナは琥珀の双眸をまっすぐにぶつけてきた。
「アーウィン、私に力を貸して頂戴。お願いよ。私はあの本の内容を知らないの。フレディはきっと知っていたのに。私には絶対に見せてくれなかった」
「レナ」
 ともすれば泣き出してしまいそうな表情を見せるレナに、アーウィンはできるだけ静かに名を呼んだ。苛立ちや焦燥に似た感情が、わずかに胸中でくすぶり始めている。
 本当に、この少女は愚かだ。
 アーウィンは己の唇が笑みのような形にゆがめられるのを隠そうとはせず、レナを睨むように見つめた。
 このヒヨコのような娘が、フレデリックのマガイモノでしかない娘が、禁書に記された儀式を行おうというのだ! 例え良い出来栄えに仕上がったところで、土と血で作り出した偽者は本物との違いを突きつけられ、喪失感を一層煽るだけだというのに。虚しさに苛まれ、嘆きと後悔に歪むであろう少女の表情を思うと、熱い怒りのような感情がふつりと湧きあがる。
 そこまで考えてから思考をはたと思い留め、少女の言葉を一蹴しようと喉を通りかけた言葉を飲み下した。

 央魔の血を使えばどうなる?

 アーウィンはまだ、あの青い壷を大切に持っている。その中に残るものも変わらず在り続けている。あの眩しく輝く灰色の面影も未だ強く心の中に焼きつき、アーウィンの大部分を占めている。
 実験も成功した。サンプルもデータも充分に集まっている。次こそはもう少し、完璧とは程遠いだろうが、目の前のちっぽけな少女よりは遥かに近く作れるかもしれない。
 何しろ、央魔の血だ。
 それもただの央魔ではない。強く認めたくはないが――皮肉なことに、レナはフレデリックのかけらから作られた、この世に存在する物の中では最もフレデリックに近い物だ。奇跡を起こすことができる可能性ならば、堕ちた聖女よりもレナの血のほうが高いに違いない。
 その考えは憶測と希望の域を越えないものではあったが、アーウィンの脳髄を甘くしびれさせるには充分だった。
「……レナ、あの儀式には充分な準備が必要です」
 再び開かれたアーウィンの口からは、驚くほど静かな声が零れた。
「ええ、わかっているわ」
「あれで作りだすのは、元の人間そのものではない」
「でも、フレディと何もかもが違うわけではないわ」
「魂も記憶も全く違う」
「身体を構成するのは、フレディの一部だもの」
 淡々とした問答に意味がないことくらい、アーウィンもレナもわかりきっている。レナに問いかけることで、アーウィンはもう一度自分自身に言い聞かせているのだ。あの儀式の必然性を。フレデリックを求める心の正当性を。倫理観も死生観もどうだっていい。あるのはエゴと、いつまでも埋まることのない喪失感だけだ。
 体力も気力も、材料もある。あの儀式を再び行うのには丁度良い頃合なのかもしれない。それを思えば、レナにほんの少し付き合ってやることくらい――墓を暴いて土の下に埋もれた肉体を焼き払うことなど、些細なことのように思えた。
 禁書は恐らく“村”のどこかに厳重に保管されているのだろうが、あの本の内容ならば何度も繰り返し読み込んだおかげで、しっかりと覚えている。
 何も煩わしい事などない。
 ただ一つ懸念すべき点は、レナは例え一人だろうと、禁書の内容を充分に知らなくても、夜中にこっそりと部屋を抜け出しては墓を掘り返して燃やしかねないという点のみだった。
 琥珀の瞳は決心を固め、揺らぐことなくまっすぐアーウィンを見返している。
「アーウィン、私は」
 赤いくちびるが蝶のようにふわりと開いた。
「フレディにもう一度会いたいの」
 決意に揺らぐ琥珀の炎は、強い風に煽られればより激しく燃える。
 それはアーウィンが一番よく理解している。アーウィンの黒く静かな双眸ですら、同じような激しい炎を纏っているのだから。


 炎さえ育てばあとは簡単なことだった。
 腐りかけた肉を燃やすのは多少難儀であったとはいえ、湿った土に埋もれていた棺も、ところどころ崩れてほつれた遺体も、墓所の静謐な空気ですら、炎はすべてを咀嚼し、飲み込み、また喰らっていった。
 髪や肉が焼けるにおいは顔を背けるほどのものではなかったが、気分の良いものではない。アーウィンはわずかに眉をひそめ、ひとつ息を吐いて空を仰いだ。
 木々に囲まれるようにしてひっそりと存在する小さな墓所には黒煙が立ち上り、空を覆いつくさんとしている。時刻は真夜中をとうに過ぎている頃合だというのに、夜空よりも黒く染まったそれは今にも重い雲になって激しい雨を連れてくるのではないかとさえ思った。
 炎を消してはならない。
 胸の内を焦がす炎は未だ静かに燃えている。期待、不安、嘆き、焦燥――そしておよそ言葉として形容しがたい強い感情と衝動が、今もアーウィンを突き動かしている。
 その感情が消えてしまえば、自分は死ぬのだと思った。
 冥使と隣あって歩ける人物はきっとこの世界にはフレデリックだけしかいない。アーウィンの中に欠けたものがあるとするならばそれは彼の存在に他ならない。ぽっかり空いた空洞は何としても埋め合わせなければならなかった。例えそれが愚かな慰みにしかならないとわかっていても、一度くすぶり始めた衝動を消すことは、即ちフレデリックの喪失を認めるということでもあるのだ。
 それだけは許せなかった。
 アーウィンは再び視線を戻すと、傍らに佇む少女を見た。
 最初こそ異臭に拒絶反応を示していた小さな身体は、今や落ち着いて黒い煙の行く末を見守っている。
 彼女は何を思っているのだろうか。
 小さな白い陶器の壷を胸の前に大事に抱えて、白い横顔は蝋人形のように表情がない。下唇を強く噛み、何かに堪えるようにじっとしている。
 哀れなほど悲壮感の漂うその横顔に、しかし強く燃え盛る炎が宿っていることを、アーウィンは知っている。だから何も言わずに赤々と燃える肉体を見つめ、少女の震える肩は見ないふりをする。
 もしかしたら彼女はここでようやく、フレデリックの死と向き合っているのかもしれなかった。

「……炎でも、すべては燃やせないのね」
 地上に残された彼のほとんどが焼失してしまったためか、当初ほどの強いにおいもない。
 炎の影に白い骨が残っているのが見えて、レナは思わずといった調子で呟いた。
「すべて残っているわけではありませんよ。随分残っているように見えて、その実ほとんどは燃えてしまっています」
「でも、確かに残っているわ。これだけあれば充分なんでしょう?」
「……そうですね、儀式を行うには充分です」
 失敗の可能性については言う必要性はないように感じた。
 レナは血の気の失せた顔で、唇をほんの少しゆがめる。笑っているようにも、泣いているようにも見えた。絶望の淵でわずかな希望を掬い取る、愚かな人間の表情だ。まるで鏡を見ているかのような錯覚に陥り、アーウィンは強い不快感を覚え、その感情をやり過ごした。

 地を這いずる火の粉に土を被せて、そろそろ火を消す頃合かと空を見れば、今や煙は細く立ち上るばかりで、紺碧の空に吸い寄せられるかのように霧散していく。雨の気配は微塵もない。
 夜明けにはまだ遠いが、早急に終わらせてしまったほうがいいだろう。
 今更“村”に戻るつもりはない。監視の祓い手が倒れているのを、他の者に見つかる前にここを離れなければならないのだ。
 土をかけ、火をもみ消す。燃え残った骨は暗闇の中にあって白く輝くような存在感を放っている。
「レナ」
「うん」
 鋭く呼べば、レナは素早く頷いた。用意していた厚い手袋をつけ、まだ熱の残るそれを拾い上げていく。
 少女の挙動は、骨のひとかけら、粉の一粒すら見逃さないといった様子で、一点の迷いも曇りもなかった。ひとつひとつを恭しく拾い、音を立てないように陶器の壷に収めていく。
 息すらも張り詰めているかのような静けさで、レナはまるで神聖な儀式を行っているかのようにその作業に没頭した。彼女の横顔に、弱さは見られない。
「すべて拾おうなどと考えてはいけません」
「わかってる」
 丹念に骨を拾うレナに釘を刺す一言は、すぐさま鋭く一蹴される。強い決意に燃える双眸と、白い横顔はアーウィンに何かを想起させた。
 ――いや、違う。
 ふと浮かびかけた考えを、アーウィンは間を置かずにもみ消す。
 レナは所詮マガイモノであり、別の生き物だ。決意に燃える少女の横顔をほんの一瞬でもフレデリックに重ねたことを、アーウィンは強く否定し、密かに後悔する。

 夜明けの金星は未だ見えない。朝を迎える前に、彼らは“村”を去った。


***


 湿った墓土に大量の血を混ぜ、丹念に捏ねる。
 アーウィンはほとんど血を失った状態だったが、けだるい身体を横たえることなく少女の手際を見つめていた。
 あまり器用とは言いがたい手つきではあったが、少女はその分丁寧に、じっくりと時間をかけて土を盛り上げていく。青ざめた顔は恐怖のためでも、緊張のためでもない。彼女もまた、その血を使って土くれに命を吹き込もうとしているのだ。
 後戻りはできなかったし、するつもりもなかった。絶望と後ろ暗さに満ち溢れているはずの儀式は、央魔の血が奇跡を起こすのかもしれないという期待と興奮に、異様なまでの熱っぽさを帯びている。
 血と土に濡れた小さな手が少しずつ、土塊を人の形に作り上げていく様は幼稚でもどかしく感じたし、手出しができないほどの神聖さを帯びているようにも見えた。アーウィンは工程を指示し、間違いを正す以外には少女のやり方に口を挟まないつもりでいた。自分の手でやるべきだとも考えていたが、央魔にすべてを委ねてみるのもいいかもしれないと考え始めていたからだ。
 フレデリックのかけらから作られたものが、フレデリックを作ろうとしている。
 これほど馬鹿げている光景がこの世に二つと存在するだろうか?
 その先にあるものを見てみたいと思ったし、今はこれで充分だとも思った。
 手元に残った青い壷の中身は、また新しく儀式を行うだけの分量はある。時間はアーウィンに味方する。
「ねえ、アーウィン」
 土をいじる手を休めずに、レナは小さな声でアーウィンに呼びかけた。
「私の血は役に立つのかしら」
「さあ。前例もありませんし、どう転ぶのかわかりませんね」
「……フレディは今の私を見て、なんて言うのかな」
「さあ」
 問いかけに正直に答えてみせると、レナは溜息のように曖昧な声を零して再び作業に没頭した。
 この先に待っているものが一体何なのかは、アーウィンにもわからない。唯一わかることと言えば、彼らが行っている儀式は世界の理に反するもので、フレデリック・オーゼンナートの死を冒涜する行為であるということだけだった。

 そこまで考えて、アーウィンははっとする。

 今形作られている土の塊は、果たしてどちらのフレデリックなのだろうか。アーウィンが思い描く輝かしいシルバーグレーの人物と、レナが切望する人間の姿の輪郭の違いを探そうとして、それは結局うまくいかなった。そのぐらい彼らは――あの『小さかった』フレデリックは、忌々しいほどに友に似ていた。生き写しと言っても過言ではなかったし、棺に横たわる冷たい灰色は、かつてのフレデリックを彷彿とさせ、アーウィンに再び深い喪失感を与えた。
 レナがぺたぺたと土を固める音だけが耳に届く。
 彼女はオーゼンナートの第七子を求めている。初代の再来と謳われた祓い手の姿を、形を、声を思い描きながら、脆い希望に縋って土を盛り続けている。
 アーウィンはわからない。
 ふたりの灰色の人影が思考の中で交差する。もし、うまくフレデリックに似たものが作れたとしても、それは果たして自分が望んだ方だったのか、それとも少女が望んだ方だったのか……曖昧な輪郭の境の前では、自分がどちらを望んでいるのかすらも、判別はできない。
 魂は戻らない。記憶はない。姿だけが全く同じの少年が作られるだけで、その先に幸福な結末は待っていない。
 それでも、作られた央魔の血に縋って結末の先の先を見届けようとしている自分は、きっと何よりも滑稽な姿をしているんだろうと思った。そう考えると、可笑しくてたまらなかった。

「……会いたいなあ」

 ぽつりと呟かれた少女の言葉が、やけにアーウィンを苛立たせた。
 どんな結果であれ、人の道を外れた愚かな者達に希望は訪れるはずもない。――だが、それでもいい、とアーウィンは思う。
 暗い絶望の夜の中で彼らを導けるのは、夜明けの金星によく似た、あの尊いシルバーグレーの輝きだけだ。他には何もいらない。幸福ですら必要とは感じなかった。

 おとぎ話のような幕引きは、元より誰も望んではいないのだ。



101214 // ハッピーエンド