「今お茶淹れるね。ミクちゃんは適当に座ってて」
 そう言って、彼は笑った。
 キッチンの方から、彼が何かを準備しているらしい音が時折聞こえてくる。独身男性の部屋にしては結構広いマンションのリビング。とは言え、座る場所は床か、テレビを見るのに適した位置に堂々と横たわるソファーの二択しかない。私は随分迷って、高そうな水色のソファーに浅く腰掛けることにした。
 彼のものだろうか。大きなクッションがひとつ。そっと手にとって見ると、嗅ぎ慣れない匂いがかすかに鼻をくすぐる。少しだけスパイシーな、でも甘い、私の知らない香水のにおい。思わず遠ざけるように、慌ててソファーの端に追いやった。
 クッションの甘い香りはなかなか離れてはくれない。まるで身体じゅうにまとわりついてしまったみたい、なんて考えてしまうのは、どうしてだろう。
「ミクちゃん、コーヒーと紅茶、どっちが好き?」
 キッチンの方から出し抜けに明るく問いかけられる。どきり。心臓が跳ねて、私は咄嗟に返事をした。
「こ、紅茶がいいです」
「じゃあ、アップルティーでいいかな?」
「はい」
 声が裏返らないように気をつけるのが精一杯で、私は落ち着くためにまず深呼吸をした。
 落ち着いて、落ち着いて。そうだよ、何も気にすることないよ。こんなことでいちいち驚いてたら、キリがないじゃない。はやく慣れなきゃ、はやく慣れなきゃ。だって、彼、は私の、お、お、おにいちゃん、なんだし。
 ――おにいちゃん。
 まだ慣れないその言葉を反芻してみると途端に頬があつくなったのは、多分暖房が効きすぎているからだ。断じて意識しているからじゃない。だってそうでしょう。どこの世界に、兄を意識する妹がいるというのか。たとえ私と彼は血が繋がっていなくても、私たちはもうすぐで、世間的に見れば、兄と妹になる。私のお母さんが、彼の父と、再婚することになっているのだから。

「ミクちゃん」
「はいっ!?」
 びくり、と肩を震わせて声のほうを見ると、いつの間にそこにいたのだろう。彼はカップや皿を載せたトレーを持ったまま、何やら少し困ったような笑顔で私を見下ろしていた。
「まだ慣れないかな?」
 苦笑しながら、ローテーブルにアップルティーとクッキーの盛られた皿を置く。ふんわりと甘いバニラエッセンスの香りが、まるでクッキーの甘さを教えてくれているみたいだ。
「す、すみません」
 私は思わず頭を下げて謝った。
「いや、いいよ。時間はたくさんあるんだし、ね。徐々に慣れてくれればいいから」
「は、はい。がんばります」
 彼は笑って、マグを片手に、遠慮の欠片などあまり見られない所作で私の隣に腰掛けた。ばくばくと騒ぎ出す心音をなんとか抑え込もうとしながら、私は辛うじて、ぎこちなく笑い返す。あ、またあの香り。
「……あ、もしかして嫌われてるなんてことはないよね?」
「そそそ、そんなことないです!」
「それなら良かったー。嫌われてたら俺もうどうしようかと」
 へらりと笑う彼の表情に一瞬ときめいてしまう私を咎めることはできるだろうか。きっとできないに違いない。私はさりげなく身じろぎをして、彼から5cmくらい距離を取ることに成功した。このままだと身が持たない。さっきから心臓の音がすごい。破裂しちゃったらどうしよう。
 私はどうしても震えてしまう指先で、あったかいアップルティーの入ったカップをそっと持ち上げた。それから、舌先で温度を確認するように、そして細心の注意を払いながら、音を立てずに一口啜るのに少し時間がかかってしまった。たったこれだけの行動で、ここまで神経をすり減らさなければならない状況が怖い。だってさっきからすごくこっち見てるんだもんこの人! 何が楽しいのかわからないけれど、ずーっとにこにこしたまま見ないでください心臓に悪いから!
「……あの、カイトさん」
「ん。何?」
「あの、――や、やっぱりいいです」
 こっちを見ないでください、とはさすがに言えなかった。自意識過剰って思われたら嫌だし。それでなくてもまともに話もできないのだから変な子だって思われているのかもしれない。
「ねえ、ミクちゃん」
「はい?」
 マグカップをテーブルに置いて、彼は急に真剣な面持ちで私と向かい合った。私もつられてカップを下ろす。さっき苦労してとったはずの5cmの距離はあっさりと埋められている。ふわり、とまたあの甘い香りが鼻先を掠めた。少しスパイシーな、でも甘いバニラ系の香水。パッと見た時に抱く彼の印象とは裏腹に、吸い込まれるようなセクシーな香り。
「いつまでも他人行儀なのは寂しいからさ、呼び方変えてみるってのはどうかな」
 弧を描いた唇から落とされた言葉は今の私には爆弾と同じくらいとんでもないものだった。この部屋は少し暖房が効きすぎるんじゃないだろうか。さっきから頬がすごく熱くて仕方がない。
「あ、あのあのあの、でもそんな急に」
「急にとは言わないよ。でも、慣れるまで待つと結構長くかかっちゃいそうだからね」
「それは、」
 今すぐに呼び方を改めろと言っているのと同じじゃないの。
 危うく飛び出しそうになった言葉をなんとか留めることに成功したのは奇跡かもしれない。どこかで「それもそうかも」と納得しかかっている私がいるのはこの際見ないふりだ。
 彼のことを「カイトさん」と呼ぶのは、最早私の最後の意地みたいなものだ。だって私はまだ、知り合ってそんなに時間が経っていない、ほとんど他人同然の彼と親密に付き合える自信がない。現に、こうしてちょっと近づかれただけで、心臓が尋常じゃなく煩くなっている。これ以上の接触は身が持たない、と拒絶したい。だけど、このままじゃいけない、という気持ちも抱えてしまっている。
 この矛盾をどうにかするには、やっぱり彼の言う通り、私が慣れていくしかないんだろう。

 私は半分諦め、半分はヤケになりながら、目の前の人物をほとんど睨みつけるようにして見据えた。
「カイトさん!」
「なあに、ミクちゃん」
 恐らくすごい形相になっているであろう私とは反対に、彼は至って落ち着いて微笑んでみせる。これが大人の余裕というやつだろうか。ずるい。すごくずるい。若干怯んでしまった自分自身を心の中で励ましながら、私は細く息を吸って、――言葉と同時に、思い切って吐き出した。
「わ、私! カイトさんのこと、お兄ちゃんって呼んでもいいですか!」
 両手をぎゅっと、胸元の服を掴むように握り締めて、私は精一杯、ほとんど叫ぶようにして言い切った。
 言った! 言っちゃったよう!
 あまりの恥ずかしさに、早くも前言撤回したくなって思わず目を閉じてしまった。やっぱりこの部屋は暖房を入れすぎだ。彼はもっと地球にやさしくするべきだとどこか冷静に考えてしまう自分がちょっと可笑しい。
「“おにいちゃん”か……流石にまだ無理か――」
 突然、彼は私の頭上でぽつりと呟いた。その低い声色はあまり聞きなれたものではなく、その内容もよく聞き取れなくて、恐る恐る目を開ける。視界の中で、彼は予想外にも曖昧な笑みを浮かべて私をじっと見ていた。ひい。近い。
「うん、早く俺に慣れてね、ミク」
 にっこりと、まるでアイスクリームみたいにとろける笑顔で彼はそうのたまった。「かわいい妹と仲良くなりたいから」と付け足す“兄”には悪いけれど、私が彼を意識している限りそんな日は一生来ないような気がする。とりあえず彼に合わせて、ここは笑っておくことにした。
 私はまたさりげなく身をよじって、更に5cm、距離をとった。その行動を咎めるように、さっき追いやったクッションが腰のあたりにぶつかる。気が付けばいつの間にか、あの甘い香りが私を包み込んでいた。



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