不意に意識が戻った。つまりミノリは、今まで気を失っていたらしい。
 気怠い身体をもぞもぞと動かそうとして、うまくいかなかった。原因はすぐにわかった。彼の腕に、ゆるく拘束されているからだ。

「おかえり」

 声のした方に目を向けると、息が触れそうなほど近くにレーガの端正な顔があって、びっくりする。眠気が飛んで、距離を取ろうとして、けれどまだ抱きしめられたままなので、当然うまくいかなかった。
 わあ、なんだか、すごく恥ずかしい。
 まっすぐに目を合わせることができずに、自然と視線が泳ぐ。吐息だけで笑われる気配がした。ミノリの慌てっぷりがよっぽど面白いらしく、くすくすと笑われる。頬がぱっと熱くなる。
「わ、笑わないでくださ――」
 思わず声を上げた。声が掠れてうまく喋れず、抗議の言葉は中途半端に喉にひっかかってしまった。ミノリがこほ、とひとつ咳をすると、レーガは「無理しないでいいから」と実に心配そうな顔をして言う。無理をさせたのはどこの誰だと言い返してやりたい。けれど、そんなことを言うとますます意地悪されるのは目に見えているので、言わない。ミノリも最近は色々と学習しているのだ。
「何か飲む?」
 囁くように尋ねられ、ミノリは迷わずに頷いた。恥ずかしさよりも、今はとにかく水が欲しい。喉が渇いてたまらない。
 レーガが寝台を降りて、スプリングが軽い音を立てた。腕の重みと、すぐ傍にあった熱とが離れて、ちょっとだけ寂しくなる。
 ミノリが意識を失っている間に色々としてくれたのか、ミノリの髪はさっきまで額や首筋に張り付いて鬱陶しかったはずなのに汗はさっぱりと拭かれていて、あんなに熱かった空気も今はだいぶ冷えていて、つい今過ごしたはずの時間が遠い昔の夢の出来事みたいに思えた。でも、身体は怠いし重いし、身体を冷やさないようにとの配慮なのかいつの間にかレーガのシャツを羽織らされているし、何よりも洗い立ての清潔な香りがしていたはずの綿のシーツには、ミノリの涙とたくさんの汗と二人分のにおいとエトセトラが染みついているはずだ。あんなにきれいに敷かれていたシーツは見るも無残なほどしわくちゃになっている。――改めてこの状況を確認すると、恥ずかしさが急に込み上げてきて、体温が上がってしまう。
 やだ、もう。こんなの、何度経験したって慣れそうにないよ。
 心の声は表には出さず、代わりに顔を枕に押し付けた。レーガのにおいがする。なんだかいたたまれない。

「ミノリ」

 急に声をかけられ、びくりと肩が跳ねた。顔を上げると、グラスに水を注いで持ってきてくれたらしいレーガが、暗がりでもわかるほどやさしく微笑んでくれていた。
 上半身を起こして素直にグラスを受け取ると、すぐにレーガは寝台に腰かけてきた。彼の重みでマットレスが少し沈む。背中からやさしく抱かれ、お腹の辺りに手を回される。肩に顎を乗せられて頬ずりされると、心臓がとびっきり大きな音を立てた。身体の奥に、ふたたび熱が溜まっていく気配がする。レーガのシャツは今ミノリが借りているので、彼は今、上半身に何も着ていないのだ。
「あの」
「ん? なに、飲ませてほしい?」
「ち、違いますっ、そうじゃなくて!」
 離れてほしい。至近距離でじっと見つめられている。正直こんな状況で水なんか飲めない。
「えっと、……せめて、飲み終わるまではもう少し離れてほしいかなって」
「大丈夫、邪魔はしないから」
 ちがうの、そういうことじゃなくって。
 抗議しようとして、はっとした。さっきよりもほんの少しだけ強く抱きしめられて、頬に彼の髪が触れたから、なんとなく、分かった。多分レーガは、ミノリの言いたいことを正しく理解してくれていて、それでもはぐらかしている。
 そういうことも、少しは分かるようになってきた。指先が一瞬だけ、ちょこんと触れ合うだけでどきどきしていた頃に比べれば、最近はレーガの表情や行動の機微のほんのちょっとの違いも見抜けるようになってきている。ミノリだって、翻弄されるだけじゃない。きちんと学習しているのだ。
 だからこそミノリはそれ以上何も言えずに、静かにグラスを傾け、冷たい水を飲み干した。自分でも自覚が無いくらいよっぽど渇いていたのか、全部飲んでもまだちょっとだけ物足りないような気もする。……すぐにグラスを取られてベッドサイドに置かれたので、おかわりするほどでもないか、と思い直したけれど。
 グラスを取り上げられる時、レーガの指がミノリの爪をかすめるように撫でていった。農作業ですぐにだめになると分かっているのに、お風呂上がりに必ず爪を磨くようになったのは、いつ頃からだろう。仕事上、短く切りそろえなければならないのであれこれと飾り立てることはできないが、レーガがいつもミノリの手を褒めてくれるので、いつの間にかそうするようになってしまった。
 ぎゅう、と抱きしめられると、どきどきと安心感が一緒になってミノリを満たす。背中をすっぽりと包み込む体温があたたかい。触れ合う頬は甘く、ミノリはほっと息を吐いた。お腹のあたりで組まれた手に、そっと指を添える。ミノリのとはずいぶん大きさの違う手。調理中に油が跳ねたらしく、親指の付け根あたりに小さなやけどの跡を見つけ、できるだけやさしく触れる。

「レーガ」

 わけもなく彼の名を呼びたくなったので、呼んだ。囁きに近い微かな声は、頬をくっつけていた彼の耳にはしっかり届いてくれたようだ。「ん?」と耳に届くか届かないかギリギリの、掠れた声で返される。その間にも、ミノリの手が捕まえられ、手の甲から指先まで撫でさすられるので、ぞくりとした。
「なんでもないの。ちょっと、呼びたくなっただけ」
 溜息のようにそっと囁くと、そんなこと知ってるよ、というように頬にキスを落とされる。なんだかふわふわして、どうしよう、しあわせだな、と思った。ついでにお腹のあたりでさわさわしていたもう片方の手をつかまえて、軽く抓ってやる。耳元で小さく笑われた。
「……ミノリ、眠い?」
 抱きしめられたまま尋ねられる。眠いというよりも、疲れていた。誰のせいでこんなふうになったと思ってるんですか、と拗ねてみたくなったけれど、怠さのほうが勝っていた。こくりと素直に頷くと、しばしの間を置いて、ぐいと身体がひっぱられる。ミノリの頼りない身体は重力に従ってあっけなく傾き、わ、と声を上げる前に、ぽすん、とシーツの原に受け止められた。レーガに引っ張られたのだと気付いた時には、既に彼の手によってきちんと毛布がかけられ、再びその腕にぎゅうぎゅう抱きしめられていた。
「明日も早いんだろ」
 だから早く寝なさい、ということらしい。それって、ものすごく今更な気もする。
 けれど反論する気にもならずに、代わりに「うん」と素直に返して、ミノリは彼の額に、おやすみなさいのキスをした。

 レーガの体温に包まれると、まぶたはすぐに重くなっていく。疲れや怠さも手伝って、すぐにでも眠りに落ちてしまいそうな心地だった。
 例えるなら、やわらかい藁を裸足で踏むような、摘みたての綿花に囲まれているような、ヒツジのもこもこした毛に頬を押し当てるような、やさしいてのひらに髪を撫でられているような心地。その気持ち良さにとろりと意識を溶かしていると、額にキスを返された。くすぐったさに笑みがこぼれる。つまさきを動かすと、その場所だけ、シーツのしわが整えられたような気がした。
 明日はとびきり早起きしなくちゃ。
 遠のく意識のすみっこでなんとかそれだけを浮かべて、ミノリの意識はゆるゆると、深く深く沈んでいった。



140322 // 真綿の原は清く白く