#01


 窓から聴こえる鳥達の爽やかなさえずりが、ヴァイルをまどろみの中から引き摺り出した。やわらかい朝の空気とアネキウスの輝きが今日が穏やかな休日であるという事を物語っているかのようだ。だがこの部屋の主は目覚めて早々、およそ朝の空気に似つかわしくない重苦しい溜息を吐き出して窓の向こうに目を遣った。
 内包する感情を外にさらけ出さないように過ごすのには随分と慣れていたつもりだったが、それでもここ最近では、成人してから密かに胸の内に溜め込んできたものがこうして態度に出るようになってしまった。
 一国を担う若き王が煩悶する様を彼に仕える侍従達が目にすれば心を痛めるに違いないが、重要なのはそこではない。このままでは色々と、非常に宜しくない問題が湧き出てきそうな気がする。一刻も早い解決策を講じなければならなかった。
 ヴァイルは勢いよく寝台から起き上がると、意識して深く息を吸い込んだ。
 今日の午後は予定が空いているはずだ。あいつだったら、何だかんだと文句を言いつつも付き合ってくれるに違いない。


***


 近頃、同じような夢を繰り返し見ている。それもひどく性質の悪い部類の物だ。
 未分化の時分に将来を誓い合った婚約者が女性を選んでから、すっかり綺麗になったのが影響しているのかもしれない。ヴァイル自身が成人した事も勿論理由の一つだろう。
 その内容を具体的に示すと、つまりは彼女と――レハトと、とても子供の頃には想像もつかなかったような、はっきりと言葉にしてしまうには躊躇われるような行為に及んでいる夢で、要するに、端的に表現してしまうなら不健全な内容だった。それも一度や二度どころの話じゃない。割と……いや、しょっちゅう見る。
 単にレハトが夢に出てきてくれるだけなら、夢の中でも会えて幸せだとか詩的な気分にもなるだろうが、彼女のあずかり知らない所で生々しい想像を展開させているこの事態をひどく申し訳なく思う。同時に、本心ではちっとも悪いと思っていない自分がいるのにも密かに気付いていた。
 問題はそれだけに留まらない。夢の中の幻で済んでいるのであればまだ良かった。
 お互いに忙しくてなかなか会えないけれど、少ない時間の中でレハトと触れ合う度、自室で二人きりになった時、やわらかな唇がヴァイルの名を紡ぐその度に、不意にその夢の内容を思い出してしまう。レハトの細い身体を抱きしめていると、子供の頃はあまり好きではなかったはずの香油の甘い匂いにくらくらするし、自分の腕の中にすっぽりと納まるレハトが大人しく身を預けている様を見ると、喉の渇きにも似た激情が身を焦がした。

(ちょっと前まではこんな事考えもしなかったのになあ)

 自己嫌悪に陥りながら、ヴァイルは溜息を吐く。未分化の頃はただ一緒にいられるだけで嬉しかったし、それだけで充分満足していた。もちろんレハトには友情だけではない「好き」の気持ちを抱いていたけれど、こんな邪な目で彼女を見るだなんて事、以前は欠片ほども考えなかった。
 成人して、正式に婚約して、大人になってからお互いと再び会って、その違いに驚いて。以前の頃のように無邪気に二人で手を繋げなくなってから、急に思考が変わってしまったみたいだった。

 もしかして俺はとんでもない病気にかかってしまったのかもしれない。話には聞いた事はあるが、これがいわゆる魔の十五歳って奴なのだろうか。だとしたら想像していたものよりもずっと厄介で、どうにも手の施しようがない。表面上では以前のように何でもないように振る舞いながら、その実、夢で見たようにレハトに触れたいと思っているとでも言うのか。今まで知らなかった感情がどっと溢れ出して、どうにかなってしまいそうだった。これは一体、俺はどうすればいいんだろう。これからどうやってレハトと接していけばいいんだろう。

 ヴァイルは再び溜息を吐くと、さっきからカップを手に硬直して黙り込んでいる従兄に呼びかけた。心なしか彼の顔がほんのりと赤いように見える。カップを握る手に緊張が走っているようにも見えたが、構わずヴァイルは続けた。
「ねえタナッセ、俺どうしたらいいの」
 問われた従兄はしばしの間震えて何か言いたそうにもごもごしていたが、対するヴァイルは幾分かすっきりした表情で茶を啜った。
 ヴァイルとしては何か明確な答えが返ってくる事はこれっぽっちも期待していない。だってタナッセだし。こちらの予定に合わせて話を聞いてもらえただけでも密かに感謝しているし(決して言いたくはないが)、元々雑談ついでに抱えていた物を吐き出す算段で自室に招いただけだ。しかしどこか潔癖なきらいのある従兄は、ヴァイルの涼しい表情が気に障ったのかそれとも単に我に返っただけなのか、やがてはじかれたように勢いよくテーブルを叩いた。
「し、知るか! そんな事を私に聞いてどうする! いやそれよりも、お前はよくもそう平気な顔をして下世話な事を吐けるな、それでも格式高いランテの血を引く者か!」
「……ランテとか今の話に全然関係ないんじゃないの?」
「大いにある! 大体お前は慎みという言葉を知らんのか、仮にも王である人間の言葉とは思えん。……というよりなんだ、お前の言い草では、私は大層暇な人間だと思われているように聴こえるのだが」
「え、だって暇でしょ?」
「私はお前の与太話に付き合う程暇ではない!」

 随分興奮しているみたいだ。まあそりゃそうか。ヴァイルはおおよそ予想通りの反応が返ってきた事を楽しみながら、表情を繕う事は決してしなかった。厭味の言い合いも揚げ足の取り合いも、従兄のやけに遠まわしでまどろっこしい言葉選びも好きではないが、それでもこうしてタナッセとどうでもいい話をして過ごすのはいいストレス解消になるし、そこそこ楽しい。
 タナッセは大げさに息を吐くと、なんとか普段の調子を取り戻そうとしているのか手の中のカップを口に運んでいる。ヴァイルも皿に盛られた焼き菓子に手を伸ばしながら、ぽつりと続けた。
「あとまあ、一応タナッセもこういうの経験してるんだろうし。話くらい聞いてくれると思ってさ」
 今度はぶほっ、と変な音がした。
 多分茶を一気に呷ろうとして咽たんだな、と菓子を齧りながらヴァイルはぼんやり考えた。
 案の定タナッセは苦しそうに、真っ赤になった顔でげほげほと咳き込んでいる。彼自身の言動で勝手に泥沼に嵌るのはタナッセの悪い癖だと思う。直すつもりはないんだろうかと一瞬考えたが、苦しそうに涙さえ浮かべている様があまりにも面白かったので、ヴァイルはにやりと笑ってやった。
「わー、汚いなータナッセ。何、今何か良からぬ事でも考えてた?」
「な、何を馬鹿げた事を。……くそ、お前が珍しく真面目な様子で私に話があるというから、何事かと思えば……」
「だって他に話せそうな奴いないし。まさかレハト本人に言えるわけもないじゃん」
「だからと言って……ああ、もういい。そもそも付き合ってやろうと思った事自体が間違いだった。思い返せば、お前の話に付き合わされて頭が痛くならん日など無かったからな」
 タナッセはあからさまに顔をしかめると、呆れたように息を吐いた。もうこれ以上は取り合わないという彼のポーズだ。ぶつぶつと悪態を吐きながら、今度は慎重に茶を啜っている。
「じゃあ俺どうすればいいんだよ。このままだとレハトに何するかわかんないんだけど。これって普通の事?」
「獣でもあるまいし、自制という物を覚えろ」
「いや俺、かなり自制してるつもりなんですけど」
「どうだかな」
 ふん、と鼻を鳴らして吐き捨てるが、しかし間を置かず彼はこう付け足した。
「だが、成人すれば誰でも同じような悩みを持っていたと聞く。それほど気に病む必要はあるまい。どうしてもと言うのであれば、それとなく本人と相談すればいいだろう。お前達は遠からず夫婦になるのだから」
「おお、タナッセにしてはまともな事言うなあ」
「……お前は、私が折角……!」
 まさかタナッセからそんな言葉が返ってくるとは予想していなかったので半分本気で感動しての言葉だったのだが、単に茶化しただけだと思われたらしい。苛立ちを露わにするタナッセのくどくどとした厭味の羅列を適当に流しながら、ヴァイルは改めて真剣に考え始めていた。

 さすがに、いきなりこんな話を丸のままレハトに持ち出すわけにはいかない。引かれたら困る。ていうか死ねる。
 まずはどうやって切り出せばいいんだろう。簡単に時間が取れそうなのは就寝前のほんの僅かな時間だが、寝る前だなんてそれこそ変な方向に捻じ曲がっていきそうだ。主に俺の思考が。かと言って、改めて約束を取り付けて話すのも気恥ずかしいし、廊下でばったり会った時にでも捕まえて切り出すのも、ちょっとどうなんだろう。それは流石に節操が無さ過ぎる気がする。いや決して、下世話な目的で声をかけるわけじゃない。断固として、アネキウスに誓ってもいい。……あー、でも例えどんな時間帯だろうと、夢を見た日に会ったら色々とまずいかもしれない。精神的に。

 ぐるぐると思考を巡らせている内に、意識的に追い払っていた今朝の夢もはっきりと思い出してしまいそうになる。
 成人するのって大変なんだなあ。色々な意味で。と、ヴァイルは半ば他人事のように考え始めた。
 子供の頃にだってそれなりに悩みを抱えたり飲み込んだり吐き出したりしてきたつもりだが、大人になってのそれは種類も質も全然違って、成人したばかりのヴァイルにとっては戸惑う事だらけだ。
 こうして目の前でぎゃあぎゃあ騒いでいるタナッセも一応は成人としてのたくさんの悩みを経て成長しているんだなと妙な感心さえ抱いてしまう。これでもっと付き合いやすければなあと呆れも交えて、人生の先輩の有難い小言に適当な相槌を打ってやりながら、ヴァイルは隣室に控えていた侍従を呼んでお茶と菓子のおかわりを言いつけた。