ねえ遊星、と呼ばわる声は随分と控えめで、ともすれば聞き逃してしまいそうに細かった。ほとんど吐息と表現しても差し支えないくらいの囁きが自分の名前を形容していた事にほんの少し胸をざわめかせて、遊星はちらりと彼女の横顔を見遣る。
 夕暮れのガレージには誰も居ない。このタイミングは奇跡的といってもいい。毎日やり取りされるどうでもいい口論や、くだらない冗談や、D・ホイールのエンジン音や、パソコンのキーを叩く音、その全てが失せたガレージは気味が悪いほど静かだ。この静けさを以って初めて出来上がったなんとも歯がゆい空間に、ここにアキと二人きりでこうして並んで座っているという事実に、遊星は喉を絞めつけられるような感覚を覚えた。
「どうした、アキ」
 名を呼ばれて一拍の間が空いたのが息苦しくて、言葉の続きを促す。
 それでもアキは、とっくの昔に空っぽになったマグを手の中で弄ぶだけで、すぐには声を発しない。
 ――コーヒーには砂糖は入れずに、ミルクをたっぷり入れて飲むのが好きなんだと、つい数日前に初めて知った。ついでに、どちらかというと紅茶派なのだということも。
 更にたっぷり十秒程の間を置いて、アキはかすかに開いた唇をゆるりと動かした。
「……やっぱり、なんでもない」
 そうか、と短く返せばまた沈黙が空間を支配する。カチカチと秒針の音がやけに耳に響いた。
 夕暮れに沈むガレージの中は薄暗く、明かり取りの窓からの薄い光では少々心もとなくなってきた。
 薄赤の夕陽が、きらきらと降る埃を浮かび上がらせている。
「最近は随分、日が落ちるのが早いな」
 思った事をそのまま口に出す。そろそろ明かりをつけたほうがいいのかもしれない。けれど身体がうまく動かせない。立ち上がってスイッチを押す、ただそれだけの動作なのに。
「そうね、もうすっかり暗くなってる」
「……まだ、いいのか」
「何が?」
「帰らなくても」
 親御さんが心配するだろう、と付け加えると、アキはかすかに首を振った。
「大丈夫よ。私だって、もう子供じゃないもの」
「だが、」
「行き先は言ってあるし、本当に遅くなる前にはちゃんと帰るわ。大丈夫」
 遊星の言葉を遮るように、アキは頬を緩めた。相変わらずその声は細くて、まるで息を潜めているかのようだ。
 彼女の爪がマグの取っ手にぶつかる音がした。かちり、と鮮明に聴こえた音が妙な重さを持って落ちる。言葉はそれ以上続かない。静寂だけが二人の間に横たわる。
 どちらかがほんの少し身じろぎをすれば、布の音がした。ちょうど一人分の間を置いて座ったソファの、微妙な距離がなんとなく落ち着かない。窓を見上げれば、四角く切り取られた空に一番星が輝いているのが見えた。
「……コーヒー」
 再びアキが言葉を転がす。薄闇に沈みそうな部屋の中にあって、彼女の赤い髪はその鮮やかさを失わない。唐突に投げ出された単語の意味が咄嗟に理解できずにアキを見遣ると、猫のような琥珀の双眸とぶつかった。
「おかわり、いい?」
 ぱちりと長い睫がひらめいた。控えめな響きを持った言葉にようやく遊星は腰を上げる。
「さっきと同じでいいか?」
「ううん。今度は砂糖も欲しいわ。……控えめにね」
「わかった」
 長いことアキの手の中に囚われていたマグをひょいと拾い上げて、自分の分も手にする。立ち上がったついでに明かりもつける。スイッチの小さな音とほとんど同時に、薄闇はさっと追い払われた。

 ソファから立ち上がっただけで、つい今まで遊星を取り巻いていた息苦しさがすっと和らぐ。
 アキとは普段通りに接しているはずだ。なのに何故息苦しさを感じなければならないのだろう。……その理由は分かってはいる。なんとなく。けれど彼女は、――アキは、同じシグナーの仲間であって、チームメイトであって、信頼と絆が遊星とアキを繋ぐ唯一の糸であって。かつてのしがらみから解放されて、普通の少女のように明るくなったアキは、普通の幸せを手に入れる権利があるはずで。
 そういう言い訳じみた言葉が、頭の中に浮かんでは消えていく。こんな事で思い悩む自分はらしくない。そう言い聞かせると同時に、自分にはこんな一面もあったのかとほんの少しの驚きを覚えていた。
 風に揺らぐ赤い髪や、凛と背筋を伸ばして立つ彼女の、薔薇のように誇らしげな姿や、それとは裏腹に脆く儚い一面や、心の底から浮かべた笑顔の温かさ。その一つ一つを思い浮かべる度に、先程感じていた息苦しさにも似たものがもやもやと胸の奥を這いずり回った。これを好意と呼ぶのには随分と抵抗を感じる。遊星が抱えているものは多分もっと、別の何かだ。砂糖とは程遠い、タールのように重くどろりと底を這うような、そんな。

 アキの言う「控えめ」がどのくらいか分からないので、適当に作ったカフェオレを彼女に差し出すはめになった。
「……ちょっと、甘い。かも」
 一口飲んでほう、と溜息と共に呟いた声にも、ほんの少し砂糖が混じったようだった。
「すまない。どのくらいか量を訊いておくべきだったな」
「ううん、いいの。このくらいの甘さも好きだもの」
「……今度はもう少し、アキの好みに合わせて入れるようにする」
「気にしなくてもいいのに」
 くすくすと笑う声が耳に心地良い。並んで少しずつコーヒーを飲む。またほんの少しだけ、二人の間に横たわる静寂の時間が長くなる。
 その時間が嫌いなわけじゃない。その証拠に、遊星はさっきよりも少なくとも5センチは距離を縮めて座っているし、ジャックやクロウやブルーノが帰って来る時間が遅くなればいいと願ってさえいる。
 遊星はこっそりと、アキの横顔を見た。白い湯気がアキの頬を撫でて、マグがほんの少し傾けられている。彼女のカフェオレが減るペースは控えめと表現するにはあまりにも遅すぎて、ひょっとしてアキも、この微妙な距離と沈黙とで構成された時間を少しでも先延ばしにしようとしているのではないだろうかと、希望的観測がよぎった。もしもそれが本当なら、あと10秒でいい。この空間を壊すような雑音が入らないように、ガレージに誰も近づかないでほしい。
「ねえ、遊星」
 再び沈黙を破って、彼女が名を呼ぶ。その次に繋がる言葉を、遊星は期待していない。手探りでたどたどしく綴られる会話と間に降り積もる静けさと、そして何より、二人が隣に並んでいるという息苦しさが、遊星とアキを満たしている。それ以上もそれ以下もない。元より言葉に意味はないのだ。
 ほんのりと温かいアキの細い指先が、遊星の指に触れた。そのささやかな接触にさえ、何かが満たされるような音がした。



101019 // 心音
101021 - 改稿