たとえば私が朝起きて夜眠るまでの、ふつうの人に約束されたなんの面白みもない普遍的な生活というものを彼は送っていないわけで、そもそも人を縛るルールも人を包む幸福さえも蹴り飛ばして生きることを選んだあいつに、私は何もしてやれないのかもしれない。それでも彼の過去を知ってしまったから、そのまま放っておくわけにはいかない。正義感とか人を守りたいとかそうなるのが当然だとか、そういうことではなく、私自身が彼の身を、心を、行く末を案じているのは紛れもない事実だった。
「ねえクロちゃん、お前のご主人様は今頃何してるのかしらね」
 すぐ傍でキャットフードをせわしなく頬張る黒猫に話しかけてみるも当然返事は返ってこない。ただひたすらに目の前の食べ物を貪る猫。あらゆる生物にとって、生きるために欠かせない欲の一つである食事は、この小さな生き物にとっても生きるうえでの大きな喜びであることに違いない。そのたったひとつの喜びでさえ、あの男はただ命を維持する作業として食料を胃に詰め込んでいるだけに過ぎない。すべての幸せを放棄した隣人は、今もなお他人をだます詐欺師を潰し回っている最中なのだ。
(そんなの、まちがってる)
 何が間違っているとも言えない。ただ漠然とそう思った。
 確かに、人を騙してお金をかき集める強欲な人間が美味しい思いをしていることは間違っているし、それを裁けずにいるこの国の法も、あの男が法を掻い潜りながら詐欺をやっていることも、そして彼がその道を選んだ理由も、吉川氷柱に言わせてみれば全て「間違っている」。それでも世の中というものは不思議なもので、聖人も罪人も正義も悪も差別することなく平等に巻き込んでうまく回っているものだ。たくさんの人々が何らかの犠牲になり、涙を流しているというのに。それすらも嘲笑うかのように、世界は無慈悲にも冷酷に私たちを取り込んでいる。あの男だってその中の一人だ。そしてカミサマが突き放した人間たちの中の一人でもある。人のぬくもりも優しさも跳ね除けて、暗い道をたった一人で歩いていく孤独な人。誰よりも大嫌いで、誰よりも傍にいたいと願ってしまう矛盾した思いを抱えながら、私という小さな存在では彼を包み込むなど到底できそうにないことを会う度に思い知らされる。
「すきなのにね」
 ぽつりと呟いたはずの言葉は思ったよりも重く響いた。
 自覚してからはより一層強くなる思いに胸が引き裂かれそうで、その痛みにどれだけ苦しんできたか。それでも彼の過去に比べれば些細なものに違いないのに。差し出した思いが彼の手で叩き落とされた、ただそれだけで深く傷つく。なんて勝手な人間なんだろう、私は。それでも彼に幸せを与えてあげたいと願って手を伸ばしたくなるのは、身勝手な思いなのだろうか。
 食事が終わり、毛づくろいをした黒猫はとてとてと玄関先まで歩くと、木製のドアを遠慮がちに引っかき始めた。ああきっと外に行きたいんだわ。猫の思いは伝わっても氷柱はその場を動く気にはなれなかった。かりかりと不規則に聞こえる摩擦音がひどく耳に心地良く、目を閉じてベッドに身を預ける。
「ごめんね、クロ。今日だけはここにいてほしいの」
 わがままな私を許してね。心の中で謝りながら、ちらりとあの男の姿が頭によぎる。記憶の中の彼はいつだって私をまっすぐ見ようとはせず、真っ黒な目は不機嫌そうにこちらを睨んでいる。いつか彼の心に全ての氷を溶かす春が訪れたらいいのに、そう思うことさえも拒絶されてしまっては成す術はない。氷柱はだらしなくベッドに寝転んだまま、外界を切望する猫をぼんやりと見るともなしに眺めていた。

080329 // 机上の幸福論







「おい、いい加減に家賃払えよビンボー学生」
 ああ、課題の提出日の締切りが迫っているなあと頭の隅で考えながら扉を開けると、そこにはこの世の中で今最も会いたくない男がタイミングよく突っ立っていた。半分ニヤけた表情は正に人を馬鹿にするようなものと言っても過言ではなく、実際に目の前の男は何が楽しいのか連日こうして嫌味なほどに家賃を要求してくるのだから性質が悪い。もちろん先月の家賃を滞納している氷柱にも過失はあるのだが、そうでなくても底意地の悪い大家はいたいけな女子学生を労わる心など、これっぽっちもないに違いなかった。
「だから、今はまだお金がないんだってば」
「言い訳は聞きたくねえなあ」
「大体、そうでなくてもあんたはお金に困ってないでしょ」
「それとこれとは別だ。大家が金持ってたら家賃は払わなくていいなんて法律はないだろ」
「ううう……」
 それ以上言い返すことができずに、氷柱は肩を落とした。課題を間に合わせるため、ここ最近バイトを減らしていたのは正直言って失敗だった。かと言ってここより安いアパートはこの辺りのどこを探したって見つかるはずもなく、嫌でもこの詐欺師大家の隣にいなくてはならない自分の境遇を呪いたくなる。
「もうすぐ給料日なの。それまで待ってくれない……かな?」
 ああ、何が悲しくて詐欺師に頭を下げなければいけないんだろう!黒崎はこの状況を楽しんでいるに違いないそうに決まっている。けれどこのアパートの大家でもあるわけで、下手に逆らうことができないのだからどうしようもない。家賃も払えない自分の惨めさに氷柱はちょっとだけ泣きたくなったけれど、黒崎の前で泣くなんてあってはならないわけで、いやそれよりも何よりも情けない自分をアピールするように涙を流すなんて真似は他でもない自分自身が許せないので、ぐっとおなかに力を込めていろいろなものを押し込めた。ちらりと黒崎の顔を伺うと、奴はおもむろに、どうでもいい世間話をどうでもいい人間としてしまった、といった具合の表情で盛大に溜息を吐きやがった。こいつ。人の必死さを何だと思っているんだ。
「別にいいけど。その代わり利子は高くつくぜ、ビンボー学生さん」
「なっ……!」
 酷すぎるわよこの詐欺師!思わず叫ぶと黒崎はにやりと笑った。
「大家に家賃を払うのは当たり前だろ?」
「ううう……!」
 何も言えずに肩を震わせている氷柱にもう一度笑いかけて、(言うまでもなくあの底意地の悪い、口の端を上げてこちらを見下すような笑い方で)黒崎は不意に歩き出した。ポケットから出したキャンディーの包装紙を剥ぎ取りながら、階段をゆったりとした歩調で下りていく。カン、カンと鈍い金属音が昼下がりの静かな住宅街にやけに大きく響いた。
「どこ行くの?」
 気付いた時には氷柱は思わず声をかけていて、声をかけてしまったことに自分自身が一番驚いていた。別にあの詐欺師がどこに行こうと勝手ではないか。きっとまた“仕事”のネタを探しに出かけているに違いないのだから。
 無視をしてそのまま歩いていくに違いないと思っていたから、まさか黒埼が振り向くとは本当に想定外の出来事で、氷柱はびくりと肩を震わせた。余計な詮索はするべきではないと睨まれるものかと思っていたのに、そんな様子も見受けられない。黒崎は軽く肩を竦めて、頬張っているキャンディーの棒を指差し、
「買い置きがないから補充」
 とだけ答えてさっさと歩いていった。
「……もう、何なの」
 ぽつんと立ち尽くした氷柱は溜息にもならないくらい小さく息を吐いた。冷たく突き放すこともあればこの世のすべてに絶望したかのような哀しみを浮かべる時もある、黒崎のそんな表情は何度か見たことはあるけれど、年相応に見えたのはもしかしたらさっきのが初めてだったのかもしれない。一体彼が何をしたっていうんだろう。“もしも”を考えるわけではないけれど、詐欺師なんてものがこの世にいなければ、きっと今頃、氷柱は意地悪な大家にしつこく家賃を要求されることはなかったのだろう。そう思うと複雑な気分になってきて、あり得るはずもない空想を急いで掻き消そうとでもするように、氷柱は早足で歩き始めた。

080329 // いじわるなかみさまとふたりの距離







唇に残った感触が酷く不快だった。ゼロになった距離で感じてしまった彼女のあたたかさとかやわらかさとか、意外にも花のような香りがすることだとかそういったものが自分の中に染み込んでくるようで気持ちが悪い。彼女の存在という現実ごとすべてを吐き出して抹消してしまえたらどんなにか楽であろうに、記憶というものはやっかいなものだということをここまで痛感したことはもしかしたら初めてなのかもしれない。
 ばしゃりと盛大な音を立て、自らに叩きつけるように水を口の中に掻き込む。漱ぐつもりが、まるで獣が肉に喰らいつくかのような行動のように思えて笑えてきた。所詮あの出来事も咀嚼して自らの中に収めてしまっている自分が滑稽で仕方がない。記憶とはそういうもので、自らが体験したものならば分け隔てなくかき集め、消化されて溶けていくまでは永らく抱え込まなければならない決まりになっている。その中には死ぬまで原型を留めているものもあるのだから性質が悪い。そしてそれらは決まって、忘れたいと強く願っている記憶であることは己が一番良く理解していた。
 そうすることしかなかったんだと自分に言い訳をしても、過去は変えられない。忌々しい過去なんて今まで山ほどあったというのに、今回の出来事は特にその中でも郡を抜いているものだ。吐き気がする。今までで一番他人を近くに感じ、そのぬくもりにほんの一瞬だけ自分の過去も恨みも憎い人間を殺してやりたいという執念すらも薄らいでしまいそうになっていたことが忌々しく、その瞬間の自分を今すぐ引っ張り出して罵倒してやりたい気分になる。それでもその行為をしたのは紛れもない自分自身であることは否定できなくて、(たとえあれが世間一般で愛を確認し合う行為だとしてもあの場合はそうではない。それを加味したとしても感触を忘れないでいる自分が腹立たしい。)だからこそこんなにも苛立っているのかもしれない。
 人並の感情も好意も必要ない。ただ俺は憎きシロサギ野郎を喰いつくして破滅させたい、それだけだ。そのためなら殺してやりたいと願ってやまないタヌキ親爺の力を借りることも奴の手駒になることも厭わない。そしてその生き方を自らの意思で選んだからには、他の一切を捨てなければならないことはわかりきっていることだった。平穏な日常も人並の幸福も、闇の世界を這いずり回って生きる自分には必要のないものだ。否、必要としてはならない。それなのに彼女はどうして邪魔をしたがるんだろうか。彼女は自分のことを好きだと言った。表の世界で生きていながら、じっとこちらを伺うその眼差しが、まるで楔を打ち込んだかのように離れない。あの女が自分勝手に想いを告げた時の表情を思い出す。あの時とそっくりだ、とどこか冷静な俺の頭が勝手に思う。あの時感じた苛立ちと、今感じている憤りが。彼女はいつだってあたたかな陽の中からじっとこちらを見つめている。手を差し伸べても仕方ないと諦めているような素振りを見せるくせに、そのぬくもりを分けてあげようと切望するその表情は目を背けたくなるほど痛ましく、同時に憎悪する。
『あんたのことが好きだから』
 いつか無表情に告げられた愛の言葉が、はっきりと蘇る。
 お前は必要ない。俺の歩く道に、お前はいらない。
 記憶の中の彼女を拒絶しても過去は変わらない。彼女の唇の熱さも舌のやわらかさも吐息の甘さも覚えている。その記憶は自らを形成するすべてを土足で踏みにじってくる、まるでウイルスプログラムのようだとふと思って自嘲した。

080329 // バグ
080609 - 改稿








 唇に残る感触がひどく生々しくてかなしかった。触れ合う箇所から彼の吐息とともに、あたたかな体温が流れ込むような気がして、そうすることで彼がとても冷たいものになってしまうのではないかと一瞬だけ恐怖を感じた。と同時に、この方法で言葉を奪う彼が心底憎らしくなった。幼い頃に思い描いていたのはもっと甘く、優しいものだったけれど、こんなものは互いを傷つけあう行為でしかないように思える。
 頭からすっぽり毛布にくるまって、私はそっと唇に触れた。彼の体温とかやわらかさとか吐息とかほんの少しの煙草のにおいとか、そういったものがリアルに思い出せてしまって涙があふれてくる。いっそこの記憶ごと消せたらいいのに。彼の何かを知るたびに、私の中は罪悪感と自分の無力さで一杯になってしまっていたけれど、こんな思いははじめてだった。怒り。悲しみ。そして何よりも、自分ごときには所詮彼をどうこうすることはできないと思い知らされる絶望感。自らのエゴを貫いて、もっと彼に近づきたい、彼の隣にいたいと願っていた想いすら、彼の残虐な言葉によって吹き消されてしまいそうだった。
 私は彼に恋をした。同情と恋情を履き違えているかのようなその衝動はいつだって私が過去に構築してきた私という人間を崩してしまいそうな破壊力をもって表に出ようとしていたのに。はじめて触れ合ったその瞬間、私は泣きたくなった。状況はどうであれ、彼の温度を知ってしまったのだ。あの状況にあってさえ、彼はあたたかいのだ。日常を蹴り飛ばした、闇の中に潜む哀しい詐欺師のくせに。私と一体何が違うっていうんだろう!
 彼と私の間には越えられないとても大きな河が横たわっていて、その濁流は凍えるような冷たさですべてを飲み込んでしまう。闇の中に足を踏み入れる彼の背を遠くから眺めることしかできなくて、叫んでみても声は届かない。今なら思う。距離がゼロになったあの瞬間、私の熱も何もかも持って行ってしまえばよかったのに。そうでなければ少しでも私の熱が彼の記憶に留まっていればいい。好きだという思いを、一方的に投げつけたあの時のように。私が彼の唇のやわらかさも吐息の熱さも覚えている間は、彼の中にも私の熱が残っていればいいのに。そして少しでも、その熱に焦がされて苦しんでしまえばいい。
 いくら想いを寄せても絶対に答えてくれない相手なのに、それも今夜、散々酷い言葉を浴びせられたのに、それでも彼は依然として私の脳内のほとんどを占めていた。こんなのって、酷い。知らず零れた涙に気付かないふりをしながら、私はお気に入りのぬいぐるみをぎゅっと握りしめた。
 私は彼を許せない。私はこの悲しみを、怒りを、きっとこの先私の身の内に抱え込んで手放さないに決まっている。それでも私はまだこんなにも、彼を思い続けている。それがもう恋なのか憎悪なのか、果たして別の何かなのかはもう判別ができそうにない。こんなに苦しい感情を、私は知らない。それでも唯一確信して叫ぶことができるのは、彼の存在が私を苦しめる原因だということだけだった。かつて私が一方的に想いをぶつけた時のように、またしても一方的に向けられる感情のベクトル。あの時はそれで一向に構わなかったけれど、今回ばかりは許せなかった。
 今夜の出来事が、少しでも彼の身の内を焼けばいいのに。私は改めて願う。闇色にそめられた彼の身の内を、ほんの少しだけ私の存在が支配してしまえばいい。ううん、そんなに大きくなくてもいい。せめて、その脆くも強固な防壁に小さな穴は空けられる針くらいにはなってほしい。そのささやかな願いを秘めて、私は隣の部屋に背を向けて身を小さく丸めた。震える指先が無意識に唇をなぞる。その行為の意味すら、私には計りかねていた。

080331 // 硝子の針
080609 - 改稿








 ギシリ、と音が鳴って、氷柱はようやく自分の身に何が起こっているのかを理解した。シングルベッドが二人分の重みに耐えられずに悲鳴をあげているのに、ベッドの持ち主はそんなことはこれっぽっちも気にした様子はなく、悲痛な面持ちで氷柱を見下ろしている。なんて顔してるのよ。言おうとした言葉は結局飲み込んでしまった。聞くまでもない。私がそんな顔をさせているんだ。
「お前、どういうことかわかってんのか」
 泣きそうな顔で問いただすその声はかすかに震えている。怒りや悲しみが混じって、何か別の色に染まってしまったみたいな声だった。ああ、そんな顔しないで。泣きたくなるじゃないの。それでも、氷柱自身もすべての感情を押し殺して平然と答えなければならない。目の前の男のように。
「わかってるわ」
 淡々と答えるつもりが、震えた吐息がそうはさせてくれない。案外小さくなってしまった声音に、彼はますます怒ったように顔を歪めた。掴まれた両腕にもぐっと力が込められる。
「いい加減にしろよ、お前全然わかってねえだろ。そんな顔するぐらいならさっさと逃げちまえば良かったのに」
「逃げない。だって私が望んだことだもの」
「これがお前の望みどおりってか? いい加減にしてくれよ、こっちはお前のお遊びに付き合ってる暇はないんだ」
「知ってるわ、そんなこと。私はあんたに何も望まない、あんたとどうこうしようとは思わない。でも、あんたが、」
「俺が?」
「あまりにもぼろぼろだから」
 睨み付けられる、その視線すらすべて欲しいと思うのは馬鹿げているのだろうか。声が震えるのが抑えられなくて、目の奥がぐんと熱くなる。こんな表情だけは目の前の男に見せたくない。慌てて両手で顔を隠そうとしても、強すぎる力に抑えられたままではどうすることもできずに、かといって突き刺すような視線から目を離すこともできなくて仕方なく瞬きをした。目の端からころりと流れ落ちるものについてはこの際考えないことにする。
「ふざけるなよ」
 冷え切った声が降ってくるのは予想できていたとはいえ、殴りつけられるような感覚がして、縫いとめられた手がぴくりと震える。ギシ、とまたひとつ音が聞こえた。さっきよりも近づいた顔はいよいよ痛々しく見えて、手を伸ばしたいのにそれが叶わないことがとてももどかしく感じられる。
「ねえ、黒崎」
 氷柱が呼びかけると、男はいたずらを咎められる子供のような顔をして吐息を震わせる。煙草のにおいと鼻先をくすぐる感触が互いの距離を自覚させるようで、心臓をぐっと掴まれるような感覚に陥った。そのまま握りつぶされたって構わないとさえ思うけれど、この男はそんなことはしない。掴まれた手首がそろそろ痺れてきていて、感覚が麻痺してきている。
「きいて。私ね、この先何があったって、あんたのことが、――」
 その先は突然の噛み付かれるようなキスに飲み込まれて結局口にすることはできなかった。あとに聞こえるのはシーツの擦れる音と互いの吐息だけで、ああこのまま沈んでしまうのだと思うと苦しくて涙が零れた。

080331 // ありきたりなラブストーリー
自家発電でラブ度を補給しようとした結果がこれです。








 涼やかな声が平坦に告げるそのセリフを聞いた瞬間、頭に血が上って強烈な眩暈を感じた。衝動に流されるままにそのやわい身体をベッドに叩きつけるように押し倒しても、彼女はそんなことは意に介したふうもなく平然とこちらを見返している。二人分の重みに耐え切れずにベッドが悲鳴を上げた。不気味に軋む音はやけに大きく響いて不快だ。不意にふわりと香る彼女のにおいがこの部屋の中ではあまりにも似つかわしくなく、頼むから俺を拒絶してくれと心の中だけで懇願しながら問いただす。
「お前、どういうことかわかってんのか」
 かすかに震えた声に自分でも驚きながら、意識して睨みつけるように女を見下ろした。こちらを見上げるその表情が今にも泣き出しそうに歪む。
「わかってるわ」
 あまりにも震えてか細い声に、思わず彼女の手を押さえつけていた両腕に力が篭る。何をわかっているというんだ、この女は。叫びだしたい衝動を、拘束した細い手首を折ってしまいそうなほど強く押さえつけることでやり過ごした。
「いい加減にしろよ、お前全然わかってねえだろ。そんな顔するぐらいならさっさと逃げちまえば良かったのに」
「逃げない。だって私が望んだことだもの」
「これがお前の望みどおりってか? いい加減にしてくれよ、こっちはお前のお遊びに付き合ってる暇はないんだ」
「知ってるわ、そんなこと。私はあんたに何も望まない、あんたとどうこうしようとは思わない。でも、あんたが、」
「俺が?」
「あまりにもぼろぼろだから」
 おまえのほうが随分やられてるだろうが。彼女の言葉が肉体的ではなく精神的な傷のことを指すならば、普通の女子大生でしかない彼女はこちらが見ていられない程にずたずたに引き裂かれている。可哀想なくらいに震えた吐息がそれを雄弁に物語っていて、今にも泣き出しそうだ。ああこんな表情をさせているのは他でもない俺なのだと思い知らされて、彼女の右目から涙が零れ落ちる瞬間に身体の芯が燃えるように熱くなる心地がした。
「ふざけるなよ」
 自分と彼女、果たしてどちらに向けて吐き捨てた言葉なのか知れない。思っていたよりも低く掠れた声音に驚いたのか、押さえつけていた手の指先がぴくりと震えた。その些細な仕草から彼女の存在の弱さを伺い知れて、視界がぐらりと揺れる錯覚に陥った。甘い吐息に誘われるようにより一層距離を縮めると、その行動を咎めるようにギシ、とまたひとつ音が聞こえた。近づいた顔はいよいよ痛々しく見えて、彼女に触れることで彼女から確実に何かを奪い去るということを目の前に突きつけられた気がした。
「ねえ、黒崎」
 こんなふうに呼ばれることにあまり慣れていなくて、彼女のやわらかい声は耳を通して身体の奥にあっさりと侵入してくる。石鹸かシャンプーの甘いにおいと鼻先をかすめる彼女の吐息の感覚が互いの距離を自覚させた。心臓を鷲掴みにされるような感覚に陥って、わずかに残る理性がこの先の彼女の言葉に対して危険信号を送っているのだと察した。
「きいて。私ね、この先何があったって、あんたのことが、――」
 聞きたくない言葉ごと奪い去るように強引に口付ける。最後まで聞いていたら、それに対して俺も何か答えていたのだろう。果たして何を言うかどうか、今は何も考えたくない。ただこの瞬間だけは、彼女の――氷柱の熱を閉じ込めることに集中していればいい。
 あとに聞こえるのはシーツの擦れる音と互いの吐息だけで、自分を拒絶しなかった彼女にすべての罪を着せながら両手をそっと解放した。

080401 // 臆病者に捧げるキリエ
080609 - 改稿