今朝の新聞の一面の記事を見て、いてもたってもいられずに家を飛び出した。
 ああ、そういえば学校を無断欠席してしまうことになるわ、と思い至ったのは、電車に揺られて、窓の向こうをごうごうと通り過ぎていく地下鉄のトンネルの壁を、ぼんやりと眺めていた時だった。けれどもしあのまま学校に行ってしまったとしても、きっとあたしの心はそわそわと落ち着かず、授業どころの話ではなかったかもしれない。だから、後悔なんてしない。

 彼のニュースはいつもメディアを賑わせている。
 国宝級の美術品を狙う大泥棒。そのくせ、警察に予告を出すという大胆さ。何故か数日後には盗んだものを返すという奇特としか言えない行動の数々。それなのに一度だって捕まったためしもない華麗さ。稀代の大怪盗の出現に、パリじゅうの人々は、彼についての様々な憶測と噂を好き好きに交わしている。
 今朝の新聞の記事だって、マスコミは彼と警察について面白おかしく言いたいことを言っている。
 彼の事を知らないから、そんな勝手が言えるんだわ。
 あたしはそんな記事を見て、いつも怒りたいような、泣きたいような、誇らしいような、自分でもよくわからない感情を抱く。そんなこと、何の意味もないのに。

 頭の中で、ずっと音楽が鳴り響いている。
 いつか聞いた音楽。聞いたことのないリズムが、オーケストラのように重なり合う。
 脚はほとんど無意識のうちに動き、勝手にルーヴル美術館に向かっていく。
 開館直後の美術館は平日なのにそこそこ人の出入りもあり、世界に名だたる観光名所であると改めて思い知らされた。日の光に照らされた透明なピラミッドがきらきらと眩しい。建物の外観を撮影する、観光客らしき人の姿も伺えた。
 この中にはきっと一人だって、真夜中のルーヴルを訪れた人はいないんだわ、とそんな事を考えて、すぐに首を振った。あたしが今そんな事を考えたって、そんなこと、どうしようもないじゃない。

 ほとんど早足で館内を歩き、あたしは一枚の絵画の前で足を止めた。
 美しく繊細な色彩が乗せられた額縁の中の小さな世界。あんまり絵に詳しくはないあたしだって、学校の教科書で見たことがある、あまりにも有名な作品。警察に送られてきたという予告状に記載されていた絵画。今朝の新聞の一面に大きく報じられていたその作品の前に、誰もがほんの少し興味深げに立ち止まっていく。

 これが贋作であることは、あたしと彼と彼の大事な相棒と、それから、彼のお父さんしか知らない。

 次はこの絵を返すのね、とあたしは心の中で彼に話しかける。返事は当然無くって、でも、代わりに音楽があたしの中にあふれていた。
 今、許されるならこの衝動のままにヴァイオリンを弾いてしまいたいくらい、あたしの中を音が満たしている。
 だけどそんなことは出来やしないし、何より、あの大事なヴァイオリンは家に置いてきてしまった。
 瞳の奥に焼きつけるようにしばらくその絵を眺めて、あたしはそっと目をそらし、元来た道を帰って行った。
 わかっている。こんなこと、何の意味もないことくらい。


 ***


   家に帰ると、掃除をしていたらしいお手伝いさんの一人が、びっくりしたようにあたしを見た。
「まあお嬢様、どちらにいらしたんですか!」と、とても心配そうな声を上げてくれる。
 あたしはあいまいに笑って、今日は学校は休むわ、心配かけてごめんなさい、とだけ言って部屋に戻った。

 ヴァイオリンのケースを開け、中に納まっていた大切な楽器をそっと取り出す。弓を手に取り、目を閉じて、細く息を吐く。
 今日のあたしは、どうかしているんだわ、きっと。
 たった一枚の絵画を見るためだけに家を飛び出し、挙句学校を休むだなんて、いつものあたしならそんなことはしない。だけど、ああ、そうだわ。きっと――彼に初めて出会った季節が近づいているから、こんなに感傷的になっているのかもしれない。そういうことに、今になってやっと気づいた。
「なんだか変ね、あたし。ばかみたいだわ」
 自嘲気味に呟いても、胸の内はまだもやもやとしたままで、ちっともすっきりしない。
 だからあたしはヴァイオリンを構え、深く息を吸う。
 例の音楽はまだ、あたしの中でずうっと鳴り響いている。どうかしたら、彼のステップを踏むような軽やかな靴音だって、聞こえてきそうなくらい。
 あたしは瞼を閉じて、思い描く。
 今日見た絵画の色彩。彼の赤い髪。いつか地下室で見たきらびやかな絵画や彫刻の数々。彼が怪盗をやっている理由を話してくれた、静かな声。真夜中のルーヴル。あの夜見た、月の輝きを。
 ふう、と息を吐いて、あたしは感情の揺さぶられるままに、鳴り響く音楽に背を押されるようにして、弓を動かした。

 誰かが、怒りや悲しみは、抱えているだけでは人を苦しめるのだと言った。
 だけど、それらを筆や楽器に込めてしまえば、それはたちまち美しい芸術に昇華されるのだという。
 だったら、あたしを突き動かす、身の内からあふれでるこの衝動は、一体何だろう。彼を思い出すたび、彼の痕跡を辿るたび、一喜一憂してしまうこの感情を、あたしはどこに向けたらいいのだろうか。
 大好きなヴァイオリンを弾いても、一生懸命勉強しても、神様に祈っても、全然だめなの。会えないことを仕方ないと理解していても、それを簡単に割り切ることができずにいる自分に、呆れて溜息をつきたくなってしまうくらい、どうしようもなく彼のことを考えてしまう。

 思いつく限り、暗譜している楽曲の数々を弾いても、あたしの瞼の奥に焼きついた絵画の色彩はますます鮮やかになっていく。
 あの絵は、もう二度と見ることは叶わないのだ。
 たとえ本物が返ってきても、あの本物そっくりに描かれた贋作は。
 だってあれは、彼が盗んで行ってしまうから。
 だからこそ、衝動的に目に焼き付けておきたいと思った。その行為が何の意味も持たず、また彼には決して届かないと、知っているけれど。

 ずいぶん時間が経ったのだと気付いたのは、顎が疲れてきて、腕がけだるく感じたからだった。
 気持ちではあと何百曲も弾けそうだったけれど、弓を持ち上げるのにも指先が震えてしまったので、仕方なくヴァイオリンをケースに戻した。
 タイミングを計ったように扉がひかえめにノックされ、返事をするとお手伝いさんが気遣わしげにお茶とお菓子を持ってきてくれていた。
「何度もお声をおかけしたのですが、あんまり熱心なご様子でしたので」
 と、皿に盛られたビスケットを差し出されたところで、ようやくあたしは空腹であることに気がついた。窓を見やると、もう日はかなり傾いてしまっていて、ティータイムと呼ぶには遅すぎる時間であることがわかる。
 それでも気を遣ってくれたことが嬉しくて、あたしは「ありがとう」と素直に口にした。
 ビスケットを一枚口に運び、さくさくと噛み砕く。あんまり食べ過ぎたらお夕食もいただけないだろうから控えめにしたいのだけれど、すごくおいしくてつい、二枚目に手を伸ばす。
「それにしても、お嬢様のヴァイオリンは素敵ですね」
 お茶のおかわりをカップに注いでくれながら、お手伝いさんは嬉しそうにそう言った。
 正直言って、衝動に任せてひたすらに弾いていたので、自分がどんな演奏をしていたのかもわからない。
 あたしはそれとなく相槌を打って、砂糖とミルクをカップに落とす彼女の慣れた手つきを見ていた。
「……そう言ってくれると嬉しいわ」
「特に先程弾いてらしたセレナーデ、本当に、胸が締め付けられそうになりましたわ」
 うっとりと呟かれるその言葉に、あたしはどう反応していいのか分からずにあいまいに笑うしかなかった。


 ***


 新聞の記事をひととおり読んで、あたしはそっとその紙束を畳んだ。
 今朝のテレビでも速報として報じられていたから、知っている。美術館に飾られていたあの絵は、警察の包囲をかいくぐって華麗に盗まれたのだそうだ。相変わらず、警察を批判するような言葉と怪盗の大胆さについて、記者の憶測と勝手な予想が書き散らされている。

 絵画は、ほどなくして元あった場所に返されるだろう。
 今度はあの贋作ではなく、正真正銘の本物の絵が、あの壁にかけられるのだ。

 あたしは椅子から降りると、窓の向こうの景色を見た。
 大通りから離れたこの屋敷はひっそりとしていて、休日の朝の空気は穏やかなまま保たれている。あの通りに面したアパートで迎えた朝は、外から車の往来や人々のにぎわう声にあふれていて温かかった。
 たった一度のその思い出も、もうずいぶんと昔のことみたいだ。
 あたしは密かに笑って、またヴァイオリンが弾きたいな、とそれだけを思った。
 今はまだ未熟な演奏を、もっともっと磨いていかなくてはならない。いつか大きな舞台に立って、身体の内を駆け巡るこの音の奔流を、彼の耳に届かせるためにも。

 本物の絵画が返される頃、今度は学校の帰りにでも美術館に寄ろう。
 彼が世界に取り戻してくれた鮮やかな色彩を、しっかりと目に焼き付けておきたいから。それが誰にとって意味のないことでも構わない。あたしにとっては大切なことだ。

 彼とあたしの間をつなぐのは、ルーヴルに飾られた数々の美術品たちと、大切なヴァイオリンが紡ぎだす、あたしの音楽だけなのだから。



130307 // 彼と彼女のオーケストラ