ふと、気付いた時には俺は見覚えのない荒野の真ん中にいた。霞がかった青い空と、ひび割れた大地だけがこの世界のすべて。こんな風景は記憶のどこにも思い当たる場所はなく、今自分が夢の中にいるのだと認識するまでそう時間はかからなかった。俺はその見知らぬ地に横たわって、空を仰いでいる。いや、ただ横たわっているのではない。俺は死んでいるのだった。もちろん夢なのだから、実際には心臓も動いているし呼吸もしている。今ここで目を醒ませばいつもと変わりなく動くことだってできるだろう。けれど今俺は眠っていて、死んだ夢を見ている。
 何だってこんな夢を見るんだろう、と一瞬考えたが、所詮夢のことだ。そんなもの考えたところで答えが出るわけもないのでその点についてはまず保留することにした。

 俺は動けないまま、視点だけをふわりと宙に移す。まるでカメラが捉えた映像をモニターで眺めているような感覚だ。第三者の視点で自分を見下ろすのは妙な気分になるが、夢の中だから何が起こったって(もちろんそこには「死ぬこと」も含まれている)不思議ではない。死んでいるというのに、こうして考えているのも変といえば変なのだが。とにかく俺は、幽体離脱ってこんな感じなのか、と半ば関心しながら、少し高い位置から全景を観察した。
 足元では予想通り俺の身体は硬直したまま、無残にも地面に転がっている。目を見開いたままで、一見するとだらしなく横たわっているだけのようにも見えるが、その身体は指の先一つ、ぴくりとも動かすことはできない。
 生気の感じられない、抜け殻のような身体を見つめながら、死因は何だろうか、と俺はぼんやり考えた。見たところ身体のあちこちに傷があるようだが、致命傷らしきものも、命を落とすほどの出血も見当たらない。たとえ夢の中であったとしても、自分が何かの病気で死ぬとも思えない。だとしたら何が原因なんだろうか。

 そこでふと俺は、横たわる俺の身体を見下ろしている人間がいることに気が付いた。そいつは身動きせずに、ただじっと俺を見つめている。
 風になびく紅い髪。そのシルエットには見覚えがある。同じ仲間であるシグナーでありながら、自らを魔女と称し、人々から忌み嫌われる少女。十六夜アキ。彼女は目にかかる長い前髪を掃うこともせず、首だけを俯かせて立ち尽くしていた。その後姿はまるで悲しみに暮れる葬列の参列者のようだ。どこか儚さすら漂わせて、じっと俯いている。途方に暮れているようにも、泣いているようにも見えた。
(ああ、そうか)
 俺は唐突に理解した。
(彼女は俺を殺したと思っているのか)
 彼女はじっと立ち尽くしたまま、死んでしまった俺と同じように、指先一つ、ぴくりとも動かさない。けれど俺と決定的に違う点を挙げるならば、彼女の見開かれた琥珀色の瞳には溢れんばかりの涙が溜まっているということだった。瞬きもせず、かといってその水を一滴すら零しもせずに、彼女は俺を見下ろしている。まるで彼女と俺の時間が止まったかのように、その場はしんと静まり返っていた。ただ音の無い風が彼女の紅い髪を揺らす。彼女の服の、ドレスのような裾がひらりと舞う。
 何が起こるわけでもない、静止した夢の中に、俺たちは閉じ込められていた。
(十六夜、)
 唇を開いて、彼女に呼びかけようと試みるも、声は音にならずに風に攫われた。紅い魔女は静かに泣いている。いや、泣いているのかすら、わからない。依然涙は凍ったように留まったまま、彼女の表情も何の色も見られない、まったくの無表情だった。けれど彼女がそうやって立ち尽くす理由が、恐らく自分自身にあることは俺が一番理解できていた。視界に映る、自身の見開いた青い目。からっぽの双眸には何も映らないことを知っている。
(十六夜)
 再び呼びかけても、やはり彼女に届く事はなかった。
 見ているほうが不安になるほどの弱弱しい琥珀色の瞳。その視線はぴたりと、横たわる俺の目に合わせられている。感情のない青と琥珀が、交差することもなくただ互いを見ている光景は酷く滑稽だ。せめて指の先さえ動かせたら何か伝えられるだろうに、死んだ俺の身体はもはや俺の意思とは別のところに置き去りにされていて、何の反応も示さない。
 もどかしさが募るばかりで、俺は目の前の俺自身に軽く怒りさえ覚えていた。

「ごめんなさい」

 音の無い世界で、ぽつりと声が落ちた。
 発生源はほど近い場所にある。わずかに開かれた彼女の唇はかすかに震えていた。

「ごめんなさい、遊星」

 ごめんなさい、ごめんなさいと彼女の謝罪は何度も繰り返される。
 その表情はやはりまったくの無表情で、言葉の意味を理解しているのかどうかさえ疑わしい。涙をぴたりと瞳の中に抱え込んだまま、彼女はただ唇を動かし、喉を震わせ続ける。
(っ、違う)
 咄嗟に浮かんだ否定の言葉は彼女には届かない。鮮やかな紅色が視界を占領している。誰かに許しを請うための言葉なのか、言い訳の免罪符なのか、それとも別の意味を孕んでいるのか、彼女は頑なに、あるいは故障したかのように同じ言葉を繰り返し続けている。やめろ。違う。お前は何も悪くない。――違う。

(違う、十六夜! お前のせいじゃない!)

 叫ぶ声は届かない。伸ばすべき手もなく、思いばかりが先走る。それでも必死に、手を伸ばそうともがいた。何が違うのか、何故悪くないのか、……どうしてそう言い切れるのか、確たる証拠も根拠もない。
 ただ、たったひとつの、衝動とも形容できる強い思念だけが俺を突き動かしていた。
 彼女をひとりで泣かせてはいけない気がする。彼女の唇が震えるのが見えて、強くただそれだけを感じた。

「私が傷つけた。私が壊した。私が殺した――」
(聞いてくれ、十六夜――!)
「私が、わたしが、私さえいなければ……!」
(やめろ!)

 咄嗟に近づこうとして、身体は依然地に縫い付けられたままだったことを思い出した。切り離された俺の心だけがもがいているこの状況では、彼女に触れることはできない。音のない荒野で、彼女は同じ言葉を呟き続けている。
 せめて言葉だけでも届けと力の限り叫んでも、声すらも彼女に届かないのだろうか。――いや、届かせなければならない。彼女を肯定する言葉を、声を届けてやらなければ、彼女は今にも脆く崩れてしまうような気がする。
 くそ、寝ている場合じゃないのに。彼女が一人で潰れてしまわないようになんとかしてやりたいと強く思うのに、何もできないのか、俺は。
(十六夜!)
 再び呼びかける。声が音にならないのがもどかしい。
 俯いたまま佇む彼女が消えてしまうような錯覚に陥り、俺は再び叫んだ。

(――アキ!)
「っ!」

 瞬間、彼女の瞳からころりと涙が零れ落ちた。
 ゆっくりと顔を上げ、前髪の合間から彼女の琥珀色の双眸が空を彷徨う。

「ゆう、せい……?」

 ともすれば風にさらわれてしまいそうなほどか細い声が、俺の名を呼んだ。小さな迷子を思わせる瞳は魔女と謳われるにはあまりにも儚く、幼い。視界の端で、地に横たわったままの俺の指先が小さく震えたような気がして、俺は―――





「あ、起きた?」
 ふと、気付いた時には俺は見覚えのある部屋に横たわっていた。
 僅かに開かれた窓から、冷えた風がそよりと吹き込む。俺は未だ覚醒しきれない頭をぼんやりと働かせながら、目の前の光景をゆっくりと処理し始めた。天井を背景にしてこちらを覗き込む、友人の心配そうな顔が真っ先に目に入る。何時の間に本格的に寝入っていたのだろうか。夕刻特有の薄暗さに少々驚きながら、俺は窓の外に目をやった。遥か遠く、瓦礫が描く稜線に夕陽が沈みかけているのが確認できた。どうやら思っていたよりも随分眠っていたようだ。
「ラリー……今、何時頃だ?」
「えーっと、6時くらいかな。もう少し寝てなよ、遊星。怪我、酷かったんだから」
 じゃないと俺がマーサに怒られちゃう! と頬を膨らますラリーに苦笑して、俺はそっと身体を起こした。上半身を起こすのに知らず力が入ったらしく、鋭い痛みが腹に走り、思わず一瞬顔をしかめてしまった。その一瞬をしっかりと目撃していたらしいラリーは、きっと眉を吊り上げる。
「寝てなって今言ったばかりなのに! 遊星、さっき変にうなされてたよ、傷が痛むんだよね?」
「うなされてた?」
「うん、なんか辛そうだった。嫌な夢でも見てた?」
 心配そうに問われ、思い当たりそうな節を探してみる。
 夢。今寝ていた間に見た――
「……いや、覚えていない」
「そう?」
「ああ。何か見ていたような気はするが、よくわからない」
 目を醒ます直前までは何か夢を見ていたのだろうと思うのだが、目を開けた瞬間に忘れてしまったようだ。忘れたということはそう大した夢でもなかったのだろう。ラリーもそう思ったのか、深く追求してこず、代わりに軽く肩をすくめた。
「そっか。……あ、喉渇かない? 何かもらって来ようか」
「ああ、頼む」
「じゃあ、マーサのとこ行ってくる!」
 ちゃんと休んでなよ、ともう一度念を推してから、ラリーは元気よくぱたぱたと駆けて行った。その背中を見送ってから、俺は先程の問いかけを反芻していた。
 俺はつい今、夢を見ていたのだろうか。考えてもはっきりとは思い出せない。
 ぼんやりと思い出せる端々から推測するに、あまりいい夢ではなかったような気はしている。思い返そうとすると、妙な焦燥感がふつりと湧き上がってくるのは何故だろう。まるで自分の無力さを突きつけられたような感覚がもどかしい。手の届きそうな場所に、どうやっても手を伸ばせないような、そんなもどかしさが。
 軽く頭を振って、俺は思い返すのをやめた。思い出せないものをあれこれ考えたって仕方がない。どうせすぐに忘れることだ。たかが夢なのだから。

 風の冷たさに惹かれるように、俺は窓に目をやった。遠く、空の端で夕陽がじわりと沈んでいく。
 その脆くも鮮やかな紅がやけに眩しくて、目を逸らすことができなかった。




081216 // トワイライト・ローズ
突っ込みどころ満載。うろおぼえで書いたらロクなことにならないよね!
そもそもこのあたりのゆせさんは地縛神のことで頭がいっぱいですね