制服のまま自室のベッドに腰掛けて、僕は「その時」を待つ。腕には赤い腕章。僕が所属する部活の、もう見慣れてしまったロゴ。腰に巻いたベルトのホルスターを意味もなく確認する。弾の出ない銃器は勿論きちんとそこに収まっていた。(当然だ。何度も確認したのだから、収まっていなければおかしい)鈍く光を弾いて存在感をアピールする銃は、これから訪れる時間を、そして自分がやらなければならないことを改めて思い知らせる。嫌と言うほど。と、同時に、まるで何かスポーツの試合前のような高揚感が身体中に湧き上がる。そうだ。僕は決して嫌なわけではないのだ。僕は確かに、自らが選び取った道筋の上を着実に歩んでいる。
 左手首に巻かれた時計が時を刻む度に、僕の心臓は馬鹿になったんじゃないかと疑うくらいにじわじわと暴れだす。まるで毒のように、ゆっくりと身体中に巡る熱が僕を痛いくらいに締めつける。窓からは月の光がやんわりと万物を照らしている。これから訪れる時間に、高揚し、怯え、興奮している僕を見逃さないためのサーチライトのように。
 大丈夫。どこにも逃げやしないから。僕は僕の意思で今夜もあの地へと向かうよ。
「おい、もうすぐ時間だぜ、リーダーさんよ」
 扉の向こうから、クラスメイトの声が聞こえた。やはり僕と同じように高揚しているのだろう。彼は感情の昂ぶりを隠すことはしない。僕は息の塊を吐き出すことで身体中に巡る熱を逃がして、彼に気取られないように努めて冷静な声音をつくる。
「わかってる。すぐ行く」
 ベッドから立ち上がって時計を見た。月明かりだけではどうにも見づらい文字盤が、現在の時刻を律儀に刻み続けている。
 午後11時32分。僕らの通う学校までは30分もかからない。僕はポケットに押し込んだ財布の感触を確かめて、ドアノブに手をかけた。

070228 //11:32 p.m.







 例えば聖母の許に現れたガブリエルのように、僕の許に現れたのがあの少年だったとしたならば、さしずめあの時の署名は受諾の証とでもいったところだろうか。僕はそうと知らず、僕の身の内に宿したものを生み出すための準備を着々と進めていたのだ。騙されていたことを加味したとしても、元凶は10年前にこうして身の内に『死』を宿した僕に他ならない。僕は世界中の人々に等しく死を与える異形のものを大切に育んでいたのだ。
 ああ。仲間の誰かが聞いたら怪訝な顔をするかもしれない。怒る者もいるだろう。だけど僕にとって、僕の身の内にあって10年間そうと知らずに大切に育んできた『死』は、慈しみ愛すべき存在になっているんだ。できるならば、両腕で抱きしめてあげたい。その腕の中で、苦しまないように、一思いに最期を迎えさせたいと願っている。それは僕の意思など関係なしに、魂が叫ぶ歪な願いだ。目を逸らすことは許されない。

070319 //うつくしいこどもにくちづけを







 オレンジジュースのパックにストローを差し込んだままぼんやりする年頃の娘がどんなことを考えるかなど想像もできないのだが、少なくともタルタロスだとか影人間だとかそういう剣呑なことを考えているわけではないらしいことは目元で判断できた。そういえばこいつはここのところこんなんばっかりだな、と半ば呆れながら、真田明彦は手入れしていたグローブを机の上に置いた。
「おい岳羽」
 とりあえず声をかけてみるものの返事はない。パックのストローを指先でいじりながら、相変わらず茫洋とした目で机の真ん中あたりを見ている。このまま放っておいてもいいのだが、目の前でここまでぼんやりされるとさすがに心配になってくる。「具合でも悪いのか」と声をかけようとしたのだが、タイミングよく別の声がラウンジに響いた。
「あ。岳羽」
 控えめでそれ程大きくはないその声に、岳羽ゆかりの肩は面白いくらいにびくりと跳ねた。指先で摘んでいたストローを、力の加減を間違えたのか潰してしまっている。
「な、なに?」
「この間のことなんだけど、」
「あーっ、ちょ、ストップ! ここじゃまずいから! あっちで聞くから!」
 先程までの状態がまるで嘘のように、ゆかりは慌しく立ち上がって彼の腕を勢いよく掴んだ。そのまま大股で階段まで歩いていく。ゆかりにされるがままになっている彼と一瞬視線が交錯したが、状況を把握していないのは自分も彼も同じらしく、わけがわからないといった具合の表情に、こちらもただ苦笑するしかなかった。

070320 //シトラス







 皮膚が裂ける。血管が薄く破れて、体内を激しく循環していた赤が外界へ滲み出す。あ、斬られたのかと気付いた時は手遅れで、声を上げる間もなく地に伏すことしかできなかった。
「天田!」
 どこか遠いところから声が聞こえる気がした(実際はとても近いところに彼はいる)。冷静沈着、時にはこの人に感情はあるのだろうかと疑いたくなるほどの鉄仮面を外して、今は若干の焦りを含んでいるのだと声だけでも充分に判断できた。ああ、シャドウを倒さなくちゃ。そう考えた次の瞬間には僕が対峙していたシャドウの断末魔が聞こえ、辺り一帯は急に静かになる。
 召喚器を構えていたリーダーはふう、と息を吐いてから、ゆっくりとこちらに歩み寄ってきた。
「立てるか? 傷の具合は?」
 MP3プレイヤーが視界を掠めて、この人がかがんでいるのだとわかる。
 別に大した傷じゃないです。咄嗟に避けましたから、傷はごく浅いです。
 そう言おうとしているのに、唇がうまく動かない。口を開き、声帯を震わそうと努力はしてみるものの、ひゅうひゅうと小さく呼吸するだけに留まっている。
「岳羽、頼む」
 いつまでも物を言おうとしない僕を見て、リーダーはゆかりさんに命令を下した。僕は平気です。自分で回復できます。頭の中では反発するように叫んでいるのに、舌は痺れたように一向に動こうとしない。動かないでね、と心配そうなゆかりさんの声と共に、ペルソナ召喚独特の気配と温かな光が僕を包むのがわかった。もともとそう酷くもない傷は、見る間に塞がってゆく。傷も回復し、もとより体調も万全であったというのに、のろのろと起き上がるとどっと疲れが湧きあがる。ゆかりさんに礼を言おうとしても、まだ声帯は馬鹿になったままだった。
「あんまり無理すんなよォ、少年」
 順平さんの軽口に、僕は曖昧に頬の筋肉を引き攣らせることしかできない。なんて情けない。
「ねえ、一度引き返した方がいいんじゃない?」
「えーっ、まだまだ行けるって!なあ?」
「いや、一度戻ろう。……山岸、」
 ぶーぶーと文句を言い続ける順平さんを無視する形で、リーダーは風花さんに連絡を入れた。エントランスに帰還する旨を簡潔に伝え、脱出ポイントの位置を確認している最中、彼は不意に僕の方を見た。彼の目はどこか冷たく、何もかもを見透かしているような気がして時々恐ろしくなる。
 僕のことを気にしてるなら、大丈夫ですから早く行きましょう。
 頭の中ではするりと浮かぶ言葉は、遂に吐き出されることはなかった。
 足を引っ張ることはしません。どうか僕を連れて行ってくださいと、半ば懇願するように主張したのは僕自身だというのに。まさか僕はこの期に及んで、怯えているとでもいうのだろうか。いやまさか。今更何を恐れるというのか。死さえ厭わないと決意した筈ではなかったか。

070320 //祈りにも似た決意







 身近な人間が死ぬと、哀しいというよりはむしろ何かが欠けたような感覚がするのだと改めて思い知らされた。今まで自分自身を構築していたうちの一つが、(それはどんな役割を果たし、どこに位置していたとははっきりと言及できないのだけれど)心無い誰かによって抜きとられるような気さえする。真田明彦にとって、その感覚は今までの人生で二度、経験したものだった。とはいえ、二度目はつい昨日のことなので、未だにその感覚も鈍くゆるゆると心臓のあたりを這い回るばかりで、大切な何かを抜き取ろうとはしない。それはいいことなのか悪いことなのか判断は出来かねるが、いずれは欠けてしまうのだから今はまだ大切に抱えている気でいる。学校をサボって商店街のラーメン屋に足を運んだのも、もしかしたらそういう思いがあるからかもしれない。
(お前はこれを聞いたら盛大に呆れるだろうな)
 その様子を想像するだけで知らない内に笑みが零れる。感傷に浸るというやつだろうか。まだ実感は湧かないが、この行動と思考を、あの男は女々しいと評するだろう。もしくは学校をサボってこんなところまで足を運んだことに驚いて、それから笑うのだ。口の端を上げて、目だけは昔のままで。
 はは、と笑ってみると、自分でも驚くほど淡白な声が、平日の商店街に吸い込まれる。ラーメン屋の入り口をくぐればそこにあの口と目つきの悪い幼馴染が特製ラーメンを注文してるんじゃないかと馬鹿げたことを考えているうちに、心臓の辺りから、何かが欠けていくのを確かに感じた。

070320 //たとえば細胞のひとつがほどけるように







 退屈な授業が終わった時の開放感ほど心地良いものはない、と岳羽ゆかりはしみじみ思う。次の授業までは10分間の休憩がある。何かをするには短すぎる時間ではあるが、眠気と果敢に戦った自分に心の中で拍手喝采をながら、ゆかりはとりあえず次の授業の準備をすることにした。
「ねえ、次ってなんだっけ?」
 ふと振り向いて尋ねると、授業の半分は寝ているくせに学年トップの秀才が、今まさに鞄の中から取り出した小さめのコーンパンを口にくわえたところに遭遇した。さっきは寝ていたくせに、休み時間にはきっちり起きるという秀才らしからぬ行動に呆れていると、彼は冷静に「次は数学だけど」(当然パンをくわえたままなので聞き取り辛い)とゆかりの先の質問に答えた。しかし今のゆかりには、次の授業のことなどよりも気になることがあって数学どころではない。
「ちょっと、昼休みまであと2限も授業あるじゃん。早弁して大丈夫なの?」
「これは間食用で昼飯とは別だから」
 しれっとのたまった彼に、ゆかりは半ば眩暈を感じる。そういえば寮でも、夕食は他所で摂ってきたと言った傍から、コンビニ弁当やカップ麺を口にしている姿を度々見かけた。放課後も、部活に行く前にはよくパンを頬張っている姿を見かける。――え、なに。ちょっとまって。ゆかりは気付きたくないことに思い当たってしまった。もしかしてこいつって、事あるごとに間食してるくせにこんなに細いわけ?
「なんか、ムカつく。さいあく」
「……突然の酷な評価をどうも」
 くわえていたコーンパンをあっという間に胃袋に収めて、彼は苦笑した。きっとこの男は、ケーキを目の前にしてひたすら葛藤する乙女の気持ちなんて、死んだって理解できないに決まっている。

070320 //乙女心とブラックホール