#02 Cat's whiskers


 この世には、パラレルワールドという「もしも」を凝縮した空間が存在しているのだという。「あの時こうしていたら」「この時そうなっていなければ」。現実には起こり得なかった可能性、捨てられた選択肢の延長上に存在する、ここではない、けれど確実にこの時間・空間と繋がっている世界。その話を最初に誰から聞いたのか正確には覚えていない。相当古い記憶なのだろう。にも関わらず、カイトはふとしたはずみでその世界に思いを馳せることがこれまでに何度もあった。

 例えば、「もし自分が生まれなかったら」世界はどうなっていたのだろう。
 カイトはこの広い世界の中のちっぽけな一つの存在でしかない。きっとカイトがいない世界は、文字通り“カイト”という存在だけがすっぽり抜け落ちただけで、その他は何も変わらずに平然と時間を重ねていくんだろう。メイコはミクを可愛がるだろうし、リンやレンも相変わらず元気に跳ね回る。みんなの歌声が世界中の人に感動を与える。ただ、そこに俺はいない。それだけのことだ。
 例えば、「もし歌がなかったら」世界はどうなっていたのだろう。歌とはカイト達にとって命と言い換えても過言ではない存在だ。もしこれがなければ、自分は死んでいるのだろうか。生きているのだろうか。歌の代わりに、何か他のものにすべてを捧げているんだろうか。もしそうだとしたら――その世界の俺は俺じゃない。歌のない世界なんてまったく想像も出来ないし、したくもない。だけど、歌という共通の命がなくても、きっと周りにいる大切な人たちは何らかの形で自分の傍に変わらず居続けてくれるだろう。これは自惚れとか希望とか思い込みではなく、確信にも似た思いでそう感じていた。
 じゃあ、例えば、「ミクがいなかったら」。
 そう考えた瞬間、カイトの思考は一切停止してしまう。
 実際にはカイト自身がミクが生まれる前から世界に存在しているのだから、仮にでもミクの存在を消して、その延長線上のパラレルワールドを想像することなど容易いはずなのに、まるでそんな世界はどの次元にも、どの宇宙にも存在しないのだと言い聞かされているような心地になるほど、ミクの存在が消えた世界のことなど微塵も想像することができないでいた。
 むしろ、ミクと会うまで自分はどうやって生きていられたのかと不思議に思うくらいだ。今や呼吸の仕方も、歌い方も、感情すら、彼女なしに存在していられる自信がない。カイトがいない世界でミクが笑う姿は想像できても、ミクのいない世界でカイトが同じようにできるかは甚だ疑問だった。

(……むしろ、ミクがいなかったら俺は呼吸できなくて死ぬかも)

 本気でこう考え始めているあたり、もう随分と重症なのかもしれない。一応自覚はあることは褒められるべきだと思う。(と、メイコに言ってみたら思いっきり呆れられた挙句わざとらしく溜息を吐かれた。)
 こうしてさまざまなパラレルワールドに思いを馳せたあと、現実の世界に視線を戻すと、カイトはいつもこう思う。やっぱりミクがいる世界で、歌がある世界で、ついでに言えばミクと俺がちゃんと出会えるようなタイミングで生まれてこれて、お互いのことを好きになって、更に、思いが通じたことはとても素敵なことで、これが「もしも」のパラレルワールドの出来事ではなくてちゃんとこの世界で起きていることだって事実に、心の底から感謝しなくてはならない。
 ざまあ見ろ、パラレルワールドの俺。
 他のカイトが例え幸せだろうと、今ここでこミクのやわらかい身体を抱きしめられるのは、今ここにいる俺以外にはいない。


「お兄ちゃん、どうしたの?」

 ミクは読んでいた本から視線を外し、身を寄せてきたカイトの顔を覗き込んだ。
 休日の午後、特に何をするでもなく、並んでソファーに座ることがいつの間にかミクとカイトの習慣になっている。ほとんどの場合は他愛ないおしゃべりや、ちょっとしたティータイムを楽しむことが多いけれど、時々こうしてお互い何を喋るわけでもなく適当に時間を潰すこともあって、その空気がミクにとっては心地いい。
 ぽすん、とカイトがミクの肩に頭を預けてきた。彼がこうして甘えてくることも、今では随分慣れっこになってしまったな。最初の頃なんて面白いくらい動揺して、カイトを苦笑させたりもしていたのだけれど。
「んー……」
「お兄ちゃん?」
 首筋に触れるカイトの髪がほんの少しくすぐったくて、ミクは思わず笑う。慣れっこになったとはいえ、やっぱり少しだけ緊張して少し腰が引けた。すかさず、逃がさないとでも言うようにカイトの手が伸びてきてぎゅっと抱きしめられると、さすがにミクも少し動揺してしまった。
「わ、ど、どうしたの? 今日なんかいつもと違うよ」
「ちょっと、考え事してたら急にこうしたくなって」
「考え事?」
 珍しいなあ、私と一緒にいる時に考え事なんて。
 そう思ってしまうのは自惚れだろうか。何を考えていたのか純粋に気になって先を促すと、再びカイトは「んー、」と間延びした声を漏らした。まるで夢から覚めたばかりの子供みたいな声だなあ、と内心微笑んでいると、頬を摺り寄せるようにして耳元に唇を寄せられる。
「ミクが俺のこと好きでいてくれて良かったな、って」
 その声音があまりにも幸せそうだったから、ミクは思わず焼きたてのトーストに乗せたバターってこんな気持ちだったりするのかしら、と考えてしまったほどだ。
 膝の上に乗せていた読みかけの本がばさりと派手な音を立てて落ちた。挟んでいたしおりが役目を放棄してしまったから、どこを読んでいたのか探すのが面倒になるなあ。そんなことをちょっぴり考えたあと、ミクのてのひらはそっとカイトの髪に触れる。
「私も、いつもおんなじこと考えてるよ」
 囁いた声は果たして彼の耳に届いただろうか。言葉にできない思いごと全部、このてのひらから伝わればいいのに。



090211 // Cat's whiskers (素敵なこと・素敵な人)