僕らのマスターは星を見るのが好きな人だった。月だか星雲だか僕にはよくわからないが、マスターに言わせればそれらは生命の神秘とか浪漫みたいなのがいっぱい詰まっているらしい。生命の神秘も浪漫も僕にはよくわからないものなので、いまいちピンとこなかったのだけれど、それを言うとマスターは絶対に哀しい表情を作るに決まっている。だから言わなかった。要は人類の求める理想こそがそこにあるとかそういうことなんだろう。半ば強引に解釈しようとしても、やっぱりよくわからない。
 そういえばマスターは、よく晴れた日の暮れは帰宅するなり僕らをベランダまで引っ張ってはあれやこれやといくつかの光を指差して熱心にその名前を教えてくれた。

「ほら、みんな見てごらん。あのひときわ綺麗に光ってるのがベガ。こと座の星だよ」
「マスター、こと座ってどのあたり?」
「ミクにはわかりづらいかな? カイト、星座板持ってきてくれる?」
「ねえ、あの星はー?」
「ん?どれどれ……」

 双子にやんやと袖を引かれて怒涛の質問攻めにあっても、ステレオで響く彼らの声なんかちっとも苦にならない様子で、それどころかにこにことしながらいつまでも星の名前やそれにまつわる伝承を語り続けていた。そしてそういう時のマスターは、決まってこの世のすべての幸せを凝縮したんじゃないかと思えるような表情を浮かべていた。要するに、僕が知る限りでは一番の笑顔だった。まったく、僕らが歌うためにここにいるんだってわかっているんだろうか? そんな疑問を抱いてしまうほど、マスターは人類が生み出した歌という文化より、地球が誕生する以前から瞬いていた星のほうに熱を上げていたのだった。

 週末になると、マスターは僕らを半ば強制的に車に押し込んで近隣の山に星を見に行くことすらあった。
 そんなに大きくはない天体望遠鏡やランタン、冬は使い捨てカイロや毛布を、夏には蚊取り線香を持っていく。シングルバーナーを持っていって、その場で紅茶を淹れることを最初に思いついたのはメイコだった。そのうちお菓子やちょっとしたお弁当も持って行くようになって、ある時には星を見ながら夕食を摂った事もあった。
 マスターが望遠鏡を最初に合わせて、みんなが代わる代わる覗き込んでいく。季節や時間ごとに変わる円の中の眺めにミクは楽しそうに歓声を上げるけれど、正直に言ってしまえば、僕は結局その眺めのどこがいいのか理解はできなかった。たしかに綺麗だとは感じるけれど、マスターの言うように巨大なサソリや美しいペガサス、棍棒を振り上げる男の姿など全く見えなかったし、地球上に居る限りはどう足掻いても届くことのできない果てしない距離に浮かぶ熱エネルギーの塊に魅力を感じることはできなかったからだ。

「どうして僕達を購入したんですか」

 そういえば、いつだったか僕はマスターにこう尋ねたことがあった。
 ただ星を眺めて語る相手が欲しいのならば、何も僕らでなくて良かっただろうに。曲を与えられ、歌うことが僕らの役目のはずだ。人の傍にいるアンドロイドとして最低限の知識は持ち合わせているものの、天体に関しても有名な星や星座をただ「知っている」だけで、マスターの相手をするには不十分だと判断できる。マスターもマスターで、僕らの性能や役割を理解していないわけでもないだろうに、楽曲に関する知識はほとんどなかった。それどころか、導かれ従う僕らのほうがよっぽど詳しいくらいだ。
 僕の問いに、マスターはしばらくの間考え込んでいたが、やがてへらりと笑ってこう答えたのだった。

「たぶん、君たちが羨ましかったんじゃないかな」


***


「お兄ちゃん?」

 ミクの声にはっとして、僕は慌てて笑顔を繕った。いけないいけない、こういう時にぼんやりしてしまうなんて。
 心配そうに覗き込んでくるミクになんでもないよと軽く頭を撫でてやる。言葉はなかったがミクにも伝わったのだろう。力なく笑みを返して、それっきり何も言わなかった。
 そう広くはないアパートの一室は窓を開け放しているのにどこか息苦しい。原因はわかっている。夏の湿った空気にはおよそ似合わない、黒い衣服のせいだ。夕暮れをとっくに通り越して空は紺色に染まっているのに、ちっとも風が吹いてこないおかげでいやに蒸し暑かった。

 この部屋の、そして僕らの主がこの世からいなくなった。あまりにも突然のことだったので、棺に横たわるマスターの白い頬や、からりとした青空に立ち上る灰色の煙を見たはずなのに、未だに信じられずにいる。
 まだ若かったのにねえ。
 葬儀の場で聞こえた声が今になって反芻された。そうだ、また今月末にみんなで出かけようかとマスターは笑っていたんだった。リンがカレンダーにバツ印をつけて指折り数えていたのは、まだそんなに遠い過去ではなかったはずだ。あの時はあんなに楽しそうに笑っていたのに、今は見る影も無く、すっかり沈んでしまっている。リンにあんな顔をさせたくないとは思うのに、彼女を慰めるほどの余裕は誰も持ち合わせていないようだった。
 誰も積極的に口にしようとはしないが、主を失った僕らは他の人の手に渡るか、引き取り手がいなければ本社に返されることになる。マスターは幸い天涯孤独の身というわけでも、友人や知り合いがいないわけでもないのですぐに引き取り手は見つかりそうだ。現に、ミクとメイコは既に次のマスターが決まっていた。確かピアノが大好きなお嬢さんと、マスターの後輩でギターが好きな青年だと聞いた。今までの環境とは違って、彼女達はたくさんの楽曲に囲まれて暮らしていけるに違いない。ボーカロイドにとってはこれほど幸せなことはない。だけど僕は、何故だろう。彼女達を羨ましく思えなかった。

 マスターの家族がちょくちょくこの部屋にやってきては遺品を整理していく。日に日にいろんな物がこの部屋から消えていく。あの望遠鏡だって、マスターの雑然とした机と本棚の間に窮屈そうに佇んでいたのに、いつのまにか姿を消している。何冊もの天体図鑑や、週末に持ち出していたステンレスのマグも望遠鏡と一緒にどこかに行ってしまったんだろう。
 人事みたいに言っているけれど、僕らだって同じだ。いつのまにかこの部屋から去っていって、新しいマスターの元で新しい生活を送ることになる。曇りの日の夜に少し落ち込むマスターを適当に慰めることや、眠る前になんとなくベランダに出てちょっと空を仰いでみること。そういう日常が、もう無くなってしまったのだから。

「そういえばお兄ちゃん、楽譜のこと聞いた?」
「ああ、そういえばマスターの遺品の中にあったんだっけ」

 楽譜とは遺品の整理の最中に出てきた書きかけの曲のことだろう。以前、リンやミクが歌という文化がいかに素晴らしいかを延々と説いたというのに、マスターはまったくそちらに興味を示さなかった。そんな人の遺品の中で、その数枚の紙切れはひたすらに異質だった。たどたどしいおたまじゃくしがぽつぽつと並んでいた紙切れに誰よりも驚いたのは家族よりも僕らだったことは言うまでもない。
 マスターを失ったことを信じられないと思う一方で、自然と「遺品」と口に出来ることがなんだか可笑しい。僕は続けた。

「ばかだよなあ、マスターは。曲の書き方どころか楽譜だって読めないくせに」
「うん」
「楽器だって、小学生の頃にハーモニカとリコーダーやってそれっきりだろ」

 呆れたように肩をすくめてみせると、ミクは勇気付けられたように笑顔を作ってみせた。

「あと、趣味で買ったオカリナね」
「でも結局吹けないし」
「ただのインテリアだったね」
「そうそう、本棚の上に放置したままで」
「でも、勝手に吹いたら怒ってた」
「あれはリンが乱暴に扱ってたからだろ?」
「ちがうよー、リンとレンで変な替え歌歌いながら吹いてたからだよ」
「そうだっけ」
「うん」

 あはは、と笑うミクの声はふにゃりとして少し間が抜けている。それが少し哀しくなって、僕はただ苦笑とも自嘲ともとれないあいまいな笑みを浮かべてしまった。

「あのオカリナ、今どこにあるのかな」

 わざとらしいくらい明るいミクの質問には答えられずに、僕は今度はすっかり黙ってしまった。
 結局はそうだ。あのオカリナの行方も、マスターがこそこそと曲を書いていたことも、何もかもがわからないまま、空に消えていく。僕らと一体何がしたかったのか、その理由や、きっとマスターのすべてでさえ。マスターは今は地上のどこにいたって永遠に手の届くことのない果てしないところで、星に囲まれてあの夜空を漂っているに違いない。……まったく、どこまでも掴めない人だったなとあの人の笑顔を思い出す。
 僕らが羨ましかったとは、一体どういうことだったのだろう。その意味を問いただすことも、もうできなくなってしまった。
 結局ミクは再び口を閉ざして俯いている。うまく言葉もかけてやれず、僕は居心地が悪くなってふと、小さな窓を見た。
 四角に切り取られた狭い空の中では、相変わらず数え切れない程の星が煌いている。
 あの人は一体どうやって、あんな小さな光の名前を言い当てていたのだろうか。僕にはどれも変わらないように見えるから、マスターが星の名をひとつ口にする度に妙に感心していた。ましてやそこから琴やわしを見つけ出すマスターの目には、魔法めいた何か不思議な力が宿っていたのかもしれない。

「アルタイルってどれだっけ」

 意識せず零れた疑問はしばらくの間宙を漂っていた。

 静まり返った部屋はひどく蒸し暑く、窮屈だ。
 かつては星の物語や他愛も無いおしゃべりで、あんなにも賑やかだったのに。そういえば、とうとう僕らは歌わないままこの部屋を去ることになってしまったな。
 ほんの数フレーズしか書かれていなかった楽譜を思い浮かべて、そのメロディを頭の中で再現してみる。お世辞にも美しいとは言いがたい音が連なり重なった出来損ないの旋律には、詞も乗せられるかどうか怪しい。
 それでもそのひとつひとつの音は、あの人が初めて奏でようとした音楽の切れ端だと思えば、不思議なことに、どんなに素晴らしい作曲家が作り出した音楽よりも輝いているようにすら思えて仕方が無かった。
 人類が生み出した歌という文化より、地球が誕生する以前から瞬いていた星を愛していた僕らのマスター。もしかしたら歌しか知らない僕らに、空の美しさを知ってもらいたくて僕らと暮らしていたのだろうか。それとも本当は歌を作りたくて仕方なくて、だからこそ僕らを選んだのかもしれない。どんなに推測したって、既に真実は遥か空の彼方に追いやられてしまっているのだけれど。
 でも、たとえ拙くても曲を書こうという気になったのは、僕らの存在があったからなのだと信じたい。僕もこうして、星を見上げて感傷に浸れるほど、あの光を美しいと思えるようになったのだから。



090707 // アポロンの子供達
091013 - 改稿
七夕を書くつもりが…どうしてこうなった