目覚まし時計のけたたましいベルに、まどろみの奥底から引っ張りあげられるようにして彼はゆるりと目を開いた。枕元で叫ぶ時計を黙らせて盤を見やる。午前7時。いつもどおりの時間だ。彼はうんと背伸びをして、覚醒したばかりの目をこすりながら普段どおりに呟いた。
「おはよう、」
 掠れた声が朝の空気を震わせたところで、彼はその言葉を向けるべき相手を見失う。昨夜、いつもどおりにしなければ、と意識して眠りについたのが災いしたのだろうか。もしかしたら夢に見てしまったのかもしれない。何にせよ、寝起きに何か言うべきではなかった。起き抜けに変なことを口走って『彼』を困惑させたことが何度かあったっけ。『彼』の凛々しく前を見据える目がきょとりと見開かれる様を思い出して、今更ながら少し可笑しくなって口元が緩むのを抑えられない。
 まだ眠りを要求する身体を無理矢理起こして、彼は普段どおりに支度を始める。鞄には前日のうちに詰められたノートや教科書、果てはトランプやダイスも入れてある。そういえば今日は城之内くんが強化したデッキで決闘するって張り切っていたっけ。制服に袖を通しながら、やけに張り切っていた友人を思い出した。これまでも昼休みは卓上で決闘することが多かったが、以前にも増してその数は増えている気がする。自分のデッキを鞄に入れて、彼は今から昼休みを心待ちにした。
 鞄を手に提げて部屋を出るとき、彼は何か重大な忘れ物をしたような気になっていた。一度部屋を出たら戻ってくるのが面倒だ。彼は忘れ物がないか心の中で反復する。今日の時間割。鞄の中。服装。ああ、そういえば英語の宿題が手つかずだった気がする。杏子に頼んで見せてもらおうか。彼女なら何だかんだ言いつつもきっと助けてくれる。帰りにハンバーガーセットを要求されることになろうとも、休憩時間を割いてプリント一枚分の異国語と睨みあうことに比べれば随分と安い。
 他に忘れ物がないだろうかと、彼は部屋を見渡した。見慣れた勉強机の上で視線が止まり、そこから目を離すことができない。以前までなら絶対に忘れることのなかったものが、かつてはそこに置いてあった。首から提げたあの重みがないことが、彼自身をこの部屋に縛り付ける要因になっていることを、彼は理解している。手放したことに今更何の未練も後悔もない。けれど、思い返すことはないのかと問われれば否と言わざるを得なかった。

 『彼』はこんな僕を見てどう思うだろうか。きっと呆れて苦笑するに違いない。僕は『彼』を送り出した。他でもない『彼』のために。だったら、いつまでもその幻影を見続けるわけにはいかないのだ。

「遊戯ー! いつまで寝てるの、早く起きなさーい!」
 階下から聞こえる母の声に思わず時計を見ると、起床してから既に30分は経過していた。反射的に間延びした声で返事をして、遊戯は再び部屋を見渡す。
 誰もいない部屋は、まるで誰かが勝手に家具の配置を少しずらしたかのような、小さな違和感を漂わせている。遊戯は無意識に腹のあたり――あの金色の、大切な宝物が提げられていたのが丁度そのあたりだった――に手を置いて、囁いた。
「……じゃあ、行ってくるね」
 『彼』の名を胸の中で呼んで、遊戯はそっと扉を閉めた。無人の部屋の中は時計の音が大きく響く他には何もなく、無機質な沈黙を守っているばかりだった。





080714 // 30分間の沈黙