いたい。
 呟いた言葉は空気を震わせ、やがて揺らめき、ほどけていく。
 普通の日常生活を送る上では、まず受けるはずのない過剰な衝撃を受けた箇所――人の形を模している以上、頬と呼ばれる箇所だ――に触れてみると、ピリリと電気が走ったような気がして慌てて指を離した。
 人工皮膚の損傷を察知したセンサーが、中枢プログラムへ電気信号を送っている。“痛み”の度合いはそのまま信号の強さに比例しているから、きっと今は普段よりも少しだけ多く電気が行き来しているんだろう。
 再びそっと、指先で触れてみると、その行為を咎めるように軽く痺れた。じんわりと熱が集まってくるのは、恐らくナノマシンの修復プログラムが急速に働いているからに違いない。
 ……どうして“痛み”を感じるんだろう。つくりものなのに。
 自嘲するような疑問の言葉は声帯まで届かず、体内に重く留まってとぐろを巻いた。こういうささいな痛覚さえ感じるのは人間の感情の繊細さを再現した賜物だという話を聞いたことがあるが、たまにどうして科学者たちはそんなことをしたがるのだろうと疑問に思う時がある。だって必要ないじゃないか。つくりものなんだから。けれど同時に、よくもまあ、ここまで精巧に作れたなあ。と、感心したりもする。
 ふう、と溜息じみたものを吐いて、頬の状態を見るために鏡を覗き込んだ。本当はあんまり見たくなかったけれど、そのままにしておくわけにもいくまい。
 恐る恐る見てみると、やはり、というか想像以上に、その項は見事なまでに真っ赤に染まっていて、何かで隠さないと誤魔化しようがないくらい腫れている。
「だから見たくなかったのに……」
 予想以上の状態に、見るだけで余計に痛みが際立ってしまった。一度自覚してしまうと、これだからいけない。視覚で捉えた情報から事の重大さを知ったプログラムは、一刻も早い修復のためにナノマシンを急かす。
「……また、派手にやってくれちゃって」
 ますます熱を帯びる頬に苦笑して呟くと、鏡の向こうで自分にそっくりな奴が笑っているのに気付いた。
 つい数分前に、目にうっすら涙を溜めて自分をはたいた奴。自分の相棒。基盤となるデータが全く同じで、でも細部は微妙に違うモデル。大切な半身。「――、」思考回路が一瞬フリーズして、数分前の光景が鮮明にフラッシュバックする。ばか、もうしらない。まてよ、ちゃんとはなしをきけ。メインメモリーに焼きついた声は、かなしいくらいに自分とよく似ていた。
 鏡の向こうに佇む半身は、唇を薄く開き、何かを囁こうとしている。けれど結局、いくら耳を傾けようとも、穴が空くほどに凝視しても、何の音も聴こえる気配がない。
 その両目は透き通った色をしている。このまま見つめていては吸い込まれてしまいそうな錯覚にさえ陥る、空の光を弾く、水の色に似た澄んだ色。シーグリーン。アルカディア。ナイルブルー。
 インプットされた知識の中から、その色を形容する名前が浮かんでは、ほどけるように消えていく。どんな名前も、その色に相応しいようには思えない。意味のない思考はぼんやりと頭にへばりついている。視線は鏡の向こうの瞳とかち合ったまま、外されることはない。
 しばしの静寂。ただ焼けそうな頬の熱だけが、場違いな焔のように人工皮膚を這い回っていた。



080505 // ラリマールの鏡
081103 - 改稿