ただの夢よ、夢。なんてことないじゃない。
 目覚めてから十数分経っているというのに、私はさっきからベッドの上で何度も同じ言葉を自分に言い聞かせている。そのくせ、心臓がばくばくいって、額にはうっすらと汗さえかいてしまっているのだから矛盾している。なんてことないわけない。妙に生々しい夢。私が覚えている限りではきっと一番の悪夢だった。それこそ、正体のわからない大きな影に追いかけられて、ビルの屋上から飛び降りる夢よりもずっと怖い夢だ。
(なんで、こんな夢、)
 私は何かを誤魔化すように無意識に掌を擦り合わせていた。嫌な夢。まだ感触が残っているみたいだ。夢から醒めて随分と時間が経ったはずなのに、心臓はまだ怯えているようだ。私は正体の掴めない恐怖を覚えながら、わずかに震える掌を祈りの形に組み合わせた。こんなことなら、迷信じみたおまじないなんてやるんじゃなかった。せめて夢の中だけでもと、私にしては少々ロマンチックすぎる考えを実行に移すのはあまりにも浅はかだと、他の誰でもない、自分自身が一番理解していたはずだったのに。所詮、どうあがいたって叶わない願い事は、神様にだって叶えられるはずはないんだわ。枕の下に潜り込ませた写真を思い浮かべながら、私はそっと瞼を閉じる。そうでもしない限り、目の奥から溢れそうになる熱い何かを、零してしまいそうだったから。
 夢の内容は嫌なくらいはっきりと覚えている。いつもの場所、いつもと同じ笑顔を見せる彼の首を、私がこの手で絞め上げる。ストーリーも何も無い。私の狂った行動を咎める者もいない。二人だけの空間で、私は彼を殺そうとしていた。
(カイト先輩……)
 一度も触った事なんかないくせに、彼の首の感触が掌にまだ残っているような感覚がしてきもちわるい。(ミクちゃん。俺を殺したいの?)夢の中で困ったように微笑む彼の顔が、瞼を閉じても鮮明に浮かび上がる。 (ちがいます、せんぱい。違うんです)
 私が一番好きな彼の笑顔を見下ろしながら、私はじわりじわりと力を込めて、彼から酸素を奪う作業に没頭していた。夢の中の私は彼をどう思っていたんだろう。どうして私はこんな夢を見てしまうんだろう。もういやだ、“苦しすぎて胸が張り裂けてしまいそう”。ふと、少し前に流行った失恋ソングのフレーズを思い出して無性に泣きたくなった。チープな歌詞だと思って聞き流していたのに、皮肉にも今の私の感情を表すにはぴたりと当てはまっていた。(一体何がいけないって言うの!)昨夜眠りに就く前に枕の下に写真を忍ばせて、普段は信じもしない神様に嘘で塗り固めた願い事をしてしまったからだろうか。そうだとしたらあまりにもひどい。もし嘘を罰するつもりであんな夢を見せたのなら、神様なんて呪ってしまいたい。
(そうよ、一度きりでいいから手を繋いでみたいなんて、夢だけでいいなんて、嘘よ。でもそんなこと絶対に叶わないんだもん、嫌だよ、苦しいよ、いつだって泣きたくなっちゃうのに)
「……もういっそ、機械になりたい」
 ふと浮かんできた言葉を声に出してみると、思っていたよりも細く震えてしまっていて、惨めな気持ちにさせられた。機械なら、こんな感情も苦しみも痛みも感じなくて済む。きっと悪夢さえも見なくて済むだろうに。

 私はすっかり覚醒してしまった目を薄暗い部屋の中でゆっくり開いた。そっと枕の下に手を差し入れて、収めていた写真を慎重に引っ張り出す。乱暴に扱うことができればどんなにか気分は晴れるかもしれないけれど、無意識に壊れ物を扱うように写真を摘み上げる私の指は実に心に正直で、少し捻くれてしまった頭とは切り離されているみたいだ。枕の下から救い出された写真には、撮られるのはあまり好きではない彼が、周りに引っ張られて珍しく笑顔を浮かべて写っていた。私の好きな笑顔。だけど特別な人にしか見せない、もっと素敵な彼の表情だってきっとあるんだろう。残念ながら、私がそれを見ることはきっと絶対に叶わない。プリントされた彼の笑顔に人差し指で触れてみても、彼の表情は1mmだって動かない。私は溜息紛いに空気を吐き出して、枕元の時計を手繰り寄せる。カーテンのわずかな隙間から差し込む薄明かりに照らされた文字盤は、今はまだ朝と呼ぶには少々早い時間であることを教えてくれていた。



090131 // 二進法プログラム
「零と壱」はオススメ曲です