全く、俺は本当にばかだな。
 溜息と同時に黒いものがこみ上げそうになるのをなんとか堪えて、カイトは腕の中の少女を見下ろした。
 トレードマークのツインテールをほどかれて、呆気に取られたようにこちらを見上げる表情が愛らしい。幸か不幸か、彼女はこの状況がどれほどのものなのかきちんと理解できていない様子だった。
「ばかだなあ、ミクは。まだわかってないんだ」
 カイトは自嘲するように笑って、正対する少女を力強く抱きしめた。細い肢体は見た目に反して案外やわらかい弾力を備え、抱き心地は充分だ。背に回した手を滑らせると、少女ははじめて、戸惑うようにに身じろいだ。
「……お兄ちゃん?」
 ミクの顔は見えない。けれどその声の様子から推測すると、まだこの状況に思考が追いついていないようで、どこか夢見心地でさえあるようだった。
 このまま流されてしまえばいい。
 カイトは今や、普段の彼が巧妙に隠し続けてきた本能を曝け出そうとしている。
「お兄ちゃん、どうしたの?……なんか今日、変だよ?」
 ミクを抱きしめたまま何も言わないカイトに不安を覚えたのか、それともカイトの様子から何かしらの危険を察知したのか、ミクは若干震える声で尋ねる。
「ねえ、お兄ちゃん、」
「ごめんね、ミク」
 ミクの言葉を遮るように、低く呟く。その瞬間ミクの肩はびくりと震えて、その様子がなんだか小動物を思わせて少し可笑しかった。宥めるように背を撫でてやると、逆に身体を強張らせる。彼女なりに警戒しているらしい。思わず笑ってしまいそうになりながら、カイトはゆっくりと、言い聞かせるように囁いた。
「もう俺は、ミクの優しいお兄ちゃんじゃいられなくなるんだ」
 再びミクの肩が震える。一体何に怯えているんだろう、この子は。小刻みに震える身体と、堪えるように詰めた吐息。顔を見ずとも、ミクが泣きそうになっているのはすぐにわかった。
「泣かないで、ミク」
 あやすように優しく言ってやると、ミクが強くこぶしを握る。抵抗のつもりだろうか。そんなところも可愛いとは思うけれど、今更何を言われたところでこの衝動は抑えられそうになかった。
 激流のように押し寄せる感情は、もうカイトの全身を満たしてしまっている。高鳴る鼓動も、海にも似た深い想いも、獣のような衝動も、すべてはこの少女に捧げられるべきものだ。
 あとは、カイトとミクの間に横たわる、堅くも脆い壁を壊すだけでいい。そのためのたったひとことのキーワードを、カイトはひとつひとつの音を噛み締めるようにして囁いた。

「すきだよ」

 ミクの吐息が震える。カイトはそれきり押し黙って、ミクを強く抱きしめる。すすり泣く彼女の腕が、そうっと背に回されるのを感じて、カイトは感情が昂ぶるのを感じずにはいられなかった。
 ああ、本当に俺はばかだ。
 カイトは再び溜息を吐きそうになるのを堪えた。
 今まで慎重に築きあげてきた壁を自ら壊してしまったのだ。激流を止めるものは、もう無い。身体の奥を這いずり回る衝動すら、こみ上げる悦びすらも抑えることができなくなる。

 後戻りはできない。もう、決して。



080625 // 破壊する者