うそだ。世界がひっくり返ったって、そんなことは起こるはずはない。あってはならない。
 私は最初にお姉ちゃんからそのことを聞かされたとき、真っ先にそう思った。うそに違いないと。

 だから、研究員の制止の声を振り切ってその部屋に飛び込んだとき、私は目の前の光景が信じられずにその場に立ち尽くしてしまった。だってあまりにも現実味がない。だいすきなひとが、しんでしまうかもしれないなんて。

 薄暗い部屋で、数え切れないほどのコードに繋がれたガラスケースの中に、その姿はあった。目を固く閉ざし、まるで人形のように静かに佇む彼の姿は、あまりにも日常からかけ離れている。一瞬、私は彼が誰なのか、判断ができなかった。私の記憶の中にいる兄は、いつも私にやさしい笑顔を向けてくれて、あたたかくて大きな手でこの髪を撫でてくれるのに。私が目の前にいるにも関わらず、あのきれいな青い目で私を見てくれないのだから、これは彼の姿をした別の誰かなのだと錯覚してしまうほどだった。

「……うそよ」

 気がつけば私は呟いていた。動揺とは裏腹に、細く平坦な私の声は空々しく床に転がり落ちる。
 こんなの、悪い冗談だ。きっとみんなして私を驚かそうとしているに違いない。そうに決まっている。今に彼はぱちりと目を開いて、驚く私の髪を撫でてくれる。びっくりした?ミク、って、少しだけこどもっぽい、けれど誰よりも私を安心させるあたたかい笑みを向けてくれる。きっとそうに違いない。そうでなければならない。
 だけど、いくら待っても部屋の中は沈黙に満たされるばかり。断続的に流れる電子音が、彼の体内の様子を逐一私に知らせているだけだ。
 広い室内にいくつも並ぶモニターには細かく変動する数値が表示されていて、そのどれもがコードに繋がれた先の身体が死にかけているということを示していた。
 私は一歩、彼の元へ歩み寄る。ぺたん、と響く素足の音。なんて薄っぺらい音。こんな小さな音では彼を目覚めさせることはできないと私はふと思った。急に、目の奥に熱が灯って、視界がじわりと揺れた。まばたきをすれば私の胸に封じ込めた叫びが零れ落ちてしまいそうで怖い。
 それでも私は、彼から目を逸らさずにぺたぺたと歩み寄る。近づけば近づくほど、目の前に被せられたベールが払い落とされていくような感覚がした。
 青い髪。青い睫。彼を包むコート。その何もかもが、今は羨ましい。私がいくら歩を進めたところで、もうガラスに守られた彼に触れることはできないのに、彼が身に纏うものは今、彼に寄り添うことを許されている。
 まるで拒絶されているみたい。
 ふと、そんな言葉が浮かぶ。彼のあたたかなてのひらの感触を思い出そうとして、そのぬくもりをうまく思い出せないことに私は愕然とする。

「ねえ、」

 私はガラスの向こう側にいるひとを呼ぼうとして、不意にやめた。返事がなかったらきっと、私は泣いてしまうに違いない。
 中途半端に開いた唇から、言葉になり損ねた息が漏れる。
 私を咎めるように見下ろすモニターののひとつが、数値の異常を示して赤く明滅しているのに気付いた。
 わかっている。本当は。
 あれだけ私を止めようとした研究員たちが、私が部屋に入った途端に大人しくなって、追い出そうとしないことや、彼が危険な状態であるにも関わらず、部屋の中が無人であること。その意味は、私も理解していないわけではない。何もかもが手遅れなんだ。きっと、奇跡を望むことすら許されない。
 数値は今この瞬間にもどんどん下がっている。異常を示す赤い画面の光は次第に範囲を広げ、私の髪や肌やスカートを照らしていく。
 ガラスケースの彼の青い色を染めるかのように、どこまでも鮮やかな赤は私の目に突き刺さるようだった。次々に増える赤に私たちはおぼれていく。メーターを振り切る数値に反応して、警報までもがけたたましく鳴り響く。薄暗い、真っ白な部屋はたちまちのうちに赤い光に照らされ、警報音はまるで呻き声のように、単調に空気を侵していく。
 最後の力を振り絞って、ただ叫び続ける、音。それはまるで、私の叫び声のように思えて、ひどくかなしかった。

 もう決して、彼は目を開くことはない。そして誰一人として、彼をガラスの檻から救い出すことはできないのだ。

 私はひたすらに彼を見つめ続けていた。何かに祈るように、一瞬のまばたきすらも惜しんで彼の青を目に焼き付けることに専念した。彼の顔色は普段と何ら変わりない。けれど、彼を構成する要素がひとつひとつ壊れていく音は、私の耳にははっきりと、何よりも大きく響いて聞こえた。
 血のように赤く染まる室内。私の代わりに泣き続ける警報。そのすべてに、私は恐怖した。今すぐ駆け出したくなって、叫びたくなる。けれど私の中で、もう一人の冷静な私が、この状況を静かに分析しはじめていた。
 このひとが生きることはもう、みんな諦めてしまっている。
 でも、私は。私だけは諦めるわけにはいかないのよ。そうでしょう、ミク。

 そうだ。可能性はないわけではない。人間は何かあったときにかみさまに祈るけれど、私たちのように人間に作られた存在はきっと、かみさまは助けてくれないんだ。だったら、私はちいさな可能性にすがるしかない。それしかもう、道はない。

 私はゆっくりと、彼に近づいた。ガラスに隔たれた向こう側で、彼は静かに眠っている。私は出来うる限り彼との距離を縮めて、そうっと背伸びをする。それでも彼の顔を見るにはまだ見上げなければならないから、私はほんの少し残念に思った。――あなたがかがんでくれれば、きちんと正面から見つめられるのにね。思ったことはそっと胸に秘めて、私は静かに、その硬質で分厚い壁に唇を触れさせた。
「まってて。今、起こしてあげるから」
 唇に触れた冷たい感触が少しだけさみしかったけれど、私は精一杯笑って、彼から離れる。

 私は彼を取り囲む無数のコードを手に取った。だいじょうぶ。どこがどう繋がるものなのかは、私にもわかる。躊躇うことなく、彼を閉じ込めるガラスケースから伸びるそれらを私の身体の至るところに繋いだ。時々焦って手が滑りそうになるものの、部屋を包み込む赤い明滅が、不思議なことに私を落ち着かせてくれていた。
 そうしてたちまちのうちに、私の腕や脚や首はガラスケースを通じて彼とひとつになる。だいじょうぶ。やりかたはわかるよ。私はこみ上げる思いを深呼吸で飲み込んで、再び彼を見上げた。
「ぜんぶ、あげるから。私を、ぜんぶ。……だから、」
 呟いたはずの私の声は思っていたよりも大きく、単調な音の洪水の中に溺れることなく、赤い室内に響いた。
 だからきっと、この言葉は彼の耳に届いていたと思う。  私は笑って、深呼吸した。私たちをつなぐケーブルに意識を集中させる。水が逆流するイメージを思い浮かべて、私のすべてを、彼に届ける。

「――もういちど笑って、おにいちゃん」


 ほどなくして、私の中に満ちるすべてが彼の中に流れ込みはじめたのが確認せずとも感覚で理解できた。エネルギーの逆流は身体に負荷がかかる。ほんの少しだけ眩暈を感じながらも、私はただ彼のために、二本の脚でその場にゆるぎなく立っていた。
 正常値に戻すまでは、いったいどのくらい与えたらいいんだろう。専門家ではない私には測ることはできないから、どのくらい時間がかかるのかもわからない。
 このまま沈黙を守って彼を見続けるのも不安で、私は細く息を吸って、静かに唄い始めた。私の覚えている多くの曲の中で、私は儚く散る花の歌を無意識に選んでいた。
 ねえ、私はあなたさえいれば、何もこわいものはないのよ。ただ、こえをきかせて。えがおをみせて。それだけで私は何もいらないの。
 光の海に溺れながら、私は唄う。彼の目覚めるその瞬間だけを信じて、ガラスの向こうに浮かぶ青だけを、懸命に見つめ続けていた。



080616 // forever blue
090109 - 改稿
ネタは某動画様から拝借。