とん、とん、とん
 フローリングにやさしく響くリズムが聞こえてきて、カイトは不思議に思って音の発生源を探ってみた。音は隣のミクの部屋から聞こえてくるようだ。波形から推測すると、椅子か何かに座ったまま、足で軽くリズムをとっているのだろうと伺えた。
 体内のメトロノームに従って紡がれるリズムは正確で、それに合わせてかすかな歌声も聴こえてくる。そういえば昨日、ミクはマスターに新しい楽曲を貰ったのだと嬉しそうに話していたっけ。……真面目な彼女のことだ。貰ったばかりの五線譜を食い入るように見つめ、踊る音の連なりを追いながら、彼女なりに新しい歌を理解しようとしているのだろう。わざわざ見に行かなくてもその様子が容易に想像できて、カイトは思わず笑ってしまった。

 俺たちのマスターは少し変わっている人だ。まず第一に、俺たちのことをアンドロイドとして見ていない。表面上だけの態度かもしれないが、会う度にちゃんと食べているかだの、しっかり睡眠はとっているかだの、挙句の果てには安くておいしい居酒屋があるんだが今度一緒に飲まないかだの(これにはメイコが大喜びしてついて行った)、まるで人間相手にそうするかのように自然に話しかけてくる。広義に解釈すれば確かに俺たちも食事や睡眠をとってはいるが、人間と同じように必要なわけではない。第一そんなことを気にしたってマスターには何の特にもならないはずなのに。こういうのを「物好き」と言うのだろう、となんだか感心してしまった。
 それから第二に、ボーカロイドたちに楽曲を与える際、必ず数日の時間を与える。ボーカロイドが歌うには、マスターからの口頭の指示や、口頭で指示しきれない細かな調整を直接プログラムに刷り込んでやらなければならないのだが、マスターに言わせれば、それよりもまず実際に歌う前に、自分なりに楽曲の解釈をしてほしい、ということらしい。人間ではないボーカロイドにとっては無駄な時間にしか思えないが、しかしマスターは頑としてこのやり方を貫いている。彼の言う事には、「歌には感情と個人の解釈とやる気が必要」らしい。でも、それは歌を歌うボーカロイドにとってはよく理解できる言い分だ。歌詞の意味を読み解き、旋律に身をゆだね、歌詞に自己投影をする。あるいは共感する。それはとても大切なことのように思う。機械のくせに、おかしなことだが。
 それから最後に、彼は楽曲を作る時はいつだって俺たちの意見を取り入れようとする。この音の連なりは好ましい物か? リズムやテンポは? 歌詞を見て何を感じるのか? そんなものは偽りの感情によって動く機械に求めるよりも、大衆が求めるものを作って発信すれば充分に“売れる”。しかし彼はやはり彼独特のスタイルを貫き続けているのだから、カイトたちももう何も言わずに従い、歌うだけだ。けれどカイトは、何だかんだ言いつつもそんなマスターの主張も、やりかたも決して嫌いではなかった。
 ミクの繊細な歌声が、所々途切れながらも音楽を紡いでいる。もとよりプログラムされている発声法や、音程の取り方などには何の問題もない。けれど、ひとつひとつの音を探るように歌っているせいか、まるでこどもが覚えたての歌を口ずさむのに似てどこかぎこちなく、不完全に聞こえていた。

 新しい楽曲の歌詞に何か感じるものでもあったのだろうか。ミクはさっきから同じところを何度も、強弱を変えながら繰り返し歌っている。きっと彼女は今、新しい楽曲に正面から向かい合い、どうやって唇に乗せるのか悩みに悩んでいるのだろう。カイトも同じような経験は山ほどあるから、ミクの気持ちはよくわかるつもりだ。
 マスターのやり方は時々、こうして俺たちを迷わせ、惑わせ、悩ませている。ただ指示されるままに歌うだけならばそんな風に頭を抱えることもないのに。彼は少し残酷だ。
「歌は世界を救うんだよ」
 マスターはいつも俺たちにそう言い聞かせている。
「たった数分間で、人に勇気を与え、涙を与え、喜びを与える。それが歌なんだよ。一人の人間に幸せを与えられるなら、世界中の人を幸せにすることだって出来るはずだ」
 彼が作る曲はいつだって優しい。囁くパーカッション、踊る旋律。それこそそこには一つの“世界”が詰まっているようだ。その世界を花開かせるのが俺たちの歌声だとするならば、これ以上に誇らしいことはどこを探したってないに違いない。その想いは当然メイコもミクも、胸の奥にいつもしっかりと抱いている。

 断続的に紡がれる歌声が不意に途切れた。かと思うと、また最初に戻って繰り返し。今度はがらりと歌い方を変えて、滑るようになめらかに歌い上げている。これで何度目のリピートだろうか。……まったく、ミクは最初からそうプログラムされているのかと疑いたくなるほどの頑張り屋さんだ。いくら丈夫に作られた02型だからといって、あまり無理をしてもらっては困る。これで何かあったら、メイコやマスターに怒られるのはいつも俺だ。
 やれやれ、と溜息を吐いて俺は立ち上がった。確か買い置きのフルーツティーがあったはずだ。たまには一緒にお茶でも飲もうか。それから新しい曲の話を聞いて、一緒に口ずさみながら悩むのも悪くない。
 うん、とひとつ頷いて、カイトは静かに自室の扉を開けた。規則正しく紡がれるミクのメトロノームの足音を聞きながら、無意識に頬を緩め、いつしかその歌を口ずさみ始めていた。



080514 // メトロノーム・フラワー
081104 - 改稿