彼女のヴァイオリンの音色を聴くと、多くの人は口を揃えてこう評する。「まるで天使が舞い降りてくるかのような素晴らしい演奏だ」と。
 けれどクロードは、奏でられる旋律よりもむしろ、白く細い指に握りこまれた弓がなめらかに動く様や、彼女の細い足や肩がリズムに乗ってふわふわとゆらめく姿や、旋律に合わせて歌いだすかのように弧を描くつややかな唇を見ていると、ひょっとして彼女自身が音楽の天使なんじゃないかと、ガラにもなく考えてしまうことがしばしばあった。

 クラシックを特別好んで聴く趣味はまったくない。むしろ、優雅に奏でられる旋律を大人しく聴いてあれやこれやと評するよりも、クラスメイト達とサッカーをしているほうがずっと楽しい。
 フランスのあちこちで行われるクラシックの祭典どころか、クリスマスの聖歌だってかけらも興味がない。たまに聴くCDはポップスとロック。ヴァイオリンの良し悪しも分からない。
 なのに、クロードはここのところ、必ずと言っていいほど彼女が出演する演奏会に足を運んでいた。
 理由はいたって単純明快。
 彼女が舞台に立つ公演には、必ずと言っていいほど怪盗Rが現れる。
 Rを追いかける探偵としては、何としても見逃すわけにはいかない。だから、クラシックの雑誌を立ち読みしたり、コンサートの情報をいち早く知れるようにメールマガジンを取ってみたり、彼女の所属するコンセルヴァトワールのチケットを予約したりと、まるでクラシックファンになったかのような行動を不本意ながら取るようになってしまった。
 今日だって、クロードはしっかりと時間に間に合うように、リサイタルが行われるサン・メリー教会へ足を運んでいた。

 怪盗Rは、何かを盗むために演奏会へやってくるわけじゃない。
 そもそも、奴は基本的には美術館に飾ってあるような、それこそ重要文化財に指定されるようなクラスの美術品しか狙わない。しかも犯行の前には必ずパリ市警に予告メールを送りつけてくるのだ。
 けれど、奴は彼女の立つ舞台では、いっさいそういった動きは見せない。
 この理由だって単純明快である。
 怪盗Rは、彼女の――あのエリザベート公爵夫人の一人娘の――ヴァイオリンの音色をただ聴きに来ている。それだけのことだった。
 警察の一部(というか、怪盗Rを執拗に追いかけているボードワン警視を筆頭にしたチームの全員)にはその事実がだだ漏れになっている。だから必ずといっていいほど、会場の近くで検問を行うし、警備もかなり厳重にするようになっているのだが、いつもいつも、奴はひらひらとその包囲網をかいくぐっていくのだった。
 以前一度だけ、たった一度だけ、彼女の演奏の真っ最中に奴を見つけたことがある。
 広いホールの2階席に彼の赤い髪と気障なフェルトハットを見つけたとき、クロードは危うく、コンサート中にも関わらず大声を上げてしまうところだった。
 優雅に奏でられるシェヘラザード。そのヴァイオリンソロは、まだ年若い娘にも関わらず、くだんの彼女が――マリアが任されていて、「まるで天使が降りてきそうな」美しい演奏をこなしているところだった。
 クロードは1階席のほとんど真ん中にいた。薄暗い会場内で、しかも距離があるので、彼の表情までは、はっきりとは伺えない。それでもクロードの目には、Rが目を閉じて彼女の演奏に聞き入っている姿が見えた気がした。
 このあとすぐに、警官たちの強固な包囲網を突破しなければならないことや、もしかしたら捕まるかもしれないとか、そういった考えはいっさい持ち合わせていないような、ただ自然に、当然のように、マリアの紡ぐ音楽を聴いている。その姿に、少なからずクロードは衝撃を覚えたものだった。



 リサイタルの前に、マリアに会う許可を得て、控えている小さな部屋に通される。
 あまり公には知られていないことだが、このマリアこそ、パリを震撼させた「あの」事件に大きく関わっていた人物なのだ。事件にそれなりに関わっていたクロードはマリアを助けようとするRに協力もしたし、その縁からか、彼女とは事件後に何度か会う機会があった。
 マリアはクロードを見ると、ぱっと花のように微笑んだ。笑うと少し幼い印象になるが、すっきりと大人びた水色のドレスが、彼女をとびきり魅力的な女性に仕立て上げていた。ほとんどいつもと同じような格好のクロードは、ほんの少し気後れしてしまう。
「嬉しい。今日も来てくれたんだ」
「まあ、な」
 怪盗Rを捕まえる絶好の機会だから、とは言えなかった。


 彼女は、クロードがクラシックを特に好んでいるわけではないことは知っている。以前一度だけ、ぽろりと零してしまったことがあったからだ。
 マリアはクロードの発言に眉を寄せることもなく、クラシックの良さを語るわけでもなく、ただ「あたしも、別にクラシックが好きなわけじゃないよ」と返したのだ。
「音楽に現在も過去もないもの。素敵だと思えればそれでいいのよ、きっと。だから、そういう意味ではジャズもポップスもテクノもロックも、もちろんクラシックも、多分全部同じだと思うの」
 妙に真面目な顔でそう言うと、今度はくすりと笑った。
「それに、あたしはね、確かにクラシックはよく聴くけれど、一番上手に弾けるのは、誰も知らないような曲だもの」
 そう言って、彼女は一曲だけ、美しい曲を弾いてくれたことがある。
 クラシックなどよくわからないクロードは、その旋律を華やかな光のようだと思った。
 あとでその曲名が「月の姫君」だと聞いて、ああ、そうか。と妙に納得してしまった。
 その曲名は、彼女そのものを指している。「姫君」なんていう古臭いおとぎ話に出てくるような呼称が、何故か彼女には似合うと思ってしまったのだ。


「彼はきっと、来ないわ」
 少しぼんやりしていたから、マリアの唐突な言葉の意味が一瞬理解できなかった。
 彼女の言う「彼」が誰のことなのか理解して、クロードは思わずぎゅっとこぶしを握り締める。
「そうかな、来ると思うけど」
「……そうだと、いいのにね」
 まるで凪いだ海のように、穏やかにマリアは笑う。
 その笑みはやわらかかったけれど、どこか哀しそうで寂しそうで、クロードは結局開きかけた口を閉ざした。
 奴が来ないわけがないのだ。今までただの一度だって、例外はなかった。教会で行われる小さな演奏会でも、もちろんガルニエ宮で行われた壮大なコンサートにだって、奴は必ず足を運んでいるに違いないのに。
 もしかしたらその事実を、マリアは知らないのかもしれない。
 いや、知っていても隠すに決まっている。彼女は「あの」事件で怪盗Rに助けられているのだ。その恩を仇で返すような人物ではないことは、少し話しているだけでもいやと言うほど理解できた。
 さすがは貴族のお嬢様といったところだろう。マリアはあまりにもまっすぐで、きれいな人だ。
 この人と話していても怪盗Rの情報が掴めるわけでもないのに、何故いつも彼女と言葉を交わしているのか、クロードは自分のことながら理解できずにいる。たぶん、考えたって答えなんか出ないに決まっているのだけれど。

 彼女の澄んだ青い瞳がほんの少し潤んで揺れている。それから、まるで祈るかのようにもう一度はっきりと、「彼はきっと来ない」と繰り返した。
 一瞬だけ、自分で言った言葉にひどく傷ついたような表情を浮かべると、彼女はひとつ、細く息を吐いた。
「ねえ、知ってる? 楽しい音楽にはね、天使が集まってくるの」
 何かを振り切るように、ぎこちない笑みを浮かべる。
「天使なんて見たことない」
「だったら、本当かどうか、あたしの演奏で確かめてみて」
 マリアは微笑むと、ぱちりと音が鳴りそうな完璧なウインクをしてみせた。
 その表情が不思議とあの怪盗の青年と似ているような気がして、一瞬どきりとした。


 たしかに、彼女の演奏は天使が降りてきても不思議ではないと思う。
 教会の静謐な空気に、豊かなヴァイオリンの音色が響き渡る。いくつもの宝石を散りばめたような華やかな音の連なり。夜空の星を振ればこんな感じの音楽になるんじゃないかってくらい、それは美しい演奏だった。
 何度も足を運んだせいですっかり耳に馴染んだクラシック音楽が耳を打つ。曲名も作曲家も半分も覚えていないし、クロードにはヴァイオリンの音色や技巧の良し悪しはよくわからないけれど、退屈だとは思わなかった。
 この演奏も、きっとあいつはどこかで聞いている。彼女の紡ぐすべての音をひとつも聞き逃す事のないように、目を閉じ、耳を澄ましているのだ。ホールの2階席で、いつか彼がそうしていたように。

 クロードがいくら探したところで、マリアの周囲には天使なんて見つからなかった。
 だけど、きっと彼には見えている。ひらひらと舞う天使の姿が。ゆらめく彼女のリズムが。歌い出すかのように弧を描く、ピンク色のルージュを引いたつややかな唇が。ステンドグラスから舞い散る七色の光の中で、優雅に音を奏でる天使の姿が。
 見えないものをそれ以上探すのもなんだか疲れる気がするので、クロードは諦めて静かに目を閉じた。
 瞼の裏には、いつか見た怪盗Rのシルエットがはっきりと浮かんで、消えていく。

 彼はきっと今日も捕まらない。
 彼女の前にも姿を現すことなく、そっと立ち去っていく。
 探偵らしくはない考えだけど、なんとなく、そんな予感がした。



120121 // 彼はきっと今日も