暗闇は怖くはなかった。
 むしろ安らぎさえ感じられて、ルフレはほっと息を吐く。
 ――身体は消えてしまったのに、息を吐けるなんて可笑しいですね。
 くすりと笑って、ルフレは閉じていた目を開いた。……そう、ルフレにはまだ、開く目があった。息を吐く唇があり、驚いてそれに触れる指があった。身体が、確かに存在していた。
「どうして……」
 私は確かに消えたはずだ。
 『あちらの世界』のルフレの身体を器にしたギムレーを、確かに自らの力で葬り去ったはずだ。そして、『こちらの世界』でギムレーの器として生まれたルフレ自身も、彼女の存在と同様に消えたはず。
 それなのに、まだ身体が存在しているということは。
「私は、失敗してしまったのでしょうか」
 最悪の考えが一瞬、頭をよぎる。
 しかしすぐさま、その考えを否定する声が聞こえた。
「いいえ。あなたは確かに、ギムレーを消し去りました」
 聞き慣れた少女の声。
 振り向くと、まるでそこに姿見でも存在するかのように、微笑むルフレの姿がそこにあった。
 否。これはルフレであって、ルフレではない。
「ギムレー!?」
 思わず身構える。が、目の前の彼女は冷静な様子でゆるりと首を振った。
「落ち着いてください。私はもう一人のあなたです。確かに……ギムレーの器だった者ですが、あなたに倒していただきました。もう私の中に、ギムレーは存在しません」
 そう言って微笑む表情と声音に、確かに悪意は見受けられない。
 目の前に立つ彼女は、ルフレがよくそうするように、お腹のあたりで両の手をゆるく組み合わせてこちらをじっと見つめていた。ルフレが落ち着くのを待っているのだ。
 ルフレはひとつ大きく息を吸い、まずは冷静であろうと努めた。
「確かに、あなたからは敵意も、あの禍々しい竜の気配も感じられません。……ですが、あなたも私も消えたはずでしょう。何故こうして私達がお互いの姿を見、話す事ができているのでしょうか」
 疑問をぶつけると、彼女も困ったように首を傾げる。
「どうしてでしょう。――ごめんなさい。私にもよくわからないのです」
「えっ?」
「確かに私はあなたに倒されて、消えたはずなんです。ですが、気がついたらいつの間にか」
「この空間にいた、というわけですか」
「ええ」
 言葉を区切り、彼女は中空に視線を移す。ルフレもその視線の先を追った。
 どこまでも黒く塗りつぶされた空間だった。どこが大地で、どこが空なのか。そもそも二人はここに立っているのかすら、分からなくなってしまうような――ここは完璧なる闇の中だった。
 ふわふわとした感覚が身体中にまとわりついている。夜よりもずっと深い暗闇の中で、何故か互いの姿ははっきりと視認でき、不思議と恐怖を感じない。ここは、一体。
「ここはどこなのでしょう」
 思わず呟いた言葉は質問のつもりはなかったが、声が返ってくる。
「わかりません。ですが、きっと」
 そこで彼女は言葉を切った。
 ルフレにも、なんとなく察しはつき始めていた。
 ここはルフレの世界でも、彼女の世界でもない。世界と世界、時間と空間、死と生の曖昧な境界線がもしもどこかに存在するとしたら、きっとここがそうなのだと思う。
 そうでなければ、これは死の間際に見るひとときの夢幻に違いない。どちらにせよ、ルフレと彼女の身体は現実の世界では消えてしまっていることだろう。
「これはきっと夢ですね。最期の夢に現れるのが私自身だなんて、不思議な心地ですけれど」
「夢でも構いません」
 彼女がふと、やわらかく微笑んだ。
「私はあなたと話してみたかったんです」
 自分自身が微笑んでいる表情なのに、ルフレは彼女がまったく知らない他人のように思えた。
 ルフレが何も言葉を返せずに、しかし控えめに頷くと、彼女は少しだけ躊躇ったあと、「ええと」と言葉を選び始める。
「ギムレーを宿してから、私の意識はほとんど眠ってしまっていましたから……何もかも、おぼろげな記憶しかないのです。ですから、あなたの知る範囲で構いませんから、教えてください。これまでのことと……それから、あなたのことを」
「……それは」
 辛いのではないのだろうか。
 ルフレは彼女がどんな人物なのか知っている。
 彼女はルフレで、ルフレは彼女だ。過去の記憶が消えているかどうかの違いはあるけれど、形成された人格は見たところそう変わらないように見える。
 自らの身体に邪竜を宿し、大好きだった人や街を手にかけた。その罪の大きさ。自らの手を染める血が愛する人のものであったこと。父に抗えなかったこと。運命を変えられなかったこと。
 その悲しみと苦しみは、並大抵のものではないはずだ。
 口を開くのを躊躇っていると、彼女はそっと、ルフレの右手に両手を伸ばした。
「どうかお話してください。あなたが辛く思う箇所は省いて構いませんから。私は」
 右手をやわらかく包まれるのを感じて、ルフレは彼女の顔をまっすぐ見つめた。
「私は、知らなくてはならないと思います。ここにあなたとこうしているのも、もしかしたら私がそう願ったからなのかもしれません」
 唇をきゅっと結び、決意を込めた双眸で見つめられる。
 こうなるともう誰にも止められないことは、他でもないルフレ自身が一番よく知っていた。



 出来得る限り、話そうと思った。
 数年の記憶を揺り起こし、記憶している部分の始まりから。ルフレがこれまで命を賭して行ってきたことを、その道程を。ルフレが築いた仲間達とのかけがえのない絆を。運命に抗う子供達の生き様を。運命の奔流に攫われ、散っていった命の名を。
 ルフレの言葉を、彼女はただ静かに聞いていた。
 仲間の名が上がるたびに懐かしそうに目を細め、戦いの一幕に頬を強張らせ、あるいは瞼を伏せた。子供達の名を出すと、彼女はきゅっと眉根を寄せる。その双眸からころりと涙が落ちたのを、ルフレは見てしまった。
「……ルキナには辛い運命を背負わせてしまいましたね」
 震える唇がその名を口にするときは、ひとつひとつの音を大切そうに発音しているように聞こえた。  ルフレは不意に、いつかルキナがぽつりと零した言葉を思い出す。
 ――私はあなたの本当の娘ではないから……
 その言葉を借りるなら、目の前にいる彼女がルキナの『本当の』母親なのだと、今ぼんやりと頭の隅でそんなことを考えた。
「ルキナは私を憎んでいたでしょうか。愛する父親を奪って、世界もめちゃくちゃにしてしまって、あの子が辛いときに傍にいてあげることができなかった……本当に、私はだめな母親ですね」
 彼女は声も上げず、涙も見せない。代わりに息をするのが苦しそうな表情で、自嘲気味に唇だけを器用に笑みの形に歪ませる。固く握りしめた手が、小さくかたかたと震えていた。
「っ、そんなこと、ないです」
 そんなことない。確かにルキナは、彼女を愛していた。
 その愛が本物ではなかったとするならば、ルフレがルキナを本当には愛さなかっただろうし、家族としての温もりを感じることなどなかったように思う。
 けれどそれをうまく言葉にできなくて、ルフレはかぶりを振った。
「あなたが愛した分だけ、あの子も――ルキナも、確かにあなたを愛しています。今も、ずっと」
 だからそんな哀しいことを言わないで下さい。
 ルフレは言葉を続けられずに、ただ彼女の固く握られた手に触れた。
 闇の中で、二人の白い手はいやに小さく、やわらかく、頼りなく見える。
 それでも彼女は、そろそろと拳を開いて、頼りないルフレの手をそっと握り返す。
「ありがとう、ございます」
 彼女の双眸から、とめどなく涙が溢れる。
 ああ、そうだ。彼女はどうしようもなく愛しているのだ。
 彼女を取り巻く世界を。大切な仲間達を。築き上げた絆を。過ごした日々を。家族を。
 ルフレには彼女の気持ちがよく理解できて、だからこそこれ以上、何も言えなかった。


「もしかしたら私は、あなたからその言葉が聞きたかったのかもしれません」
 だからこんな奇妙な空間に、あなたを呼んでしまったのでしょうね、と彼女は続けた。
「あなたは私には出来なかったことを成し遂げたでしょう。私が最も避けたかったこと、やりたかったことを成せた。だから私は、あなたの目から見えた世界を――変えられた運命の延長線上の世界を、共有したかったのかもしれませんね」
 もう、私にはそれはできないから。
 そう呟いた彼女の横顔は、ひどく穏やかで哀しそうだった。
「今からでもきっと、大丈夫です」
 ルフレは思わず言った。
「ギムレーは消えました。その眷属である屍兵が新たに現れることも、人々を蹂躙し続けることもありません。あなたの世界の残酷な運命も、今は変えられているはずですから」
「でも、私は一度壊してしまいました。あの人も、私が自らの手で……その事実は、変わらないんです」
 彼女の言葉に、ルフレは何度も見た夢を思い出す。
 私にとっては夢でも、彼女にとってはあれが現実なのだ。
 彼女は一体どんな思いで、あの事実を思い出しているのだろう。
「でも、あなたは違います。あなたには待っている人がいるでしょう」

 ――ルフレ。
 不意に、声が聞こえた気がした。
 私を呼ぶ声だ。きっとあの人が呼んでいる。

「あなたはあなたの守ったものを、これからもずうっと、大切に守り続けなければいけないんですよ」

 彼の声が近くなる。
 暗闇に包まれていた空間に、一筋の光が差し込む。
 ふわふわとした足元が、しっかりと固められた大地に変わる。天は青く透き通り、一陣の風が吹き抜ける。草のにおいがする。日の光がくすぐったい。イーリスの気候はいつも穏やかで、あの日も昼寝には最適のあたたかさだった。
 彼が呼ぶ。私を。彼女を。ルフレを。

 辺りをぐるりと見回し、ルフレは最後に、彼女に視線を戻した。
 いつの間に距離が開いてしまったのか、彼女はずっと離れたところに立っていた。そしてこれもいつの間にか、彼女の傍には誰かが立っていた。守るように、寄り添うようにして立つ彼は、こちらを穏やかに見返している。 その双眸の色は、彼の髪の色は、とてもよく見知った色をしていた。
 存外にお早いお迎えですね。そういったところは、あちらの方のあなたも変わらないなんて、なんだか可笑しな感じです。ルフレは胸中で彼に笑いかけ、隣に立つ彼女が笑い返すのを見た。

「もうお目覚めの時間みたいですよ、ルフレさん」

 離れた場所からでも、彼女の声がはっきりと聞こえる。
 まだ聞こえる。声が。私を呼ぶ、やさしい声が。

「あなたの言葉が聞きたかったのは、私のほうだったのかもしれません」
 ルフレが呟く。この声は、彼女に届いているのだろうか。きっと届いていると思う。
「私の選んだ道が、答えが正しかったのだと。私はきっと、他でもないあなたに認めてほしかったのだと思うんです」
 言葉を紡ぐさなか、意識がどんどん遠くなっていく。
 眠くもないのに勝手に瞼が下がり、ルフレはとうとう目を閉じた。
 死は怖くないと言えば嘘だ。心残りはたくさんある。やらなければならないことはたくさんあった。言いたい言葉もたくさんあった。
 けれど、あなたと共に消えることを選んだのは、ちっとも後悔していなかったんですよ。
 それでも彼女がやさしく背中を押してくれるから、ルフレを呼ぶ声が道標となっていつまでも響くから、ああ、私はあの世界にまだ居られるのだと気付けた。
 再び天と地の境は曖昧になっていた。不思議な浮遊感に身体がふわふわして、少しだけ不安だけれど、目を開けることは叶わなかった。
 眠りに落ちるように、呼び声のするほうへ落ちていく。
 意識を手放す間際、目尻からころりと涙が零れたことに、ルフレは気付かなかった。




「お兄ちゃん、大丈夫かなあ」
「だめかもしれんな」
「ええっ、そんなあ!」
 声が聞こえる。どこか楽しそうな、聞きなれた声が頭上から無遠慮に降ってくる。
 いつの間に眠っていたのだろう。――いや、それ以前に、私はどうして眠っていたんだろう。
 確か私はギムレーと共に消えてしまったはず。それから……それから?
 何かあっただろうか。まだ覚醒しきっていないぼんやりとした頭では、何かを考えることすら億劫だ。
 そこまで考えて、ルフレはうっすらと目を開けた。眩しい。草のにおいがする。イーリスの穏やかな気候が、あたたかい風を運んでくる。
 あっ、と声を上げて、蜂蜜色の髪を二つに結わえた少女が、安堵したようにこちらを見下ろす。その隣で、海のように深い蒼の髪を持つ青年が笑っている。
 彼は手を差し伸べる。出会ったときと同じように。
 ルフレは迷わずその手を取る。彼は予定調和だと言うように、強い力でルフレをひっぱり上げる。

「おかえり、ルフレ」

 戦友、同胞、相棒、半身。その全ての意味を込めて、彼は彼女を呼ぶ。
 その声のやわらかな響きに、私が選んだ道は間違っていなかったのだと実感する。ルフレの愛するものは確かに守れていたのだと、そして、今度こそこの手を離すまいと、ルフレは胸を震わせ、言った。

「ただいま戻りました。クロムさん――」



120508 // 彼女の夢