Dear vol.1


 アスベルが家を出た。
 その知らせがまだラントの街に知れ渡る前、シェリアは祖父の口からその事実を知らされた。

「これを、シェリア」
 沈んだ面持ちの祖父から手渡された白い封筒は、誰から宛てられた物なのか、シェリアは幼いながらも素早く察知していた。こんな時に、こんな風にシェリアに渡される手紙はアスベル以外からのものであるはずがない。
 シェリアは震える手で受け取りながら、足元の床がぐらぐらと揺れている心地がしていた。

(どうして?)
 祖父が立ち去った後も、シェリアは封筒の中身を確かめられずにいた。
 手の中の封筒がずしりと重く感じる。
 その白いさらさらした上等な紙をそっと撫でながら、シェリアはふと、アスベルはいつどのように、どんな思いを抱えてこの封筒の中身を書いていたのかを想像した。
 いなくならないと約束したあと、すぐに書置きをしたのだろうか。ひっそりと身支度を済ませ、明かりをひとつ灯して、滅多に書き物に使われない机に向かい、羽ペンを淡々と動かしている彼の姿が浮かんで見えた気がした。どこにも行かないと約束した時、既に心はラントになかったのだろうか。私のことなんてちっとも思わず。私ではアスベルの力になれないから。
(でも、ラントにいるって言ってたのに)
 シェリアは胸の奥から何か黒いものが染み出てくるような感覚に捕らわれた。

 王都での一件以来、シェリアの周囲では何もかもが変わってしまった。
 あんなに可愛くて強かったソフィが、私達を守って死んだ。ヒューバートは遠いところへ行ってしまった。そして、アスベルもラントから出て行った。
 みんないなくなってしまった。
 震える手で封筒を握り締める。丁寧とは言いがたい彼の筆跡が、それでも彼なりの丁寧さを以ってシェリアの名を綴っている。それが余計に腹立たしくもあり、そして哀しくもあった。
(どこにもいかないっていったのに)
 手紙の中身を読むことは、きっとアスベルがいなくなった事実をシェリアに突きつけるだけだろう。いつの間にか目に涙が溢れ始める。泣いてはだめだ。泣いてしまえば何かが壊れてしまう。ぐっとお腹に力を込めて、なんとか耐えようと試みた。それでも、涙は勝手に重力に従ってころころと零れていく。雫は白い封筒にぽたぽたと落ち、いくつも染みを作った。嗚咽が呼吸の邪魔をして苦しい。
 どうしたことか、あの一件以来身体の調子は良くなり、発作が出ることもなくなっている。もうどんなに走っても平気だし、眠る前に咳き込んで祖父の手を煩わせることもない。足手まといにもならない。
 でも、どんなに病気が良くなっても、元気に走り回ることができたとしても、一緒に遊べる人がいなければ意味がないではないか。
 もしかしたらもう会うことはできないのかもしれない。大人になっても、もう二度とは。
 そう思うと、ますます涙は止まらない。体中の水分がぜんぶ流れ出てしまうんじゃないだろうか。そうなったら私はどうなってしまうんだろう。これまでの短い人生の中でこんなにも涙を流したのは初めてのことで、悲しみや悔しさややるせなさや、もっと何か別の感情からくる涙は、こんなにも身を縛るものだと、初めて知った。
「……アスベルの、うそつき」
 声に出してみると、余計に彼が遠くに行ってしまった事実が胸に突き刺さる。
 足元が崩れるような感覚に捕らわれ、シェリアはその場に膝をついた。くしゃくしゃになってしまった手紙を握り締め、小さな子供のように声を上げて泣く。
 この手紙を読まなければならない。事実を受け入れなくてはならない。
 頭の中ではそう思いながらも、指先は震えたままでうまく動いてくれない。
 いつまでも枯れない涙に戸惑いながら、シェリアは泣き続けることしかできなかった。