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『甘やかな傷口』
黄金の太陽/ロビンとメアリィ
「ロビン、血が」
 甲板に這い上がってきたモンスターを蹴散らした直後、メアリィは心配そうに顔を覗き込んできた。何のことだろうと疑問に思うより早く、頬にぴりりと痛みが走る。先の戦闘で、大振りの一撃をすんでのところでかわしたのはいいものの、頬を少し切ってしまっていたようだった。
「大丈夫、このくらいの傷なら放っておいても治るよ」
「いけませんわ。化膿してしまったら大変ですもの。すぐに治さないと」
「いや、いいよ。自分で治せるから」
 差し伸ばされた手を払うように慌てて頬を拭う。思ったよりも深く切っているかもしれない。船室に足を向けると、メアリィはためらうように少し離れて着いて来た。すぐ後ろから、ふわりと彼女のやわらかな気配がする。どうにも落ち着かず、ロビンは頬に触れた手に意識を集中させた。
(俺、どうしてこんなに慌ててるんだろう)
 今までも何度かケガをしたことはあったし、その度に彼女の治癒の力を借りていた。ガルシア達と合流してからも、治癒のエナジーに長けた彼女が率先して仲間達を癒している。メアリィがロビンのケガを見て真っ先に治癒を施そうとしたのも、生真面目な彼女がその役割を全うしようとしていたにすぎない。
(別に不都合なことなんて何もない、はずなのにな)
 自分でもよくわからない感情を抱いたまま、ロビンは船室に控えていた仲間にケガを見せないように早足で自室へと戻った。

 頬にあてがった手にもう一度集中し、治癒術を発動させる。常ならば息をするようにたやすく扱えるはずの力も、雑念を抱いたままではうまくいかない。
 地の力が凝縮された治癒の力が頬を撫でる。彼女の持つ癒しの力はもっと心地良い。それは彼女が水のエナジストとして優秀であるからだとか、本来水のエナジーは治癒に適しているとかではなくて、単純にメアリィが持つ優しさやあたたかさがそのまま癒しになってくれるからだ。
「……何やってるんだ、俺」
 後でメアリィに謝らないといけない。彼女の厚意をああもやすやすと振り払った先の自分を殴ってやりたい。まさか急に顔を近づけられただけでこんなにも動揺してしまうだなんて。メアリィの水のように透き通る目に、自分だけが映っていると認識した瞬間、胸の奥を誰かに掴まれたような感覚に陥った。今でも心臓が早鐘を打っている。身体中の熱が暴走している。
 塞がりきれていない頬の傷から血が滲み出す。胸の奥でくずぶる感情から目を逸らして、ロビンは大きく息を吐いた。









『青に溺れる夢を見た』
TOH/ベリル
 きれいな青い水がどこまでも広がっている。
 最初に海を見たときにそんな感想しか出てこなかった自分のボキャブラリーが憎らしく思えるほど、その光景はベリルにとって何よりも衝撃的なものだった。
 壁一面をキャンバスにした青い絵画を故郷で何度と無く見てきたせいで、長い間本物の海の色というものを誤解していたようだった。どこまでも青い。太陽の光をきらきらと弾いて宝石のように輝くその色を、ベリルはキャンバスに留めたいとほとんど本能で思い立った。一度思い立つともう居ても立ってもいられない。いつも持ち歩いている画材道具だけで果たして、この色は表現できるのかという心配をわずかに抱えて、ベリルは躊躇うことなくスケッチブックの表紙を開く。そうしてしばらくの間、まばたきさえも忘れて、まっさらな紙に、思うままに青を乗せる作業に集中した。
 ただの青じゃない。このスピリアから湧き上がる感動の色を込めて描かなければ、この夢のような水溜りを描ききることは難しい。
 思うままに身を任せて筆を動かすさなか、ふと、ベリルは故郷の青い壁を思い出した。あの海を描いた男も、このうつくしい青の世界を見てざわめくスピリアの震えを感じたのだろうか。彼は彼が感じた海を見事描ききっていたけれど、それはこの広大な水平線が見せるひとつの表情に過ぎないことをベリルは今、身をもって体験している。筆を動かす度に、目を向けるたびに表情を変える海を捕らえるのは思っていたよりも難しい。いきものを描く時、ベリルはいつもそのスピリアが一番輝く瞬間を描きたいと考えているけれど、目の前のものはいつだって輝き続けている。ベリルは仕方なく、海を捕まえることを諦めて、ただスピリアが感じるままに筆を動かすことにした。
 誰でもない、自分がうつくしいと感じた世界のかけらをキャンバスに納めながら、ベリルはますますその青に溺れていった。










ゴーストハント/麻衣とナル
 温めたポットに葉を入れて、熱いお湯を注いで、ティーコゼーをかぶせる。うん、我ながら手際がいい。これで不味いお茶になるはずもないでしょうよ。
 心の中で自画自賛しながら、麻衣は数ヶ月前に流行った季節はずれの唄を上機嫌にハミングしはじめた。まるいポットの中で踊る葉の様子を想像しながら、ちらりと時計を見る。砂時計でもあればもっと楽に計れることができそうだけど、残念ながらそんなものはここにはない。

 ポットの中で葉を蒸らすこの数分間が、麻衣はなんとなく好きだ。
 最初のうちは紅茶やコーヒーの美味しい入れ方なんてよく知らなかったけれど、最近は誰かのためにお茶を入れることが単純に楽しく感じて仕方がない。来客の時、調査の時、そして、所長の命令が下された時(もしくはその傍若無人な所長サマに、少しは休養をとってほしいと思った時)、麻衣はこうしてお茶を入れる。なんでもない、誰にでもできることではあるけれど、自分の入れたお茶を飲んで少しでも安らいでくれるなら、それ以上に嬉しいことはない。
(あたしってばいつの間にこんなにお茶汲みが好きになったんだろ)
 麻衣は苦笑しながら、温めていたカップのお湯を捨てる。
 誰かのためにお茶を入れるなんて、この事務所でバイトを始めるまではそう滅多にするものではなかった。だからだろうか。人数分の葉をポットに入れて、カップを温めることが、まるで麻衣がひとりじゃないということが示される証のように感じられてならない。そしてそう感じる度、ああ、家族っていいなあ。なんて思ったり思わなかったりして、そう思えることってなんて幸せなんだろう、と神様に感謝したくなってくる。(誰もいないのにニヤニヤするあたしはきっとどこからどう見ても変な子なんだろうな。)
 時計を見て、もう時間は充分だということを確認すると、麻衣は丁寧に平等に、ポットの中身をそれぞれのカップに注いでいく。うむ。いい色。これなら奴も文句は言うまい。……その代わり褒めもしないんだけど。
 わかっていても、やっぱり味の感想は欲しいなあ、なんて。
 こうしてお茶を入れるようになってから、だんだん、奴の好きな葉や、味の好みが分かるようになってきたし、できるだけその趣向に沿って入れるようにしているから、決して不味いとは思っていないはずだ。
「今度こそはきちんと感想を聞かせてもらうんだからね」
 麻衣は一種の決意を固く胸に秘めて、トレーを危なげなく持ち上げる。そうして最大の敵であり上司でもある男に対峙するため、深呼吸して気合いを入れた。


(本当のところ、あたしはお茶汲みが特別好きというわけじゃない。期待に胸膨らませて葉を蒸らす時間より、紅茶の香りがあたたかく漂う、この瞬間より、あたしは何よりも、あたしが入れたお茶を好きな人が飲んでくれることが、ただ好きなだけなんだ。)









ライアーゲーム/秋直デート
 最後にピンク色のストロベリーアイスが重ねられて、神崎直は思わず「うわぁ」と感嘆の声を上げる。三段重ねでどうにもバランスをとりづらそうなコーンアイスを上から下まで眺めて、直はにんまりと満足そうに笑った。
「ほら見てください秋山さん!」
 こどものようにはしゃぎながら、彼女が好きな味だという3つのアイスクリームをずいと目の前に掲げられた。……確かさっきはダイエットのために甘い物は控えるとかなんとか宣言していなかったか。秋山深一は思わず突っ込みたいのをなんとか抑えてカウンターに代金を置いた。(あ、私が自分で払うっていったのに! という声は当然無視する)店員のにこやかな対応をやり過ごすと、直のほんの少し申し訳なさそうな、でも目の前の甘味につられてとても嬉しそうな、複雑で単純な表情を浮かべていた。それでも最後には「ありがとうございます!」ととびきりの笑顔で礼を述べる。その笑顔でさっきの突っ込みは心底どうでもよくなった。
 テイクアウトのアイスクリームが崩れないように、普段のペースよりも幾分かスローになった歩調に苦笑しながら、「大丈夫か」と一応声を掛けてみる。直はよほど気になるのだろう、「はい」と答えて見せたものの、視線はしっかりとてっぺんのストロベリーアイスに縫いとめられたままだ。今度はしっかり彼女に聞こえるように溜息をついてみせた。
「お前、それ全部食べる気か」
「いいえ、大丈夫ですよ! ちゃんと秋山さんの分もありますから」
「は?」
 ちょっと待て。回答が質問の内容とずれてないか、というより、俺の分もあるってどういうことですかカンザキナオさん。
 秋山の困惑など知る由もなく、直は顔を上げて、とてもかわいらしくにっこりと微笑んでみせた。
「秋山さんは、いちごとキャラメルとチョコレート、どれがいいですか?」
 私一人じゃとてもトリプルなんて食べ切れませんからね、秋山さんにも手伝ってもらいます!と非常に楽しそうな彼女の発案を断れるはずもなく、秋山は諦めて従うしかなかった。








ライアーゲーム/秋山と直
「秋山さんって結構前髪長いですよね」
 神崎直の突拍子もない発言には少し慣れてきたつもりではあるが、このあとに続く言葉を想像して秋山深一は若干身を引いた。髪を切ったらどうか、という提案なら別にいい。適当にあしらってやればいいだけのことだ。だがもし「私が切ってあげます」という提案だったらどうだろう。これはまずい。非常に断りにくい。こういう類の提案を断ると彼女は大抵、「どうしてですか?」と潤んだ瞳で見上げながら迫ってくるのだ。(以前も似たようなことが何度かあった。全く、勘弁してくれ)
 ところが今回は、秋山の予想をはるかに上回る突拍子もない提案を、直はにこやかな笑顔で口にした。
「これ、使ってください」
 満面の笑みで差し出されたのはヘアピン。それも、銀色のきらきらした金属に小さな花がいくつかついているやつだ。ピンクや薄い青色をしたプラスチック(あるいはガラスかなにかかもしれないが、確認する気も起きない)の花はなんとも可愛らしく、直の黒髪にはとてもよく似合うだろう。しかし。
「……悪いけど、それは遠慮させてもらうよ」
 これを俺がつけろというのか。秋山は眩暈を感じて額に手を当てた。単なる冗談なら可愛いものだが、彼女は本気なのだ。案の定、「どうしてですか?」と首を傾げてきょとんとしている。どうしてもこうしても、お願いだからわかってくれ。頼むから世間の常識で考えてくれ。
 訴えたい気持ちを抑えて、「どうしても」と溜息混じりに答えてやると、「そうですか……」と、少し寂しそうではあるが、意外にもあっさりと引き下がった。
 直が手の中に収まっていたカラフルなヘアピンをポーチに戻したのを確認して、秋山はこっそり小さく息を吐く。直はそんな秋山の気を知ってか知らずか、残念そうに、実に残念そうに、ぽつりと呟いた。
「秋山さんなら、似合うと思ったのになあ」
 直後、秋山が咳き込んでしまったその原因が自分にあるとは知らず、直はポーチを放り出して「大丈夫ですか秋山さん!?」と心配そうにおろおろしていた。









『偽善者からのキス』(title:1024
ネウロ/ネウヤコっぽい何か
 唇に柔らかい感触が触れて、あ、と思った瞬間にそれは離れていった。冷たいような、だけど温かいような、それすらも判別できないほど一瞬の出来事に、弥子はただ呆然とするしかない。目の前には魔人の顔。人間に擬態したそれは嫌味なくらい綺麗に整っていて、そして普段と全く変わらない表情のままだ。底なし沼のような深緑の目だけが意地悪そうに笑うのを見て、弥子はようやく状況を理解した。
「い、いま、なに……っ!」
 身体中の熱が顔に集中しているのかと錯覚するくらい、頬が、耳が、触れられた唇が、一気に熱くなる。やだちょっとなにこれていうか今こいつ何したの。パニック寸前の頭の中では意味を成さない言葉が羅列している。ぱくぱくと開閉を繰り返す口は、しかし言葉を紡ぐことはなかった。
「どうしました、先生。いつにも増してとても正視には耐えられない顔をなさって」
 そう告げる魔人のなんと楽しそうなこと。弥子は憎しみさえ込めて彼を睨みつけるが、それが何になるわけでもない。あんたのせいでしょ!ぶつけようとした言葉はやはり喉にひっかかったまま出てこなかった。頬が熱い。どうかしているみたいだ。魔人はくす、と微かに笑って、トドメの一言を突き刺す。
「顔が赤いですよ。たかが口付け一つで」
 熱が上がる。これ以上ないくらい熱い。目尻からじわりと涙が溢れてきたのを感じ、自分でもわからないけれどなんだか無性に叫びたくなった。
「なんっ……! だってはじめてだったのに!」
 いくら色気より食い気の弥子でも、「ファーストキスは好きな人と!」なんて甘い夢を心のどこかで抱いていたのに。それがついさっき唐突に、好きでもない男に奪われてしまった。たかがキスごときで、と呆れる自分もいる。だけどショックは存外に大きい。溢れた涙もそのせいだろうか。だとしたら自分はとんだお子様だ。
「ナメクジ風情がつまらんことで騒ぎ立てるな。……しかし、人間とはつまらぬことに執着を持つものだな。食器官を合わせるだけの行為にそれほど意味があるとも思えん」
「あんたには一生わかんないわよ! ……うう、まだ感触のこってる……」
 ぐし、と袖口で唇を拭うが、まだ熱は消えない。一瞬だけの柔らかい感触。熱いか冷たいかもわからなかった温度。だけど温かくはなかったと断言できる。だってこいつは人間じゃない。人間のことなんて、キスがどんな行為なんて知っているわけない。魔人はにっこりと、人当たりのいい笑みを浮かべてみせた。綺麗な笑顔。吐き気がする。
「ああ、先生。何を泣くことがあるんですか?憂うことなど何一つないというのに」
「あんたのせいでしょ!」
 先刻は言えなかった言葉を吐き出して、弥子はもう一度唇を拭った。








『目覚めの予兆』
すばせか/ネク→シキ
 携帯のディスプレイに表示された数字を見て、桜庭音繰は溜息を吐いた。待ち合わせ時間まではまだあと18分もある。額に浮いた汗も何度拭ったことか知れない。ぎらぎらと燃える太陽とコンクリートの照り返し、そして何よりも人ごみの熱気で、暑いなんてものじゃない。今なら暑さで燃え死ぬ。ていうか熱射病になる。ついにはヘッドフォンから流れるアップテンポのリズムが熱気を助長しているような気になってきた。ほんの十数分前にコンビニで買ったばかりのスポーツ飲料も温くなってきていて、それが更にネクをイラつかせる。
(こんな暑い時間にハチ公前で待ち合わせてどうなるか……よく考えろよ)
 理不尽なイラつきをメールを寄越した奴に向かってぶつけようと試みては見るものの、再び落とされた溜息でそれは掻き消される。何だかんだ言って、ネクはこの日を結構楽しみにしていた。携帯のスケジュールにもしっかり今日の予定がチェックされている。空白だらけのスケジュールに、ぽつんと存在を主張するアイコン。こうして20分前に集合場所にいるのもその高揚感の表れでもある。
(ああ、そういえば、)
 あのゲーム以来、この場所で、2人だけで会うのは初めてだ。ゲームから戻って以来何度か遊んだことはあったけれど、その時はビイトとライムも一緒で、4人でゲーセンに行ったり、トワレコでCDを買う際にお気に入りのアーティストについて熱く(主にビイトが)語り合ったりと他愛もないことで純粋にじゃれあっていた。
(じゃあ、今日は?)
 今日は、どうなのだろう。
 予定は決めていない。彼らと会う時はいつもそうだった。計画がなくてもそれぞれが行きたいところを主張するだけで行く場所は決まったし、ムードメーカーのビイトがいるだけで話が途切れることはなかった。でも、今日は無駄に明るく五月蝿く喋り散らすビイトはいない。彼の発言に静かに、さり気なく突っ込むライムもいない。
 今日は2人だけだ。
(ふたり、きり)
 すとん、と落ちて来た言葉は妙に心をざわつかせる。変な感じだ。あのゲーム中はパートナーとして、7日間2人だけで行動していたのに。何で今になって、こんな。
 ていうかなんか今日の俺、変じゃないか?約束よりかなり早い時間に待ち合わせの場所まで来て、携帯に映し出される数字を気にして、だるくてウザいはずの暑さにも関わらずハチ公前から離れない。あっちーよ、早く来いよ。そう思っているのに、まだ来ないで欲しいと無意識に思ってしまっている自分もいる。
 前髪を少しだけ気にしながら、ネクは携帯を開いた。待ち受け画面の数字を目にして本日3度目の溜息を吐く。約束まではまだ10分もある。それでもあいつのことだから、俺とは違って時間ギリギリに来ることはそうないはずだ。少しの間なら、この暑さだって我慢できる。
 いつの間にかミディアムテンポのバラードに切り替わっていた音のボリュームを下げながら、ネクは携帯を畳んでポケットに収めた。








『いのり』
シャドウハーツ2/アリス
 がたごとと心地良く揺れる列車の座席から、外界を見るともなしに眺める。スイスの美しい景観が途切れることなく流れるいつもの風景に、少女は薄く微笑んだ。
 私はここでどれほどの時を過ごしたのかしら。
 チューリッヒへ向かう筈の列車は、止まることなく永遠に同じスピードで走り続けている。乗客は少女以外誰もいない。隣に座っていた筈の彼も、今はここにはいない。まるで少女だけが切り取られ、縫い付けられたかのように、未だにこの座席から離れることが出来ないでいる。
 窓の外では少女が目を閉じるその最後の瞬間に目に焼き付けた光景が、色あせることなく広がっている。何度も繰り返し見た筈のそれは、しかしいつまで経っても見飽きることなく、少女を楽しませた。
 彼も同じように美しいと感じたかしら。
 ふとそう思って、直後にきっとそうに違いないと確信を得る。だってここは彼の中だから、彼が心に留めたものしか鮮明に残ることはない。こうやって同じ場面を幾度となく繰り返すほどに、これは彼にとって鮮やかであせることのない風景なのだ。それが良い印象であれ、悪いものであれ。どうか前者であってほしいと、少女は願う。(わかっている。本当は、違う)
 ねえ、私はあなたのことを今も愛しているの。あなたを蝕んでいたものを代わりに受けたのも、あなたの痛みを私が代わりに受けても構わないと、心から願ったからなのよ。勝手にそんなことをしたのは、確かに、謝らなくちゃいけないけれど。あなたを守りたい。後悔はしないと決めていたから。だけど勝手に私が私自身の魂を捧げてしまったことで、あなたが今こんなにも苦しんでいるのなら、私は。
「……ごめんね。でも、やっぱり私はこの道を選んでいたわ」
 窓に白く細い指を這わせながら、少女は呟く。いくら望んだところで、少女が彼の隣に立つことはない。きっと永遠に。その道を選んだのは紛れも無い自分自身だというのに、それを思うと少女の涙は止め処なく溢れ始めた。
 彼の魂は今もなおもがき苦しみ、嘆いている。徐々に心と記憶を失う呪いに蝕まれながら、2年前よりも更に過酷な戦いの中に身を投じていた。その隣に立てないことは辛い。そう思うことが単なるわがままだと知りながら、彼の隣で少しでも支えになれたらと願わずにはいられない。
 ああ、私はまだ彼をどうしようもないくらいに愛しているんです、神様。この想いが少しでも彼を救うことになるのなら、私は魂の全てを賭して彼に祈りを捧げます。――私にはもう、それしかできないのだから。
 スイスの風景も、静かな車内も、少女の涙と祈りを沈黙で受け止める。
 列車はまだ闇雲に走り続けている。永遠に辿り着くことのない地を目指して。








『そしていつもの夢を見る』
MOTHER3/リュカ
 なんて情けないんだろう。こんな年齢にもなって、ひとりでベッドに入るのが怖いなんて!
 自らを奮い立たせるために、心の中で叱咤する。しんと静まり返った家の中で、聞こえるのは小さく震える吐息と、軽く窓を揺らす風の音だけだ。
 リュカにとって、それは心地よい眠りに誘う柔らかな夜などではなく、いつもの夢に誘う暗鬱とした空気でしかない。虫の声も、外で寝ているであろう愛犬や羊たちの寝息も、4人分の寝室にひとりで横になることも。まるで世界がリュカを陥れるかのように錯覚して、素直にベッドにもぐりこむことが未だにできないでいる。
 胸のうちに飼う哀しさや苦しさや切なさが、月の光を食い荒らして闇の中で膨らんでいく感覚を感じながら、リュカは幼い頃に姿を消した半身のことを思った。
 クラウスは死んでなんかいない。
 鏡を見るたびに自分に言い聞かせ、今は失くした愛する人たちのことを想う。絶望も悲しみも蹴飛ばしてしまえるくらい強い心を持てたら、と焦がれる日々もあった。けれど現実はいつだって変わりなく目の前に横たわっている。――なんて残酷なんだろう。
 残酷な世界はクラウスをどこかに隠してしまった。大好きなお母さんももういない。お父さんはクラウスを探し回っていて、帰ってくることもあまりない。ばらばらになった絆を修復するためにはどうしたらいいのか、リュカは考える。けれど、得られるのはなにもない。クラウスの笑顔とお母さんのぬくもりが妙にリアルに蘇るだけだ。そのあとは決まって涙腺が決壊し、世界は涙に満たされる。
 夜はじわじわと空を侵食していく。静寂はとうの昔に世界を支配してしまった。
「こんなんじゃ、だめだよね……」
 言葉すら、夜に飲み込まれていく。

 今夜もきっと、世界に隠された半身の夢を見て、決まって泳ぐように追いかけるのだ。手を伸ばしても朝には泡のように消えてしまうその姿を、リュカは何度も祈りながら、どこにもない空間を走り続ける。
 いつか彼に追いつけたら、すべてが元通りになるかもしれない。可能性がないわけじゃない。逃げられるなら走ればいい。走っても追いつけないなら、飛べばいい。そうしていれば、きっと彼は振り向いて、立ち止まって、手を差し伸べてくれる。昔のように。そんなところはきっと、今も変わっていないはずだ。――そうだ、諦めるな。リュカ。父さんも同じことをしているんだもの。

 クラウスは死んでなんかいない。

 誰が何と言おうと、大好きな兄はこの世界にいる。生きてるんだ。