初音ミクという少女は多くの人々に愛されている。それはもはや世界の常識といっても過言ではないと思うのは、贔屓目で見てしまうからだろうか。
 誰もが振り返るような可憐な顔立ち。伸びやかに響く繊細なソプラノ。華やかなステージに似合う、輝くような笑顔。それらは彼女を最高の歌姫と評するための材料としては申し分なく、現にミクの人気は今もなお上がり続け、留まるところを知らない。
 しかし、カイトは更にその内側、大衆には知られていないミクのいろんな面を知っている。
 アイドルとして振る舞いながらも、その内面は素直でたいへんな努力家であることや、とても不器用で縫い物ひとつ満足にできないこと。姉のようなしっかり者を目指しながらも、なかなか甘え癖が抜けないことや、紅茶やコーヒーはミルクを入れなければ飲めないこと。その他にも、他の人間は到底知らないようなミクの顔を、もっとたくさん知っている。「家族」である故の特権だ。
 家族という限定された枠に括ってしまうのは憚られるが、そんなにも大きな特権がついてくるのならば、甘んじて「兄」という立場も受け入れようというものだ。勿論、もともとはそういう理由で家族になったわけではなく、その当時は下心など一切なかったのだということを付け加えておく。
 だから余計に、今は辛い。何故彼女の「兄」という役を易々と受けてしまったのだろうか。血のつながりがないとはいえ、兄妹という枠組みにはめられたままでは、如何せん身動きが取り辛い。せめて従兄弟とか、先輩とかだったらまだいくらもマシだっただろう。万に一でも、こんな感情が芽生えることを予測できていれば、もしかしたら今頃は誰に気兼ねもせずにミクとの距離を縮められたのかもしれない。しかし気付いた頃には既に遅く、カイトはすっかり妹としてミクに接することに慣れていて、またミクにとってもカイトは兄以外の何者でもなくなっていたのだ。

「どうするべきかなあ」
 チョコレートアイスをスプーンの先でつつきながら、カイトは溜息を吐いた。今まで兄妹として接してきているのだから、ミクだってカイトのことを異性として意識したためしもないのだと容易に想像することができる。舌の上でとろけるチョコレートアイスの濃厚な甘さを楽しみながら、どうやったらミクが自分のことを意識してくれるようになるのかを考えた。……うん、だめだ何も思いつかない。とりあえずこのメーカーのチョコレートアイスは絶品だ。今度はまとめて買っておくべきだな。
「あ、お兄ちゃんいいなあ! チョコレートアイス!」
「うわあっ!?」
 唐突に耳元で甘い声が聞こえて、カイトは思わずカップを取り落としそうになった。
 振り向くまでもない。この可憐な声の持ち主は可愛い妹に他ならない。ちらと横を見ると、にこにこと花のような笑顔を浮かべたミクが手の中のカップをまっすぐに見つめている。
「ミク。頼むから急に声かけないでくれよ。びっくりするから」
「え? そ、そんなにびっくりした?」
「うん、まあ、ちょっと」
「そっかぁ」
 ごめんね、お兄ちゃん。と続けられた言葉にほんの少し胸が痛む。やっぱり「お兄ちゃん」か。いや、ミク自身に非はない。その呼び方をされる度になんとなく壁を感じてしまっているのは単なるカイトのわがままに過ぎないのであって、今更どうこうできるものではないと理解はしているつもりだ。
(そういえば、名前呼んでもらったことないかもしれない)
 ふと気付いてしまった事実にざっくりと切り伏せられる心地を感じながら、カイトは自分が情けなくなってきた。
 ああ、もう何やってるんだろう、俺は。
 ミクと一番近い距離にいながら、こんな小さなことをいちいち考えて何もできないなんて、哀しいにも程がある。むしろ男としてどうなんだ。情けないとかそんなレベルでは済まされない問題ではないだろうか。……兄としては正しい姿なんだけれど。
「ね、お兄ちゃん。これ私食べたことないやつだよね。一口もらってもいい?」
 そうやって上目遣いでおねだりされて、断れる男がどこに存在するのだろうか。
「いいよ。俺の食べかけで良ければ」
「わあい、いただきまーす」
 ぱっと輝く満面の笑みは破壊級に可愛い。カイトが緩く握っていたスプーンをさっと取り上げると、チョコレートアイスを一口分掬い、唇に触れさせて舌をちろりと出してから口の中に放り込んだ。一瞬、その柔らかそうな唇に惹き込まれたのはここだけの話だ。舌の上に広がる濃厚なチョコレートの風味がお気に召したのだろう。「おいしいー!」とあどけなくはしゃぐ妹は、テレビの中に存在するアイドルではなく、ただの幼い一人の女の子にしか見えない。
 こういう風に、ふとした時に見せる彼女のありのままの表情を目にする度に、カイトはいつも思う。
 初音ミクという多くの人に愛される彼女が普段見せない表情を見られるのは、実に幸せなことだ。それと同時に、どうして兄というポジションに収まってしまったんだろうかとの後悔すら覚えてしまう。「もし兄妹じゃなければすんなり距離を縮められるのか」といえばそうではないかもしれないが、現状よりはずっとマシなはずだ。少なくとも、異性として見てもらえるのだから。
 兄がそんなごちゃごちゃと複雑な感情を抱えているとも知らず、目の前の少女は「もう一口もらっていい?」なんて呑気に尋ねてくる。困ったことに、またそうやって首を傾げる仕草が可愛い。
「いいよ、好きなだけどうぞ」
「わーい、ありがとう! ね、今度買ってくる時は私の分も買ってきて」
「うん、今度はみんなの分もね」
 えへへ、と笑いながらチョコレートアイスを頬張る妹から目を逸らし、カイトは胸中で溜息をついた。
 あの銀のスプーンもチョコレートアイスも今は羨ましく思えてしまうのはさすがに末期症状だ。この思考はどうにかならないんだろうか。
 どこまで彼女の良き兄でいられるんだろうか。いつまでこの関係が維持できるんだろう。
 終わりの見えない戦いをじっと耐え抜く自信はない。なんとか「兄」から脱却しなければ。この状況を何とかしなければ、待っているのはきっと最悪の結末だ。
(とりあえずは、あのスプーンの処遇かな)
 間接キスを意識するなんて、一体どこの中学生男子だ。
 情けさのあまりに泣きたくなってきて、カイトは小さく唸ってその衝動を堪える。それから、何も知らずに無邪気に笑うミクの横顔を、彼女のチョコレートの甘さに酔いしれる上気した頬をそっと盗み見ては、再び溜息をつくのだった。



091108 // さいしょのいっぽ、まちがえた
title:キンモクセイが泣いた夜