さて、どうしたものか。
 俺は敢えて天井を凝視したまま、一つ溜息を吐いた。
 この状況で視線を下に向けては負けだ。いいか、俺。勝たなくてもいいから負けるな。そもそも勝負とかしてないけど理性に負けるな。太腿のあたりに乗っているのはミクの頭じゃなくてスイカか何かと考えていればいい。……いや、それはさすがにないか。

 昼下がりのリビングには今俺とミクの二人だけだ。他には誰もいない。メイコは買い物、リンとレンは朝から二人で出かけている。きっと夕方までは戻らないだろう。ああ、なんだってこんな時に俺を止める存在がことごとく消えうせているんだろう。彼らと一緒にいさえすれば、俺はただの「兄」のカイトでいられるはずなのに。
「ん……」
 突然ミクが声を漏らして、俺は思わず息を潜める。ミクはすっかり寝入っているようで、俺が今どんな気持ちでこうしているかお構いなしにもぞもぞと身じろぎしはじめた。衣服ごしに感じる髪のさらりとした感触とわずかな衣擦れの音が、まるでミクが、ミク自身に注目させようと主張しているかのように思えて仕方がない。危ういところで俺は自分の頬をつねって、なんとか視線を天井に留まらせた。痛い。
 ミクはしばらく居心地が悪そうにもぞもぞとしていたが、やがてリラックスできる角度に辿り着いたのか、満足そうに吐息交じりに笑って見せた。
「頼むから起きてくれよ、ミク……」
 とうとう俺は情けなくも哀願した。このままではいろいろと保ちそうにないのだ。手だけは正直にミクの肩に置かれているあたり、もうだめなのかもしれないが。
 どんなに心から願っても、ミクは起きてくれなかった。いや、起こそうと思えば、今ここで怒鳴りつけるなり頭を落っことすなりすればいいのだ。だけどもちろん、そんなことはできない。妹が眠りたいのならば、いい夢を見られるように傍にいてあげるのが兄というものではないか。けれど俺たちの場合は、ただの兄妹ではないのだから始末が悪かった。好きな女の子が妹だなんて笑い話にもなりはしない。
 じゃあせめて誰か帰ってきてくれ、とも思うが、実際に誰か帰ってきてこの状況を見られでもしたら数日の間はあることないことをネタにからかわれ続けるだけだ。ミクの目の前でそういう話をされると、さすがに恥ずかしいというか気まずいというか。自分の奥手さに辟易するというか。いや別にミクをどうこうしたいわけじゃないけど! 今はまだ。
 色々と気を逸らしながら、俺は勤めてミクを見ないようにそうっと首の角度を変えた。ずっと上を向きっぱなしでは首が変になりそうだ。きっと無音だからいけない。そうに決まっている。そうだ、テレビでも見ようか。ニュースでも見ていれば暇潰しにもなるし何よりミクの無防備で可愛い寝顔を見ずにすむし、もしかしたらその音でミクが起きるかもしれない。
 近くに放り出してあったはずのリモコンを手に取ろうと注意深く視線を彷徨わせる。テーブルの上…には、読みかけの雑誌や空のマグカップが置かれているだけ。テレビ付近にも見当たらず、困り果ててふと斜め下に目線を向けた。
 ソファーの端の方に、目当ての物は見つかった。が、次の瞬間に俺は硬直して一瞬いろいろなものに敗北しそうになった。
 短いスカートから伸びるすらりとした脚の先、ミクのつま先に追いやられるような形で、リモコンは端の方にぽつんと放り投げてあった。この世に神様がいるとしたら、きっと彼は今全力で俺にテレビを見せないようにあれこれしているに違いなかった。そうはさせるものか。俺はここまで耐えてきた俺自身を励ましながら、とにかく窮地を脱するためにはこれしかないのだと言い聞かせて手を伸ばした。
 一生懸命手を伸ばしても、指先がかすめるだけでなかなか取ることができない。その指が時折脚をかすめるのは何も狙っているわけではないのだと付け加えておこう。
「くっ! あともう少し……」
 俺は必死だった。後から考えれば「別にそんなことに全力で頑張る必要なかったんじゃないのか俺?」と言いたくなるほどの必死さだった。もはや当初の目的も忘れて、とりあえずテレビをつけることだけに専念していた俺は目先の長方形の物体とミクの脚しか見ていなかった。それがいけなかったのだとあの時俺はどうして気付かなかったのだろう。とにかく俺はその時は必死だった。それがいけなかった。

「ただいまー。あらなんだやっぱりいるんじゃないの。ったく返事くらいしなさい……よ……」

 それは突然の出来事だった。
 唐突にリビングの扉が開き、買い物に出かけていたメイコが袋を提げて現れたのは、まさに俺が手を伸ばして目当ての物と格闘している最中だった。
 冷静になって考えてみて欲しい。
 俺にとってはミクから目を逸らすための必死の行動も、傍から見れば寝ているミクの脚に手を伸ばしているようにしか見えない。
 それは恐らく10人中9人がそう見てしまうであろう光景で、残念ながらメイコはその残り1人には当て嵌まらなかった。つまりそういうことだった。
「……カイト? 可愛いミクになんてことしてくれようとしちゃってるの?」
 メイコの、にこやかな表情とは対照的な冷えた声に、俺はようやく俺がどう見られていたのか理解した。
「ちょ、メイコさん待ってこれは誤解で」
「問答無用!」
 寝込みを襲うような弟に育てた覚えはないわよ!
 それが、その日聞いた最後の言葉だった。



080509 // 眠り姫と従者と騎士