#01 Bird in the hand


 デートには何度も行った。私からは何にも言ってないけど、時間がある時はなるべく一緒にいてくれる。それで、手なんか繋いでくれる時もあるし、家にいる時はごくたまに、ぎゅってしてくれる。コーヒーにはシュガースティック半分の砂糖と、たっぷりのミルク。頼まなくたって私好みのカフェオレを作ってくれる。褒めてくれる時は、いっぱい頭を撫でてくれる。その度に私は「子供扱いしないで」と文句を言うけれど、本当はすごく嬉しいこともきっと知っている。(だって何度言っても笑うだけでやめる気配はない。)おやすみの挨拶の時は、いつもよりも少し低い、大人っぽい声で私の名前を呼んでくれる。幸せな余韻に浸って眠りに落ち、次に目が覚める時、私は最初に彼におはようを言いに行く。

 でも、彼は一度だって私にキスしてくれたことがない。二人っきり、ムードのあるソファーの上でだって、ただの一度も、だ。スプーンやグラス越しの間接的な触れ合いをキスと呼ぶのならば話は別だけど、ここまで互いの関係が親密な男女の仲でキスの一つもないなんて。

「――ていうかね、それだけじゃなくって、みんなお仕事で朝まで家に二人っきりな状況でもお兄ちゃんは何もしてくれないの。それっておかしいと思わない? リンちゃん!」

 いや、急にそんなこと言われても困るよ!
 呆れのあまりに滑りかけた言葉を飲み込めたのは、奇跡に近いかもしれない。リンは何と言葉を返していいか咄嗟に判断できず、とりあえず曖昧に笑って「ま、まあねえ」と適当に同意しておいた。
 珍しくミクが不機嫌さを顕にして自室に呼び出すものだから、一体何の話かとちょっと不思議に思っていたのに、まさかの惚気話とは。キス云々はさておき、リンとしてはカイトとミクが少なからず想いあっていることを知っていただけで、そこまで親密な仲だったとは今の今まで全く予想もしていなかったのだ。正直言って、へたれ、天然、甲斐性なしの称号を欲しいままにしているあのカイトに、女の子と二人きりの空間でムードを作る能力が備わっていた事実の方がよっぽど衝撃的だ。
「……私、そんなに魅力ないかなあ」
 ミクはまた何かを思い出しているのか、お気に入りのクッションを力いっぱい抱きしめている。よく見ると、翠色のまつげがしっとりと濡れているみたいだ。
「そんなことないよ、ミクちゃんは可愛いよ!」
「じゃあ、どうしてお兄ちゃんは何もしてくれないんだろ」
「え、」
 そんなこと知るわけない。
 とはとても言えないが、上手く返すための言葉も思い浮かばない。これほど自分のボキャブラリーのなさを後悔したことは今までにないかもしれない。
「えーと……大事にしてるから、とか、じゃないの?」
「それにしたってキスしない理由にはならないもん」
 ですよねー。
 大事にしたいからって触れるのも禁止なんてどこの修行僧だ。だって普通、キスを求める気持ちと身体を求める本能は全く異なるものの筈だもんね。リンはいよいよミクにかける言葉を失ってしまった。なんとか元気づける言葉をかけてあげたいけれど、こういう時に限って何も浮かんでこないのが少し悔しい。せめて、すっかりしょげて俯いたミクの、垂れた前髪に隠された翠色の目に涙が浮かんでいないことを祈る。
 こんなに可愛い子を捕まえておきながら、キスの一つもしてあげないなんて、ほんとにカイトはへたれでどうしようもない男だ。気の利いた言葉が出てこないあたしも似たようなものかもしれないけど。
 言葉が思いつかない代わりに、リンはミクの頭におそるおそるてのひらを乗せて、そっと撫で始めた。柔らかい髪からは、ふんわりと甘いシャンプーの匂いがした。カイト兄には夕食前に一発蹴りをお見舞いしてやろう。リンはそっと胸に誓った。恋する女の子を泣かせる者は馬に蹴られてしんでしまえ! ってどこかで聞いた気がする。あれ?牛だっけ。
「ごめんね、ありがと、リンちゃん」
 何度か撫でているとミクはようやく顔を上げて、ほんの少し寂しそうに笑った。良かった、泣いてないみたい。クッションを抱えなおすミクは少し無理をしているみたいにも見える。
 ミクがこんなに落ち込んでいるのを見るのはあんまりないから、なんとかして力になってあげたいのに。
(うう、無力だなあ、あたし。)
 ミクにつられてブルーになりかけた気持ちを誤魔化すために、リンは頭に結ったリボンを指先で弄んだ。ミクも同じように、ふにふにと手の中のクッションで遊びながら、ぽつりぽつりと話し出す。
「別に、キスしてくれないからって、私はお兄ちゃんのことを嫌いになるわけじゃないの。いつも優しくしてくれるし、私が欲しい言葉をいつも欲しい時にくれるし。……正直言って、私なんかにお兄ちゃんは釣り合わないんじゃないかって思う時もあるの」
「そんなことないよ!」
 力いっぱい否定すると、ミクは驚いたように顔を上げた。腕の中のクッションを抱きしめなおして、ふんわりと笑う彼女は本当にカイトには勿体無いくらい可愛いと思うのに。
「ありがと、リンちゃん。……でもね、私はお兄ちゃんのこと大好きだけど、お兄ちゃんは私のことを好きだっていう証拠はどこにもないでしょ。ただ二人一緒にいるだけじゃ、普通の兄妹と変わらないんじゃないかって、時々不安になるの。だから私、お兄ちゃんと私が繋がってるっていう証みたいな、何か確実なものが欲しかったんじゃないかな」
「繋がってる証……」
 リンは無意識にレンを思い出していた。ミクの言いたい事はなんとなくわかる気がする。鏡のように互いを映しあうリンとレンは、いつだってどこかで繋がっていると思うだけで安心できるから。
 たとえば目と目を合わせるだけでお互いの言いたいことや考えていることがなんとなくわかったり、手を繋ぐだけで何でもできそうな気持ちになったりするような、あったかくてどこかくすぐったい感覚。それがミクの言う繋がりだとしたら、リンは生まれた時からずっとレンと繋がっている。ミクはリンやレンとは違ってひとりで生まれてきたから、きっと、ずっと強く繋がることができる人を探していたに違いない。ようやく見つけた繋がる証を、あったかい安心感を、カイトから貰おうとしているんだ。
「ね、じゃあさ、今度ミクちゃんから迫っちゃいなよ!」
「え?」
 そうだ、待っているだけじゃなくて、行動すればいい。我ながらナイスアイディアだ。
「ほら、今の時代は女の子も積極的に迫るべき! って言うじゃん」
「せ、せまっ……!?」
「そうだよ、押しちゃいなよ! あわよくばキスどころか、その先まで行けるかもしれないじゃん!」
「ちょっとリンちゃ、何言ってるの!?」
「ダメなら、ちょーっと露出高めの服とか着たりして悩殺作戦とか」
「そ、そんなこと出来ないよ……」
「俺は大歓迎だよ?」
「ほらカイト兄もそう言って、」
 ずざざざざ。
 何故ここにいる!という叫びは残念ながら喉が引きつって声にすることは叶わなかった。
 部屋の入り口に、いるはずのない青い男がいつの間にか扉を開いてにこにこと笑っている。まだ部屋に入ってこなかっただけマシと言えばマシなのかもしれないが、問題はそこではない。話に夢中になっていたとはいえ、全くその気配に気付かなかった。その不気味な第三者の介入に思わず後ずさってしまったのはリンだけで、ミクに至っては完全に固まってしまっている。それもそうだ。今まさに話題に上っていた人物(しかも想い人)が何の前触れも無く現れるとは思いもしなかっただろう。これはちょっとしたホラーだ。現に心臓が今ちょっとやばい。
「お兄ちゃん、いつから――」
「何度かノックしたし呼びかけたんだけど変事がなかったからね。話の途中にごめんね、ミク。メイコが呼んでるよ」
 カイトの声はいつも通り優しいはずなのに、どこか有無を言わせない力が篭っているような気がするのは錯覚だろうか。
「あ、う、うん。……い、今行くよ」
 ぎこちない動きで立ち上がったミクは、ちらりとリンの方を向いて(ごめんね、お話の途中で)と口だけを動かした。
 リンはなんとか手を振りかえしたが、正直カイトの方が気になって仕方がない。誰だこいつをへたれでアホの子とか言ったのは。なんかちょっと冷気が出てる気がするんですけど。アイス好きなだけに。
「ごめんね、リン。折角楽しそうだったのに邪魔したりして」
「う、ううん、全然」
「……ほんとに大丈夫?なんか顔ひきつってるよ」
 ほら! 笑顔、笑顔。と爽やかに笑ってみせるカイトに、リンは心の底から不信感が湧き上がるのを感じた。この家に住んでるひとで一番まともなのはきっとあたしくらいじゃないだろうか。みんなこの青い生き物の無駄な爽やかスマイルに騙されているんだと今ようやく理解した。レンのカイトに対する反抗心はもしかしてここから来ているんだろうか。
「ていうか、カイト兄どこから聞いてたの?女の子の部屋に入って盗み聞きなんてサイテーだよ」
「それは誤解だって! 本当に返事がないから、一応断りを入れてドアを開けたんだけど」
「ほんっとーに?」
「本当です。俺、そんなに信用ないかなあ」
 見上げた先の顔は本当に困ったように曖昧な笑みを浮かべていて、リンも流石にカイトには悪気が無かったらしいことを認めざるを得なかった。
「でもね、」
 無意識に取っていたらしいファイティングポーズを解いて、リンはじっとカイトの目を見つめる。彼の青い目は真っ直ぐにリンを見下ろしている。その表情はリンが一度も見たことがない類のもので、リンはぎょっとして思わず一歩下がった。
「俺も欲しいよ。確実なもの。ミクとはただの兄妹じゃないっていう証」
 へらりと笑って、カイトは続けた。
「いつまでもただの“お兄ちゃん”ではいられないからね」
 そう言っていつもの優しい笑顔を浮かべるカイトを見て、結局盗み聞きしてたんじゃん! とかいう突っ込みはさて置き、とりあえずリンは今この場で一発蹴りをお見舞いすることに決めた。

 二人揃っていつまでも待ってるばかりじゃ、永遠に前に進めそうにないじゃないか。そういった類の気持ちとか考え方は、本人に直接伝えればいい。ひとかけらも残さずにそっくり全部。ついでにミクの望みを叶えてあげれば――キスの一つでもしてしまえば、きっと全てはうまくいくはずなのだから。



090207 // Bird in the hand (何か確実なもの)
本来の意味と全然違うのは見なかったことにしてください><