「ただいまぁ」
 間延びした声を上げながら、私はいつもどおりに扉を開けた。今日は珍しく午前中で仕事が終わったので、半日とはいえ久しぶりに羽を伸ばせる機会を得られることが嬉しくて真っ直ぐに帰ってきたのだ。
 今日は全員が仕事に出ていて、それぞれがレコーディングだったり、PVの撮影だったり、雑誌のインタビューだったりと忙しくあちこちを飛び回っている。広い室内はしんとしていて、普段にぎやかな分少し寂しく感じるが、静かだとゆっくりできるから丁度いいかもしれないと思いなおしてリビングに足を踏み入れた。
「おかえり、ミク」
 リビングに入った途端、聞き慣れたやわらかい声が聞こえて、私はびくりと肩をふるわせてしまった。そんな私のビクつき具合に、ソファに座って存分にくつろぎながらアイスを口に運んでいた男が苦笑する。
「そんなに驚くことないのに」
「だって、いるとは思わなくて。お兄ちゃん、今日撮影じゃなかったの?」
「ん、そうだったんだけど。今日は風が強かったから、延期になったんだよ」
「そうなんだ。残念だね」
「でもお陰で今日はゆっくりできるし、これはこれで」
「あはは、お兄ちゃんらしい」
 私は笑って、兄の隣に座った。兄の手に乗ったカップをそっと覗き込むと、中のアイスクリームはまだ冷凍庫から出したばかりのようで、ほんの二口ほどしか減っていなかった。真っ白いその色からフレーバーの予想はつく。
「お兄ちゃんって、バニラが一番好きだよね」
「バニラはアイスの基本だからね。ミクも欲しい?」
「えっ? い、いいよ、それはお兄ちゃんのだもん」
「そんなこと気にしなくていいから、ほら。あーん」
「えぇええっ、で、でもぉ」
「ほら、早くしないと溶けちゃうよ」  兄はこう見えてたまに強引なところがある。いつもは優しくて、自分よりも他人を優先させるような人なのに、変なところで強情というか。とにかく、今の彼は、私が食べるまでスプーンを引かないに違いないという顔をしていた。
「んー……じゃあ、ひとくちだけ」
 どきどきと早まる鼓動を抑えながら、木製のスプーンに乗った白いアイスにそっと唇を寄せて、ぱくりと口の中に滑り込ませる。
 途端に広がる冷たさ。ふんわりと後を追う甘さ。やっぱり兄の選ぶアイスは美味しいものが多い。流石、この世に存在する数多のアイスを食べたと豪語しているだけのことはある。
「おいしい?」
「……うん、あまい」
 正直言って、味の良し悪しよりも、高まる鼓動のほうが気になってしまう。
 こう思っているのは私だけなんだろうか? ……私だけ、なんだろうなあ。兄はきっと深く考えないでやっているに違いない。だって、私は「妹」だし。
「もう一口食べる?」
「いいよ、お兄ちゃんの分がなくなっちゃうよ」
「いいんだよ、ミクなら」
 私の想いを知ってか知らずか、兄は再びスプーンをずいと差し出す。とびきりの笑顔で。雑誌でもテレビでもお目にかかることのできない、私だけに向けられる笑顔を湛えて。
 唇に触れるか触れないかの距離で、一口ぶんのバニラアイスが私を誘惑している。もうひとくちくらい、いいじゃない。どこかで私の声がした。ここには私たち以外には誰もいない。これが間接的な口付けになるのだということも、多分私しか気付いていない。だったら、今のうちに。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
 差し出されたスプーンをもう一度口に含ませて、その冷たさと甘さを味わう。やっぱりおいしい。舌の上で転がして、一口目よりもじっくりと味わってから飲み込んだ。控えめな甘さとミルクの濃厚な風味はカップアイスにしてはもったいないほどで、無類のアイス好きでなくとも充分に満足できる。
 私もバニラアイスは大好きだ。アイスの中ではネギジェラートの次くらいに好きなフレーバーだと言っても過言ではない。だから口の中で溶けるバニラの風味は心行くまで楽しむことができた。
 ほんのりと後味に浸っている私を見て、兄はどこか満足そうにうなずく。その表情がもう、たまらなくて、きゅうっと胸が締め付けられた。どくどくと速くなる鼓動が、私がずっと胸に秘めている言葉を代弁しているようで、急に恥ずかしくなってきた。

「ミクは、好き?」
 急に問いかけられる言葉に一際心臓を跳ねさせて、私は顔に熱が集中する感覚を覚える。

 すき?

「ふぇっ? ええええっ?」
 お兄ちゃんったら突然何言ってるの私いつの間に心の声を口にしてたのそれともお兄ちゃんってばいつの間に読心術を心得たのちょっとやだ私のどきどきとかもしかして筒抜けだったのかしらうわもしそうだとしたらはずかしくてしにそう……!
 一瞬でパニックになる私の思考回路をよそに、兄は先ほどの言葉に単語を一つ加えた。
「――バニラアイス」
 はい?
「……あ、ああ、なんだ。アイスのことね」
 びっくりした。
 紛らわしい問いかけはやめてほしい。心臓に悪すぎる。
 きょとんとした兄に少しだけムッとしてしまったから、私は仕返しの意味も込めて、私が出来る限りのとびきりの笑顔を浮かべてみせる。
「すきだよ」
 一つ一つの音を強調して言ってみてから、私は恥ずかしさが爆発しそうになって、慌てて付け足した。
「な、なんか素朴なんだけど濃厚な後味と控えめな甘さが口の中にふわって広がって、アイスの中のアイスって感じがしていいよね、バニラって。だから私好きだなぁ、バニラ」
 わざとらしくバニラを強調してしまった。しかも大切なことでもないのに2回も。
 言い訳のようになってしまって余計恥ずかしさが募る。私ったら何言ってるの。三流リポーターじゃあるまいし。ああもう、穴があったら中に入ってフタをしてしまいたい……!
 色々と自己嫌悪に陥る私の様子に、兄はやんわりと、何もかもを吹き飛ばしてしまうくらいのやさしい笑顔を浮かべた。ああ、この笑顔、私すきだなあ。ぼんやりとする思考の中で、ただそれだけを思った。
 青い目が細められて、歌うように彼は言う。
「俺も好きだよ」
 いつもよりも少し低い声にくらくらする。
 大胆な告白を受けたバニラアイスに少し嫉妬してしまいそうになりながら、私はどう返していいのか思い浮かばずに、とりあえず笑っておいた。



080507 // バニラ