#02


 中庭に面する廊下でユリリエの姿を見かけた時、ヴァイルは思わず立ち止まっていた。
 丁度中庭を散策していたのだろう。男を連れている場面を何度か見かけた事はあるが、彼女は昔から、どちらかと言えば誰かと連れ添って歩くよりも一人できままに気に入りの庭で過ごす方を好んでいるようだった。
 明るい色の華やかなドレスに身を包んだ彼女がこちらに気付くと、完璧な所作で優雅にお辞儀をしてみせる。ヴァイルは取り巻いていた侍従達を下がらせると、親しみを込めてひらりと手を振った。午前中の政務で息が詰まりそうな思いをしていた所だったので、こうして知り合いと少しでも話せるのは良い息抜きになる。

「一人で散歩してんの?」
「ええ、今日は良いお天気でしたから、つい誘われるままに足を向けてしまいましたわ。ヴァイル様もいかがです?」
「そうしたくても出来ないからなあ。王様じゃなかったら、今すぐにでも色んな事放り出して散歩なり鍛錬なりやれるのに」
 軽口を叩いて肩を竦めてみせると、ユリリエはころころと笑った。
「まあ。一国を担う王にしては些か稚いお言葉ですわね。幼心を忘れないのは美徳の一つだと思いますけれど」
「王様っぽくないって、ユリリエもタナッセと同じ事言うのか。いいけどさあ」
 先日の話を思い出して何とはなしに口についた言葉だったが、タナッセの名が出た途端ユリリエの目の色は明らかに変わった。
 彼女は美しい笑みをますます深めると、きらりと光る眼光の鋭さはそのままにほんの少し拗ねたように眉根を寄せた。
「あら、あのお馬鹿さんと同列に扱われるのは心外ですわ。ヴァイル様には、私とあのお馬鹿さんが同等のように見えるのでしょうか」
「俺が言葉の端だけ取られるのはあんまり好きじゃないって知ってて言ってるでしょ。別に構わないけど。……それにしても、ユリリエもよく飽きないよね」
「ええ、それは勿論。だっていちいち滑稽な反応を見せてくれるのですもの。飽きるなと言う方が難しいのではなくて?」
「まあその気持ちは分からないでもないかな」
「でしょう?」
 くすくすと笑う彼女があまりにも楽しそうだったので、一瞬だけ、ユリリエを敵に回す事が無くて本当に良かったと心の底から思ってしまった。尤も、二人が顔を合わせる度に起こる遣り取りの半分はタナッセが自分で引き起こしているので、同情の余地は無いが。
「お馬鹿さんと言えば、ヴァイル様。風の噂で、ヴァイル様が抱えていらっしゃる懸念について聞き及びましたわ」
 ユリリエの鈴を転がしたような声で綴られたその内容にヴァイルは一瞬何を言われたか分からず、次に硬直した。
 一度人に話した時点で完全にそれが秘密にされる事は無いと諦めてはいたが、まさか真っ先に彼女に伝わってしまうとは思わなかった。ユリリエの口ぶりから察するに、出所は一つしか無い。
 あいつ、喋ったな。
 話の内容が内容だっただけに一応口止めはしておいたのだが、タナッセの性格からしてあんな話をぺらぺらと撒き散らす心配はないだろうと踏んでいた。
 大方、衣裳部屋や広間でユリリエとばったり遭遇した際にでも、聞かれてもいないのに勝手に口を滑らせて自爆してしまったに違いない。変なところで妙なプライドを翳して言葉を並べ立てるのは悪い癖だと自覚しているのだろうか。タナッセの馬鹿。阿呆。次に会ったら今度はタナッセの目の前で奴の詩を朗読してやる。
「ああ、ヴァイル様。どうか誤解なさらないで下さいね。私は話の断片を聞きかじっただけであって、その全てを知っているわけではありませんわ。庇うわけではありませんけれど、あのお馬鹿さんにもそれなりに人の秘密を守る程度の良識は持っていますわ」
「その良識が活かされる事って滅多に無いような気もするんだけど」
「全くその通りだと、私も思います。あの自分の首を絞めるような悪癖は、もう少し改善した方が宜しいですわね」
 にこやかに言ってはいるが、心の底からそう思っているわけでは無いだろう。彼女が真に願っているのは、遊び相手がいつまでも変わらず扱いやすく在る事に違いない。
「それで、何? ユリリエがわざわざ話を持ち出すって事は、何か俺に言いたい事でもあるの?」
 内心げんなりしながら水を向けると、ユリリエは花のように可愛らしく微笑んだ。
「私のような者がヴァイル様に何か進言するなどと、恐れ多い事ですわ。ただ私は、真実の愛を手に入れられたお二方に妬いてしまったのかもしれません。許してくださいませね」
「……愛とかって話かなあ」
 抱えている物は愛などと高尚な言葉で表すには低俗に過ぎる。ユリリエが先日の話をどこまで知っているのかは判断つかないが、ひょっとして何か勘違いしているのではないだろうか。
「いいえ、ヴァイル様。私はそう信じておりますわ」
 タイミング良く放たれたユリリエの言葉がやけに真剣味を帯びていて、ヴァイルは虚を突かれた。
「無論、人が人に抱く想いの全てが愛であるとは限りません。愛という物もまた、儚い夢のような物だと仰られては私には反論も出来かねますわ。ですが、想い人をひと時の夢の中に見出す事や、その方を想って胸が張り裂けてしまいそうになるその想いこそ、愛と呼ぶに相応しいのではないでしょうか。物語に紡がれる美しい恋の話も、詩人達が競って飾り立てる言葉も、たった一人卑しく想いを傾けて苦しむ事も、糸を辿れば根底には同じ物が横たわっているのだと、私は信じて止みません」
 まるで最初から用意していた言葉を並べるように、ユリリエの涼やかな声は淀みなく続けられた。
「ですからヴァイル様、貴方が憂慮する事など何一つ無いと私は思いますし、愛に対して卑屈になる必要もありませんわ。だってそれは、言うなれば恋の病ですから。愛を求める者であれば、誰もが一度は囚われてしまうものですわ」
 きっぱりと言い切ると、ユリリエは満足したようにやわらかく笑った。
 ヴァイルは溜息を吐く代わりに苦笑を浮かべる。彼女の行動にはいつも驚かされるが、今回はむしろ気恥ずかしさの方が先に立って上辺を繕う事も出来やしない。

 天気がいいから散策していたなんて、きっと嘘だ。ユリリエはタナッセから話を聞いて以来、ずっとヴァイルに先のような事を言おうと画策していたに違いない。
 ただでさえ悪意のない噂を好んではいたが、レハトと仲が良い彼女の事であれば尚更だ。事、愛に関しては人一倍敏感であるユリリエだが、まさかこうもお節介だとは思いもしなかった。
 やられたなと思いつつ、彼女と話した事が良い気分転換になったのは確かだった。
「分かったよ、とりあえずユリリエの言いたい事は良く分かった。そうだよな、こういう経験は誰にでもあるものだって、誰かさんのお墨付きももらったし」
「あら、あのお馬鹿さんたら、そんな事を言っていましたの」
「ま、タナッセだってそれなりに色々あるでしょ。突っ込まないでやってあげてよ」
「ヴァイル様ったら、随分と意地悪を仰いますのね。それではまるで、私がいつも悪戯を仕掛けているように聴こえますわ」
 それは実際そうなんじゃないだろうか。
 ちょっとだけ突っ込みたい衝動に駆られたが、ヴァイルは辛うじてその言葉を飲み込んだ。
「……じゃあ、俺もう行くから。流石に取り巻き連中も痺れを切らしてるみたいだし」
 少しの間を置いて切り出すと、ユリリエは再び美しく笑う。
「ええ、これ以上陛下の貴重なお時間を私が奪うわけにも参りませんもの。久しぶりにお話が出来ただけでも嬉しいですわ」
「俺も良い気分転換にはなったよ。じゃあ、また今度は舞踏会の時にでも」
「ええ、ではまた。レハト様にも宜しくお伝え下さい」
 会話に区切りをつけてひらりと手を振ると、陰に潜んでいた侍従や衛士達が素早く姿を見せる。
 ユリリエは会った時と同じように優雅に一礼してみせると、中庭の方へゆったりと歩いていった。どうやらまだ散策を続けるつもりらしい。
 確かにこんなに天気が良かったら、誰だって散歩したくもなる。時間さえあればヴァイルもそうしたいが、子供の時のように好き勝手にやるわけにもいかない立場にいる以上、選択肢は一つしかない。
 青く透き通る空をしばし眺めた後、ヴァイルは何事も無かったかのように表情を繕うと、再び大勢の人間を従えて歩み始めた。


***


 ユリリエ、と呼ばわる声が茂みの奥から聴こえた。振り向くまでもなくその声の主の判別はついている。ユリリエは咲き綻んだ花のような笑顔を浮かべると、彼女を呼ぶその人に手を振った。
「レハト様、こちらですわ」
 それ程大きくは無い声量で呼びかけたのだが、彼女にはしっかり届いていたらしい。次期王配として目下貴族達の噂の格好の餌食になっている第二の寵愛者が、ぱっと明るい表情を浮かべてこちらに駆け寄ってきた。
「良かった。今日ユリリエが来ていたと聞いたから、どうしても会いたかったんだ」
「私もですわ。……ああ、それにしても、もう少し早ければ宜しかったのに」
「え、何かあったの?」
 きょとんとした表情が随分と無垢で可愛らしく、ユリリエは思わずくすくすと笑い声を立ててしまった。様々な思惑が渦巻く王城で過ごすには些か頼りないように見えて、彼女も随分強かな精神を持ち合わせているとユリリエは知っている。
 何も気を揉む必要は無いのだ。レハトは目の前に横たわる物を許容し、あるいは跳ね付けて、咀嚼し、上手に飲み込み、吐き出す術を知っている。それは王候補としてヴァイルと競い合っていたあの一年で彼女自身が会得した物だ。見かけだけで成人したばかりの無垢な娘だと判断すべきではないのだという事は、もしかしたらヴァイル以上にユリリエの方が知っているのかもしれない。
「いいえ、何もありません。ただレハト様と少しでも長く過ごしたいと、少しばかり我侭を言いたい気分になっただけですわ」
 意図して悪戯っぽく笑うと、レハトもユリリエにつられたのか首を傾げつつも微笑んでみせた。まだ何も知らないレハトの純粋な笑顔に、ユリリエは密かに満足を覚える。

 真実の愛を手に入れたばかりの彼らは、どことなくぎこちない表情で互いを伺っている。互いを見遣るだけでどうして愛が育まれようか。脆くも強固な愛という壊れ物を手中に収めるには、臆さずに立ち向かうだけの勇気が必要だ。まずは対峙して、相手を見据えなければならない。
 それはユリリエには未だ手に入れられない。しかし彼ら二人がこれからどんな道を歩み、如何な舞踏を披露してくれるのかを見届けなければならない気がしている。

「さあ、行きましょうレハト様。あなたの行きたい場所で構いませんわ。私はレハト様とこうして過ごすだけで、充分に楽しいのですから」

 レハトは楽しげに頷くと、ヴァイルとよく過ごしたという気に入りの庭の一つへと歩を進めた。
 ユリリエは彼女に続いて優雅に歩く。彼女が浮かべる美しい笑顔が無邪気な好奇心と咲きかけの蕾が膨らみ始める予感から来るものだと、レハトは知る由もない。