#03


 ヴァイルが部屋を訪ねてきたのは、突然の出来事だった。

 成人してから連日のように勉学に勉学を重ねるレハトは、近頃では日の光も陰った頃になるとすっかりへとへとになっていて、その日も早い内に休んでしまおうとサニャに温かい飲み物を手配していた。
 国王ほどではないにしろ、いずれ王配として王を支える身であるからには少しでも知識を身につけなければならない。そのためにヴァイルと会う時間もなかなか取れないでいたが、互いに忙しい事もあって仕方の無い事だと割り切っていたつもりだ。
 突然扉が開かれたのは、そんな折の事であった。
「レハト、ちょっといい?」
 すっかり緊張もほどけて脱力していた所への急な訪問に、レハトは反応が遅れてぎこちなく固まった。呼び鈴も無しに開かれた扉と、どうやったのか共も連れずに佇んでいる王の姿に唖然とする。
 止まってしまった空気の中で、いち早く反応したのはサニャだった。いくら正式に婚約しているからと言っても、男性が女性の部屋を訪ねてくるなんて非常識だと考えたのだろう。
「あの、ヴァイル様。レハト様はもうお休みになられる所でございまして……」
「でもまだ寝てないんだよね。……レハト、ちょっと話があるから入るよ」
 しどろもどろなサニャの言い分をさらりと交わすと、ヴァイルは返事を待たずに部屋に足を踏み入れた。サニャの性格上、強く出ることもできずに彼女は可哀想なくらいうろたえて困ったように部屋の主を見遣った。呆けたままそのやり取りを眺めていたレハトもそこでやっと我に返り、ヴァイルの元へ駆け寄る。
「ヴァイル、どうしたの? 何か急な用事でもあった?」
「そういうわけじゃないんだけど。なんていうか、今話しておかなきゃいけない気がして」
「話?」
 怪訝に思って尋ねると、ヴァイルはやや強張った笑みを返して頷いた。
 こんな風に訪ねて来るくらいだ。よっぽど大事な話なのだろうか。
 それに、いくら非常識とは言え、やはりこうしてヴァイルと話をできる機会が与えられるのは素直に嬉しい。
 レハトはふんわりと込み上げて来る感情のままに微笑みを浮かべると、おろおろと戸惑うサニャをなんとか説得して下がらせ、彼を部屋の奥に通した。

 男性をこんな風に招き入れるのは、本当はかなり良くないに違いない。
 だけどヴァイルは婚約者だし、レハトの中には未だどこかに未分化の頃に感じていた気安さも残っている。彼が相手ならそう気負う事もないだろうと、レハトは長椅子に腰掛けた。
「事前に約束してくれたら、きちんとおもてなしできたのに」
 冗談混じりに笑って椅子を勧めるたが、ヴァイルはどこか躊躇った様子を見せ、結局どこにも腰掛けようとはしなかった。
「ね、話って?」
 普段と違う彼の様子に何となく落ち着かなくて促すと、ヴァイルははっとしたようにレハトを見た。ヴァイルの髪がランプの淡い光に照らされて不思議な色に染まっている。
 ほんの少しの間だけ、部屋に沈黙が下りた。
「……あのさ、レハトは、大人になってから俺の事、その……どう思ってる?」
 沈黙を破ってぽつりと落とされた言葉に、レハトは少なからず驚いた。
 彼がそんな疑問をこんな時間に、それもわざわざレハトの元を訪ねてまでぶつけてくるなんて。
 レハトが思わず彼の瞳を見つめ返すと、まっすぐな視線が思いがけず鋭くレハトを射抜いている。まさか、自分でも気が付かない内に彼を不安にさせるようなことをしてしまったのだろうか。
 だったら、その不安を取り除かなければならない。子供の頃の約束も、いつか告げた想いもレハトの中では何一つ変わっていない。その想いがヴァイルにきちんと伝わるように、レハトは感情の全てを声に込めて一音ずつはっきりと口にした。
「もちろん好きだよ。約束した事だって、大人になっても変わらない」
 けれど、その言葉に対するヴァイルの反応はレハトの予想を外れていた。
「あ、いやそうじゃなくて。……いや、それはすごく嬉しいし俺も同じ気持ちなんだけど、でもそうじゃなくて」
 ヴァイルは珍しくはっきりとしない言い方で、あちこちに視線を彷徨わせている。
「そうじゃなくて?」
「その、……俺、成人してからすごく、はっきり変わったところがあるから。レハトもそうだったらどうしようとか。ていうか俺、なんかこのままじゃ収拾つかなくなりそうで。一人で抱えてる方がいいんだろうけど、どうしようもないし。……って、ごめん。こんな事急に言っても困らせるだけだよな」
 自嘲気味に笑う彼の表情がとても寂しそうに見えて、レハトは安心させるように笑顔を浮かべてみせた。
「大丈夫だよ。ちゃんと聞いてるから。ヴァイルの好きなように話して」
 ゆっくりと思ったことを口にすると、彼もまた同じように微笑み返してくれる。
「ありがとう」
 それからひとつ深呼吸すると、今度は戸惑いの色を滲ませつつも、そっとレハトの傍に歩み寄った。座っているレハトを見下ろす形では落ち着かないのか、しばらく迷った挙句躊躇いがちに隣に腰を下ろす。
 ふかふかしたクッションがヴァイルの重みを受けて傾くように沈む。二人分の重みを受け止めた長椅子は、ぎしりとも音を立てない。
「えっとさ、俺が今から変なこと言ったとしても、引かないで冗談だと思ってくれると嬉しいんだけど」
 そう前置きをしたかと思うと、彼は再び口を閉ざした。
 ひょっとすると、何かとんでもなく言い辛いことを打ち明けるつもりなのだろうか。俯きがちな彼の表情が見えずに不安になったレハトは、首を傾げてヴァイルの顔を覗き込む。
 丁度こちらを向きかけていたらしい。タイミング良くぱちりと目が合って、彼は慌てたように目を逸らした。
「そんなに言い辛いことなの? 私で良ければ、ちゃんと聞かせてほしいな」
「……う」
 そのまま身体を寄せ、真っ直ぐ見つめ続ける。ヴァイルから上手く言葉を引き出すには、こうして辛抱強く待っているのが一番いい。
 しばらくそうして待っていると、とうとうヴァイルは観念したように口を開いた。
「あのさ、レハトは篭りの間、何て聞かされた? その……俺との婚約の件で、ほら。あの。別にものすごい望んでるわけじゃないけど、……子供の事とか」
「……へっ?」
 予想外すぎる言葉に、思わず変な声が出た。
 ヴァイルの言葉が一瞬理解できず、しかしすとんと頭の中に降りてきた瞬間、レハトは身体中の血が沸騰するような感覚に陥った。
 レハトの動揺にいち早く気付いたヴァイルは素早く言葉を繋げる。
「や、別に変な意味じゃなくて! いやこの時点で充分変なこと言ってるって自覚はあるけど。そうじゃなくてさ、レハトはそういうの、どう思ってるんだろうとか。思って……」
 そこまで言って、ヴァイルはレハトが固まったまま動かないことに気が付いた。
「……もしかしなくても、やっぱり引いた?」
「う、ううん。引いたというか。何だか急な事でびっくりしちゃって」
「だよね。ごめん」
「ううん、謝ることじゃないよ。そうだよね、婚約してるってことは結婚するってことで、つまりそういうことになるんだもんね」
 レハトは何とか今の状況を整理しようと頭を働かせようとしたが、……どうにもうまくいかない。
 ヴァイルはまだ肝心なところをまだ話していないような気がする。こくり、と喉を鳴らし、レハトは恐る恐る口を開いた。
「そ、それで……今こういうことを話すって事は、つまり」
 言外に尋ねようとした事が伝わったらしく、ヴァイルは頬を染めて反論した。
「いや別にそういうつもりで来たわけじゃないって! 流石にそんな下心抱えて急に部屋に行くなんてないし。……あ、でも今まさにそういう状況なのか。ごめん、混乱させて」
「ううん、大丈夫。うん、びっくりしただけ」
「そ、そっか」
「うん」
 自然と言葉も少なくなって、お互い黙り込む。ついさっきまでは気にならなかったのに、やけに居心地が悪く感じられる。レハトは段々落ち着かなくなってきて、遂にヴァイルから目を逸らし露台の方に視線を移した。窓を開けたい。なんだかすごく暑い気がしてならない。

「レハトは、魔の十五歳って、聞いたことあるよな」
 重い沈黙を、ヴァイルの小さな声が切り裂いた。
「うん。言葉だけは」
「俺も言葉だけ。大体、そんなのあんまり気にした事も無かった。俺とは全然関係ない事だと思ってたんだ……けどいざ篭りが開けてみたら、急に今まで感じた事なかった感情が湧いてきてさ。レハトのこと、今までとはちょっと違う目でも見るようになって、何だか俺ってこんなにどうしようもない思考を持ってたのかと思うと、ちょっと怖くなってきた」
「……そうだね。私も同じ。今まで見えなかった物がたくさん見えるようになってきて、今まで出来なかった事も出来るようになって。大人になるって言ってもなんだかピンと来なくて。外見だけが変わるものだと思ってた」
「うん。中身だけそのまんまで、外側だけ変わって、後は適当に成長するんだとばかり。でも、確かに中身のどっかも変わってるんだな。……大人になるって、こういう感情もあるんだって、それをレハトが受け入れられなかったらと思うと、情けないけどどうしていいのかわかんなくなって」
 困ったようにヴァイルが笑う。
 その表情は未分化の頃に見せていたあどけないものとはすっかり違った顔で、レハトは胸の奥が一瞬切なくなるような、締め付けられるような感覚に陥った。
 子どもの頃には感じることのなかったような、心の一番弱いところを握り締められるようなその感覚に、たまらずレハトは考える前に口を開いていた。
「あの、私。ま、まだ心の準備はできてないけど、でも、でもヴァイルだったらいつでもいいから」
 自分が何を口走っているのか、正直言ってよく理解できていない。とにかく思った事だけをそのまま口にしただけだったが、その言葉にヴァイルがこれ以上ないくらい驚いた顔をしているのはなんとか認識できた。心臓が恐ろしいほど痛く脈打っていて、何も考えられない。
「あんまそういう事言うのもどうかと思うけど。……でも、レハトがいいって言ってくれるなら、多分俺、もうあんまり我慢とかしないと思うよ」
 どこか挑戦的な声音に、また胸が締め付けられた。苦しいと同時に幸せな気分が舞い降りる。
 レハトがなんとか頷こうとする前に、ヴァイルの顔が近づいてきた。
 何も言わずに目を閉じると、お互いの額同士が軽く触れ合う。――徴が輝く場所が触れ合って、くすぐったくも心地良い。
 レハトは思わず唇を緩め、淡く吐息を洩らす。ヴァイルも同じように笑ってくれているのだと、彼の吐息でわかった。
 つい照れが上回って笑い声を洩らすと、今度はその声すらも欠片も余さず奪われてしまった。

 胸の内から次々と溢れる感情は、子どもの頃の「好き」と同じようで、しかし何かが決定的に違う。
 多分、私達はもう子どもの頃のように無邪気ではいられない。身体の奥まった場所からゆるゆると這い上がる熱が、喉元を締め付けるような渇望が、彼の手に触れたいと彷徨う指先が、私達を本能のままに突き動かそうとしているのだと、はっきりと感じ取れる。
 どこか暴力的ですらある衝動は内側から身体を食い破ってしまいそうで恐ろしい。だけどその持て余すような熱すら、彼と共に育むのだと思うと愛おしく思えて仕方がなかった。


end.

100704 // 二人のエゴイズム
100523 - 初出(きっとこれが恋の病)