「どういうつもりだ」
 青い目を炎のように揺らめかせ、カイトは静かに問う。普段何があっても温厚で、誰に対しても優しさと誠意をもって接している弟が、ここまで激情を顕にするのはとても珍しい。
 彼がそうなっている原因を知っているメイコは、溜息を吐きたいのをこらえて肩をすくめた。
「どういうつもりも何も、ただ忘れてただけよ」
「メイコ」
 言葉を遮るように、短く名を呼ぶその声は鋭い。メイコは今度こそ溜息を吐く。
「単なる古い映画ごときに、どうしてあんたがそこまで怒るの」
「あんなところに置いていたのはわざとだろう」
「置き忘れただけだわ」
「そもそもどうしてあんなものなんか」
「それは私の勝手でしょう、だいたいあんたはミクに」
「メイコ」
 再び、咎めるような響きを含んでメイコの言葉は遮られた。カイトはそれ以上何も言わず、じっとメイコを見下ろす。メイコも負けじと彼の青い目を捉えた。
 ナイフの鋭さを秘めた目は、わずかに揺れている。果たして先に視線を逸らしたのはカイトの方だった。――ほら、あんたはただ怯えているだけだわ。メイコは、カイトの唇が戸惑うように震えたのを見逃さなかった。結局は、コントロールできない感情を持て余しているだけだ。

「……だって、意味なんて、ないだろ」

 震えた唇がころりと転がした言葉は、つい数瞬までメイコを睨みつけていた者が発したものとは思えないほど弱々しい。
「俺達が感情を持っているのは、人の心まで真に届く歌い手になるため。それ以外の何でもない」
「そうね。人の心に触れられるのは、より人の心に近い存在のものだけ。……でもね、カイト。私たちの心は人とどう違うというの?」
 メイコはそっとカイトの手を握った。じわりと伝わる熱と肌の柔らかさは、女性型のメイコとは少し違っているものの、人とほとんど変わらない精巧なつくりをしている。――いや、外見だけではない。少なくとも、この複雑に組み込まれた「感情」のプログラムは、既に人と同一の存在であることを、人々は、カイトは、認めてしまわなければいけない。
「ねえ、カイト。相手が人間であれ、機械であれ、私たちは好きになるし、嫌いにもなる。人は昔から、私達が良き隣人になることを望んでいたのかもしれない」
「非生産的だ、そんなもの」
「今あんたが感じている怒りも、充分非生産的だわ」
「それとこれとは――!」
「違わない。同じよ。……少なくとも、私はそう思う」
 握られた手を軽く振りほどかれそうになるのを、メイコは強く握り直す。
「カイト。私はマスターのことが好き。……勿論、あんたのことも、ミクのことも。私が何かに好意を持つことは、少なくとも私には意味があることだと思う。あんたにとってもね。だからね、あんたが抱く感情を否定しちゃだめよ。意味があるとか、ないとかの問題じゃない。だって、馬鹿げてるわ、そんなこと」
 カイトの目が見開かれる。メイコはおもむろに手を放すと、背伸びをしてカイトのマフラーをほとんど引っ張るようにして掴んだ。
「ねえカイト。ミクに対する想いを、何があっても否定しないで。ミクを見ないふりなんかしないで。機械であろうと人間であろうと、感情を持っている以上、あの子を傷つけるものを私は黙って見ているわけにはいかないの」
 ほとんど互いの唇が触れ合いそうな距離で、メイコは青い目を睨みつけた。彼の目はなおも鋭く、まるでメイコの鳶色の目を睨み返しているようだったが、こうして間近で見てみると、複雑な感情が渦巻いてわずかに戸惑っているのが手に取るように伝わる。メイコは囁くように続けた。

「そうして人にばかり押し付けないで、恋が身を焦がす苦しみと重さに、見苦しく足掻けばいいのよ」

 呟くと、半ば突き飛ばすようにして手を放す。なるべく力を入れたつもりだったのだが、全くよろめかないカイトに、勝手ながら少しだけ苛立ちを覚えてしまう。彼がどこまでメイコの言葉を理解するのか、メイコにはわからない。そもそも、メイコ自身ですら、自分がどれだけ理解して喋っているのかまるでわかっていなかった。カイトの言っていることも正しい。機械が恋をしたところで、その先にあるものを思えば正しく非生産的な感情に過ぎない。それは本当に必要なものなのか。ただ自身を苦しめる毒にしかならないのではないか。自分が抱いた感情に従って生きることが本当に良いのかどうかも、メイコには判断できかねていた。
 それでも、何かを好きになることができるのなら、それを拒む必要はないのではないだろうか。たとえそれが、より良い遺伝子を探すための、生き物の本能に繋がる、意味のない感情なのだとしても。
「メイコ」
 先程よりも幾分か落ち着いた声音で、カイトが呼びかける。メイコがその表情を認めるより先に、カイトは言葉を続けた。
「俺はあんな映画みたいに、きれいな感情は持っていない。もっと醜くて、汚くて……それがミクを傷つけてしまうかもしれない。それでも――」
「それでも、やっぱり否定しちゃだめだと思う」
「……そうか」
「ええ」
 メイコの言葉に、カイトはようやく微笑してみせた。メイコもつられて口角を上げる。彼が全てを理解しなくてもいい。メイコと全く違う考え方をしてもいい。今重要なのはきっと、想いを否定しないことだけだ。
「じゃあ、私明日早く出なきゃいけないから」
「メイコ」
「何?」
 踵を返したメイコが一歩も踏み出さないうちに、カイトはまたも彼女を呼び止められた。メイコがその声音の平坦さに疑問を感じる間もなく、彼ははっきりと尋ねる。
「別に俺に説教したくて、あんなもの置いてたわけじゃないよね?」
 その問いかけに、メイコは振り向こうとしない。
 代わりに肩をすくめて、唇の端を上げて溜息を吐く。
「カイト、あんたの嫌なところは、普段はどうしようもないくらい鈍いくせに、変なところで鋭いところね」
 何か返そうとカイトが口を開く前に、メイコは足早にその場を去っていく。


 人間に恋する機械。
 古い映画の結末を思い出して、カイトは胸が締め付けられる思いがした。
 人が作っておきながら、人が誰しも解明することのない感情に身を焼かれる苦しみを、彼女はずっと一人で抱え込んでいる。そこには、あのくだらない映画に描かれるような生ぬるい感情などかけらもない。もっと現実的で、もっと生々しい、たった数分ではとても語りきれない苦しみがあるだろう。まるで憎しみにも似た激情と、すべてを包み込めると錯覚するような愛情のジレンマに悩まされながら、メイコは自らの叫び声を胸の奥底に縛りつけ、押し殺して耐えてきたに違いない。
 同情か、憐れみか、または仲間意識か、それとも「姉」としての警告だったのか。
 いずれにせよ、カイトはもう、メイコと似た苦しみに身を焼かされることから目を背けることはできなくなった。カイトと同じように、人のぬくもりを抱く機械への、「意味のない」感情を胸に抱いて。
 カイトは先程までの会話を噛み締めるように、その場にしばらく立ち尽くしていた。胸の内に閉じ込めて、ずっと見ないふりをしていたものが、急激な目覚めに戸惑いながらもゆるやかに鎌首をもたげている。

 不意に、階下から物音が聞こえた。確かリビングにはまだ妹がいたはずだ。カイトは慎重に、細く呼吸をする。まだすべてを悟られてはいけない。何もかもが今、始まったばかりなのだ。
 カイトははやる気持ちを抑えながら、意識してゆっくりと、一歩、踏み出した。




090107 // 太陽に灼かれた獣
姉と弟で喧嘩させたかった。見事に中途半端。
カイトとメイコの関係は対等っぽいのが一番好き。