今日は日射しが暖かいね、と声をかけると、ユフはむすっと頬を膨らませた。普段そう大きく表情を変えない彼女にしては珍しいくらいのはっきりした不満の表情だ。おや、と思う間もなく、彼女は睫を伏せて口を開いた。
「……どうしてこの国には四季があるんでしょうか」
 ぽつり、呟いた言葉が、ぬるい紅茶に落とされる。それでもユフは紅茶に口をつけようとはせずに、両手でカップを抱いたまま黙り込んでしまった。栄一は苦笑して、お茶請けのクッキーをひとつ齧りながら、何気なく窓に目をやった。

 空は鮮やかに青く、強い風が芽吹いたばかりの枝を揺らしている。今朝の天気予報ではキャスターのお姉さんが春一番だの桜前線だの、冬の終わりを告げる言葉を笑顔で伝えていた。
 ユフだって今朝も天気予報を見ていたに違いない。最近の気温の変化にだって、とっくの昔に気付いているだろう。
 なるほど、と栄一は笑いをかみ殺す。どうやらそろそろ、彼女にとっての幸福の時間が終わりに向かっているようだった。
「そんなに春が嫌なの?」
 再びユフに視線を戻すと、彼女は小さく首を振った。所在なくカップを撫でる指は雪のように白い。
「春が嫌いなんじゃないんです。冬が終わるのが嫌なんです。……ずっと冬だったらいいのに」
「でも、春が来ないと動物達も困っちゃうよ」
「……だけど、春が来ちゃうとわたしが困ります」
 栄一はとうとう笑いをこらえるのを諦めた。ユフは時々こんな風に、随分と子供っぽい拗ね方をするのだ。
 冬眠している動物、新生活の幕開けを迎える学生や新社会人達。多くの生き物が不安と期待を胸に迎える春を苦い表情で迎える人間なんて、彼女の他にはあまり見られないだろうな。こらえきれない笑いがくつくつと喉をふるわせる。と、ユフに軽く睨まれてしまった。
「笑いごとじゃないです」
「ごめん、別に笑うつもりは」
 曖昧に笑みを浮かべてごまかすと、ユフはほのかに息を吐いて窓を見た。
「春にも雪が降らないかな……」
「さあ、どうだろうね。桜吹雪なら降るかもしれないけど」
「……栄一さんのいじわる」
 ユフは再び頬を膨らませると、ようやくカップを持ち上げた。

 冬の終わりになるといつも、栄一はユフの目を借りて景色を眺められたら、と考える。桜が散ることよりも雪が溶けることに憂う彼女の瞳に、冬の景色はどんな風に映っているのだろう。
 降り積もるやわらかな雪の眩しさや、灰色がかった薄青の空。きんと冷えた空気に浮かぶオリオン座。起き抜けの毛布に残る温もり。甘いホットココアの湯気。
 冬のすべてを愛し、春の訪れを惜しむユフの目には、きっと栄一が見たこともない景色が広がっているに違いなかった。
 ユフはすっかり冷めた紅茶を少しずつ飲んでいる。
 彼女の黒い瞳は、窓の向こうを、春の訪れる気配を、ずいぶんと眩しそうに見つめ続けていた。



100316 // 春のまなざし
101010 - 改稿