↑new ↓old


『チョコレートみたいに甘く溶かして』
牧場物語 つながる新天地/レガミノ
「レ、レーガさん」
 笑わないでください、と続くはずの言葉は、ふわりと唇に触れた彼の人差し指に封じられた。
「ほら、また間違える。呼び捨てにしろって言っただろ」
「でも、そんな、急に」
「ミノリ」
 頬を包み込むように触れられれば、もう逃げられはしない。彼の深く澄んだ瞳に自分の情けない顔が写っていて、ゆるく弧を描く唇が色っぽくて、頬に触れるてのひらがひんやりと心地よくて、ミノリの心臓はこれ以上ないくらいうるさく高鳴っている。
 どうしよう。どうしよう。この音が聞こえてしまわないだろうか。
 無意識のうちに一歩後ずさろうと身体が動き――それよりもほんの一瞬だけ早く、頬から手が離され、代わりにやさしく、けれど逃げられないようにと肩を掴まれる。ミノリの額に彼の前髪が触れて、遅れてこつん、と触れる衝撃があった。
「呼んで」
 小さな囁き。耳に届くその言葉は、甘さを含んではいるものの懇願のようにすら聞こえる。ミノリはこくりと息を呑んだ。そんな、切ない響きでそんな風にお願いするなんて、ずるい。
 頬が熱くなっているのが自分でもよくわかる。喉が渇く。知らないうちにお腹のあたりで祈るようにぎゅっと握った手が、うっすらと汗ばんでいる。鏡なんて見なくたって、情けなくも泣きそうになっているのが、わかる。
 彼の呼び名を改めるのは、決して嫌じゃない。でも、だけど、だって、そうしたら、本当に私と彼との関係が、何かの境界線を越えてしまうようで、今まで築いてきた何もかもが書き換えられてしまうような気がして、恥ずかしくて、苦しくて、溶けてしまいそうで、ほんのちょっとだけ、嬉しくて、怖い。
 でもやっぱりそれ以上に、頭のどこかでは、そんな少しの変化を、はしたなくも期待しているのかもしれない。
 空気を吸い込む。視線を上にずらせば、あっけなくぱちりと目が合った。
「……レーガ」
 ようやく唇から零れ落ちた彼の名前を、胸の内で何度も繰り返す。
 今までミノリの中には無かった甘い響きが、生まれる。
「よくできました」
 やさしく笑って髪を撫でるその所作に、ミノリの心臓は一層せわしなく動く。
(どうしよう。これ、身が持たないかもしれない……)
 名前を呼ぶだけでこんなにも頬が熱くなるようなら、いったいこの先はどうなってしまうのだろう。
 どきどきしすぎて卒倒して診療所のお世話に、なんて、絶対にないと言い切れないのが怖い。
 一瞬そうなるシチュエーションを想像しかけて、慌てて首を振る。とにかくまずは何は無くとも、彼の名を呼ぶことに慣れなくちゃいけない。

 再び頬を撫でられ、ミノリは心地よさに思わず目を細める。
 これから先、お互いに名前を呼び合って、囁き合って、触れ合って、甘く蕩けるような時間を、どれだけ過ごすことになるのだろう。
 名を呼ばれ、ミノリはそっと目を閉じる。
 混じり合い溶け合う吐息の心地よさを感じながら、出来ればずっと一緒がいいなと考えて、また心音がとくりと跳ねた。

多分レーガさんも内心ばくばくしてるから大丈夫。






『しっぽのきもち』
エスカ&ロジーのアトリエ/トゥルーED後ロジエス
 エスカのしっぽがぶわりと膨らんで、逆立っている。
 そう、しっぽだ。どんな仕掛けか、錬金術でつくられたそれはエスカの感情に呼応してよく動く。
 落ち込んでいるときはしょんぼりと垂れ下がり、鼻歌をうたいながら調合をしている最中はゆらゆらと振り子のように揺れ、ケーキを差し入れしてやるとぴょこんと立ってぶんぶん揺れる。
 エスカ自身の表情もくるくる変わって非常にわかりやすいのに加え、尻尾は輪をかけて彼女の心象をより深く表している。見ているだけで時折吹き出しそうになる時があるんだってことを、ロジーは今のところ告げてやるつもりはない。

 そのしっぽが、今はぴんと天を向いて、小刻みに震えている。
 子どものようにおろおろと視線を彷徨わせる彼女の様子を確認するまでもなく、緊張しているのだということはすぐに知れた。
 緩んだ口元を隠さず、ロジーは呆れ半分に溜息をつく。
「そんなに緊張しなくてもいいだろう」
「し、ししししてませんよそんなっ!」
 指摘しただけで、エスカはぴゃっと飛び上がった。顔がりんごみたいに真っ赤だ。
「いい加減に慣れろよ、もうこれで何回目だよ」
「無理ですよう、だってロジーさんなんだもん」
「なんだよそれ」
 頬を染めたまま頬を膨らませて、エスカはさっと視線を逸らした。
 いつまでも初々しい少女のような反応をするので、ロジーは時折、彼女に出会ったばかりの十代の頃に戻ったような気分になる。

 エスカはあの頃よりも随分きれいになった。
 言動からまだ少女らしさは抜けきれていないものの、丸みを帯びて成長した身体は成人女性のそれであり、仕事のミスはほとんど無くなり、釜を使った手際の良い調合は、もうロジーの手助けなんかいらないくらい完璧だ。
 朗らかでコルセイトに住む人たちみんなから愛されている、可愛らしい女性。ロジーの中では今でも、ドジでちょっと人が良すぎる女の子のイメージが強いから、時折エスカが見せる大人っぽい表情にどきりとさせられる。これもまた、エスカには告げられないロジーの隠し事のひとつだ。
 いつの間にか彼女の緊張がこちらにも伝染してきたのを知られたくなくて、掴んでいた肩から手を離し、滑らかな頬に手のひらを添える。
 そうすると、さっきまであちらこちらを向いていた視線は、ロジーにぴたりと合わせられた。
 うるんだ緑色の瞳が、ロジーの顔だけを映している。
 まだ緊張しているのか、しっぽは毛を逆立てていて、表情は少し硬い。けれどまっすぐに向けられる視線の熱だけは、疑いようもないくらいに本物だ。
 そんなエスカの表情を間近で見つめながら、時が止まるような便利な術でもあったらな、と一瞬だけ馬鹿みたいな事を考えて、ゆっくりと距離を縮めていく。
 ロジーが目を閉じる少し前に、エスカの伏せた睫毛がふるえるのが見えた。互いの吐息が唇をかすめ、やわらかな感触に触れる。
 言葉もないまま、沈黙があたりを支配する。
 エスカの細い指が髪に触れたのが、目を閉じていてもすぐにわかった。

 一瞬とも永遠とも呼べるような沈黙のあと、再び互いに距離が生じる。
 さっきまであんなにガチガチになっていた彼女は、満足げにほう、とひとつ息を吐いた。濡れた唇にそっと指を這わせる所作に、少女らしさは欠片もない。
 かと思えば、次の瞬間にはりんごみたいに真っ赤に染めた頬を緩めて、子どものような笑い声を上げる。
「ロジーさん」
「ん?」
「顔、赤いですよ」
「それはお互い様だろ」
「えへへ、そうですね。私たち、お揃いですね」
「……そうだな」
 互いに額をくっつけて、くすくすと笑いあう。
 エスカの腰についているしっぽは、さっきまで逆立っていたのが嘘みたいに、いつのまにか緩くふわふわと揺れていた。
 まだほとんど密着したままのやわらかな体温をほんの少し強く抱きしめると、しっぽがくるりと巻かれて、すぐにふにゃりと脱力するのが見える。猫か犬のようだと言ってしまうのは女性には失礼な気もするが、エスカを形容するにはしっくりきてしまうのは何故だろう。

 未だにその原理は解明されていない謎の存在だが、顔を見なくても、どんな表情をしているのか容易に想像がつくのは、このしっぽの最大の利点だと言える。ロジーはそう結論付けて、エスカのやわらかな髪に優しく触れた。








シャドウハーツ/アリス誘拐後の「あいつ、また泣いちゃうから」について
 くうくうと眠るアリスは、死に別れた父をかすかな声で呼ぶ。
 白くなめらかな頬に一筋、涙がほろりと流れ落ちていく。
 こいつも目の前で親を殺されたと知った時、ほんの少しだけ親近感が湧いた。

「お父様は命をかけて、私を助けてくれたんです」

 寝言の件を指摘すると、アリスは遠い異国の地で起きた出来事を、ぽつりと一言だけ、口にした。
 その声があまりにも硬質で、触れればガラスのように脆く砕けそうな響きを持っていたので、泣いていたことは、なんとなく口には出せなかった。
 少量の涙でほんのり濡れたまつげがそっと伏せられ、深く青い瞳が陰る。身内が殺された悲しみをまだうまく消化できずにいる人間の陰りだ。それをウルは、よく知っている。
 ウルが何も言わずにいると、アリスはすっと、どこか違うところを見つめるようにして、誓いの言葉のような独り言をつぶやいた。
「だから私、きっと知らなくちゃいけないんだわ。どうしてあの時、私が狙われたのか。どうしてお父様が殺されたのかを」

 思えば、あの時の横顔を見た瞬間がきっかけだったのかもしれない。
 誰かに言われたからではなく、自分の意思でアリスを守ろうと決めたのは。
 だから、自分の無力さに腹が立つ。
 決めていたのに、結局奪われてしまった。
 拳を握り、ウルは自らの内を渦巻く感情の激流をやりすごした。いつも通り、何が起きようと頭の方は冷静でいなければならない。
 アリスの命がまだ無事である可能性が高いと知ったおかげで、随分冷静になれた気もする。ごちゃごちゃ考えるのは性に合わない。自分の為すべきことは、いつだってシンプルであるべきだからだ。
「早く行ってやらねぇとな」
 あの日に見た、頬を滑り落ちる涙を思い出す。
「あいつ、また泣いちゃうから」
 まだ出会ったばかりで、それほど長い付き合いでもない女だが、これ以上泣かせたくないと思えるのが我ながら不思議だった。
 守ると告げた。正気を失うことがあれば殺してくれと頼んだ。
 自分でも笑えるくらい、アリスのことは結構信頼しているかもしれない。そんな人間が身近にいてくれる感覚も、とうの昔に麻痺していた筈なのに。
(待ってろよ、アリス)
 気に入らない奴はぶん殴る。ただそれをしに行くだけのこと。為すべきことはいつもと何も変わらない。
 この化物じみた力が誰かの役に立てるのなら、それはそれで悪くないと思えた。








シャドウハーツ/怪我したウルと治療したいアリス
「脱いで」
「えっ」
 ウルの動きが止まった。
 さっきまで軽い調子で笑っていた表情がぴたりと凍りつき、頬が変な具合に引きつっている。
「ア、アリスちゃん? なんか目が怖いんだけど」
「いいから脱いで、こっちに来て! 早くキュアをかけないと……!」
「わ、い、いいって! ほら、このくらいの傷、俺すぐ再生するしさ!」
「だめです! ひどくなったらどうするの!」
 ずいっと距離を詰めようとする清楚な女性と、慌てて後ずさる腹部が血まみれの男という図はなかなかにシュールだ。周囲の仲間達の反応は様々ではあるものの、誰もが口を出さずに成行きを見守っている。
「ウル!」
「メディリーフもあるんだし、こんなのすぐに治るって!」
「わがまま言わないで。早く治しておいたほうがいいでしょう」
「いやでも、服脱ぐのはちょっと恥ずかしいというかなんというか」
 ごにょごにょと言い訳めいた言葉を呟くウルに、アリスはにっこりと、天使のように完璧な微笑みを浮かべた。
「大丈夫、あなたの裸なんて見慣れてるわ」
「えっ」
 今度は完全に硬直した。
 それまで二人の痴話喧嘩を聞き流していた仲間も、こればかりは反応せざるを得なかった。
「ちょっと坊や! いつの間にこの子に手を出してるのよ!」
「おいおい、いくら若いからって、こんな旅のさなかに手ェ出すってのはどうなんでい」
「ハリー、ここから先はちょっと耳を塞いでいましょうか」
「えっ、なんで?」
 わいわい口を出す外野の声は聞こえないのか、ウルの頭の中は半分混乱状態に陥っている。
 アリスは自らの爆弾発言には気づいていない。真剣な表情に切り替えると、再び愛らしい唇をふわりと開いた。
「だって、ウルって最近、しょっちゅう天凱凰にフュージョンしてるじゃない」
 あれ、服着てないでしょう、と付け加える少女の言葉に、その場は一瞬静まり返った。








シャドウハーツ/亜細亜編〜欧州編の間
 西の空に飛び立つ巨大な影の形を、彼の大きな手を、体温を、不思議な赤い目の色彩を、私は覚えている。


 あの惨劇のあと、私たちが大きな怪我もなく生き延びたのは奇跡に近い。
 燃え上がり、崩れ落ちる上海の街並みを思い出すだけで、私の身体は小さく震えてしまう。
 そうして何か怖い思いを抱くたび、私はどうやら無意識のうちに、手の中に包み込んだペンダントを握りしめてしまうらしい。彼がいつも身に着けていたお守りは、海のように深い青に輝き、ざわつく心を幾分か宥めてくれるのだ。

「大丈夫、大丈夫よ、アリス。彼はきっと生きているわ」

 祈るように呟き、詰めていた息を細く吐き出す。
 はじめは、ただ直観で「生きている」と感じ取った。けれど、時間が経つにつれて、その感覚は徐々に薄れていく。自信がなくなってしまう。
 不安を払うようにポケットからレースのハンカチを取り出し、石を丁寧に磨く。心を落ち着かせるために始めた慰みも、今となっては日課になってしまった。
 何も考えず、青い石の奥を見透かすようにして、ただひたすらに彼の姿を思い描く。
 あちこち跳ねたくせのある髪。力強い腕。ふとした時に見せる表情。それから、あの時。船酔いで辛かったせいか、ほろりと零れた弱音。

『もし俺が、俺の中の魂に食われることがあったら、その時は――』

 その言葉を思い出し、石を磨く手がぴたりと止まる。
 ためらわずに殺してくれ、と彼は言った。
 もしかしたらもう手遅れなのかもしれない。彼を見つけたとしても、その心は既に喰われてしまっているかもしれない。どんなに声を届けようとしても、心は戻らないかもしれない。それとも、もう既に永遠に手の届かない場所に行ってしまっただろうか。
(ううん、ちがうわ)
 雑念を振り払うように首を振り、ぎゅっと目を瞑る。
(そんなこと、ない。どんな暗闇の中にいたって、きっと見つけて連れ戻してみせるんだから)
 愚かだと指を差されたって構わない。ただ、彼を信じている。私にできるのは、それだけだ。
 だからいつも眠る前に、強く強く、彼の姿を思い浮かべる。
 彼の大きな手を、体温を、不思議な赤い目の色彩を。
「神様、どうか彼ともう一度めぐり逢わせてください」
 父の形見である十字のネックレスを握りこみ、祈る。
 あの人を一人にしてはいけない。理屈ではなく、ただただそれだけを強く思う。たとえ茨の檻の中であれ、煉獄の炎の渦であれ、彼にまた会えるのならば、私はためらいなく足を踏み出せる。彼を失う以外、他に恐ろしいことなんて何もありはしない。
 彼のそばにいられるのなら、私は、恐ろしい怪物に魂ごと食われてしまっても構わないのだから。








『残された子供』
7thBV/4夜バッド後のフレディ
 頬についた血を拭おうとは思わなかった。
 右腕がひどく重いせいかもしれない。握られたままの銃からは未だ硝煙のにおいが立ち上っていて、濃く甘い腐臭の中にあってさえ強く香る気がした。
 命が失せるにおいだ。
 別に好きでも嫌いでもないにおいだが、時折フレディはたまらなく哀しくなる。
 人であれ、冥使であれ、彼らの身体に流れるのは等しく赤い血液だ。薄い皮膚の下を熱く流動するその命の雫が外気に触れて冷え、凝り固まる。腕の中に在る彼女の熱が失われていく。最後に残るのは崩れた皮膚と肉と血のにおいと――自分だけだ。
 腕の中に納まった身体はぐんにゃりとして、細いのにずしりと重い。
 立ち上がらなければならない。彼女を弔ってやらなければならない。頭ではそう考えていても、体が鉛になったかのように指先ひとつも動かせないでいた。
「……ねえちゃん」
 半ば無意識の内に口に出した呼びかけはごく小さな声で、ほとんど口内で溶けて消えるほどだった。それでも、石造りの虚ろな修道院の中ではよく響いて空気を震わせ、静寂に波紋を投げ打つ。そうなって初めて、フレディは自分の声が、果ては唇が、指先が、わずかに震えている事に気がついた。
 彼女の身体を抱きしめる腕にほんの少し力を込めれば、かくりと首が傾ぎ、襟元に皮膚のかけらが零れ落ちる。砂の塊をかき抱くのってこんな気分なのかもしれない、と思考の端でちらと思った。強く触れれば壊れてしまう。生温い血が頬に触れる。彼女をかたちづくる物が失われていく。その欠けていくひとつひとつを、フレディには掬えない。どうする事もできなかったのだ。

(フレディ、)

 ふと、少女の震える声が聞こえた気がした。
 肩に降り積もった少女のかけらがすべり落ち、石の床にいくつもの小さな染みを作る。ぽたぽたと音もなく落ちるそれが、フレディには雫のように見えた。銃を握る手はそのままに、右手を少女の背に回す。
「泣いてるの」
 もう泣かなくてもいいんだよと囁いて、少女の細い肩に額を触れさせる。その手が赤く濡れ、また甘ったるい土と血のにおいが濃くなった。
 もう少しだけ。もう少しだけこうしていても、罰は当たらないよね。
 子供じみた言い訳だとわかっている。それでもフレディは、未だこの少女から手を離せずにいた。

 死者への祈りと自戒の言葉を胸の内に何度も刻みつけながら、小さな少年はいつまでも動かない。崩れ落ちる少女の遺体を抱きしめ続け、零れる肉のかけらに触れ、彼女が放つ甘い腐臭の中にゆるゆると沈んでいく。

 硝煙のにおいは、いつの間にか薄れつつある。









遊戯王5D's/93話あたりのブルーノ
 深く、眠りに落ちていたはずの意識が何かのはずみで浮上した。どうしてだろう。夢も見ないくらいに静かに眠っていたはずなのに。
 僕はうっすらと目を開けて、ぼんやりとガレージの高い天井を眺める。今は何時だろうか。空気がしんと静まり返って、塵の一つにいたるまで沈黙を貫いている。きっとこの街に生きるすべてが、まだ夢を貪っている時間なんだろう。昨晩は久しぶりに早く床に着いたのに、中途半端な時間に目覚めてしまったことを、僕はほんの少しだけ後悔した。
 こういう時って、なんとなく眠れないんだよなあ。
 記憶はなくても、そういうものだと身体が認識している。なんだかおかしくなって、知れず笑みがこぼれた。
 眠れないついでに、いっそパソコンでも立ち上げてみようか。……いやいや、用もないのにプログラムをいじるのは、ジャックからもきつく止められている。それに、変にいじってまた殴られたくないし。

 殴る。

 その単語が頭の中をよぎった瞬間、僕は無意識に左手を軽く握っていた。
 ジャックが僕を殴ったのには、理不尽ながらもなんらかの理由がある。僕のあやふやな言動だったり、純粋な苛立ちだったり、勝手にホイール・オブ・フォーチュンに触れた時は特に痛かった。
 だけど僕は、あの時確かに感情もなく人を殴ろうとしていたんだ。表層の意識を沈め、身体の奥底から湧き上がる衝動に突き動かされるまま、理由もなく「敵」を殴ろうとした。
 追い詰められた獣のように気高くも危うい女性の、細い首を絞めた時のあの感触。頚動脈の位置、どくどくと流れる血流のリズム、少し力を入れてしまえば容易く折れてしまうであろう骨の硬さを、僕の手はまだ覚えている。
 あの日起こったことは僕の頭を混乱させるだけで、真実を掴むには遠い。だけど彼女の持つカードが、彼女が追い求めるものが、もしかしたら僕にとってもとても大切なもの、なのかもしれない。
 だから覚えているのだろうか。抜け落ちた記憶の穴を埋めるために、真実の断片となり得るかもしれない、あの日の出来事を。彼女の求めるものを。掴んだ首の温かさを。
 記憶を取り戻すまではきっと、忘れることはできないんだろう。決死の覚悟を抱えた彼女の、苦痛と恐怖に歪んだ表情でさえ。
 僕はそっと、左手に篭められた力をほどいた。ガレージは死んだように静まり返っている。まだ朝が来る気配はない。