Dear vol.4


 そういえば久しぶりにピアノを弾いたわ。
 白と黒の、随分古くなっている鍵盤を撫でながら、シェリアはぽつんと呟いた。
「そうだな、俺も久しぶりに聞いた」
 そっと傍に立つアスベルの指先が、調律したピアノの鍵盤をぽんとひとつ叩いて音を出す。
 音楽なんて興味ないくせに。そう言うと彼は困ったように苦笑した。
「シェリアは最近まで弾いてたんじゃなかったのか?」
「もうここ何年かやめちゃってたのよ。聞かせる人がいなかったら、弾く意味もないものね」
「……ごめん」
「ううん、責めてるんじゃないの」
 アスベルの指先を追うように鍵盤に指を乗せると、澄んだ高い音がひとつ零れる。
 ピアノは素直だ。「この音を出したい」と思えば素直に表すことができる。言葉すら、どんなに勇気が必要になる一言さえもすべて音楽に閉じ込めて、きれいな旋律で届けることができる。時には言葉よりもすっと深いところへ入り込んでしまえるような、不思議な力を持っている。
「さっきも言ったでしょ。確かにあなたを責めた時もあったけれど、私自信に勇気がなかったことも事実なのよ。……それに、約束もしたし」
「手紙のことか?」
「違うわ、ピアノのことよ」
 くすくす笑うシェリアにつられたのか、アスベルもやっと素直な笑顔を見せる。
 あ、その笑い方、昔から変わってない。シェリアはアスベルの中に残る幼さの影を見つけて、一人微笑んだ。
 シェリア自身、子供の頃からちっとも変わっていないところがある。怖がりなところや、怖い夢を見ると決まって泣きながら目覚めること、それから、自分の思いを素直に口にできないこと。あれから7年も経ったのに、まだどこかが子供のままで成長していない。それはきっと私だけでなく、アスベルも。
 いつか、本当の意味で成長することができるのだろうか。
 そっと、成長した自分の姿を思い描いてみる。勇気を出して、たった一言を告げる自分の姿。その時は、シェリアが抱えている気持ちはアスベルにきちんと伝わるだろうか。ピアノの旋律のように、きれいに、美しく。
 そうあればいいと願わずにはいられないけれど、今のままでは決して叶うことができないともよく理解しているつもりだ。どこかで弱い自分と決別しなければならない。その勇気すら、まだ欠片ほどにも満たないのに。
(……本当に臆病で嫌になるわ)
 手紙一つ書くのに苦戦していた頃の記憶が、ふっと蘇る。
 思いを届けることの大切さやその意味が、今ならあの頃よりももっともっと理解できるはずなのに、あれから一歩も動けない自分がちょっとだけ情けなく感じた。
「シェリア? どうしたんだ、ぼーっとして」
「えっ? あ、ううん、なんでもないわ」
 少し考えすぎてしまっていたらしい。アスベルが不思議そうに首を傾げるので、シェリアは慌てるあまり姿勢を正してしまった。時計に目をやると、思っていたよりも長居してしまったことに気が付く。
「さ、さあ、早く戻りましょうか。みんなをこれ以上待たせちゃいけないもの」
「ピアノは、もういいのか」
「ええ、次の機会までお預けね」
 秘密を話す時のようにちょっと悪戯っぽく笑うと、アスベルも同じように笑顔を返した。

 家を出ると、ラントの見慣れた景色や、ソフィが世界中から集めた花が咲く花壇がシェリアの視界を眩しく染めた。昔から変わらないと思っていたものが、いつのまにか少しずつ変化していく。ラントの風景も、シェリア自身も、アスベルも、昔の面影を残しながら少しずつ何かを得て、少しずつ切り捨てていく。
 今なら、アスベルに手紙を書くことができるのだろうか。
 先を行く彼の背中を見ながら、シェリアはアスベルの言葉を思い返していた。

 返事を書くから。必ず。

 その言葉は素直で、嘘はない。きっと彼は自分の言葉をきちんと実行してくれるに違いない。
 まるでピアノのようだ、とシェリアは思う。自分の中に浮かぶ言葉を、アスベルは唇を通してきれいな言葉に変えて私たちに届けてくれる。埋まらないと思っていた溝をいともたやすく埋めてくれた言葉のひとつひとつに憧れに近い思いを抱きながら、シェリアは母の言葉やピアノの旋律を思い浮かべていた。
 臆病な自分の殻から抜け出す時は、きれいな言葉を紡げる人になりたい。自分の言いたいことを唇に乗せて、夢を持って、やりたいことができる、そんな自分になれたら。
「私も、勇気を出さなくちゃね」
「ん? 何か言ったか?」
「なんでもないわ、独り言よ」
 ふふ、と笑ってみせると、アスベルは少し戸惑ったようだった。
 久しぶりにピアノを弾いて、お母さんのことを思い出したせいなのかもしれない。いつもよりも素直に笑えている気がして、また嬉しくなってきて、シェリアの唇は弧を描いたままだった。

 耳の奥ではまだピアノの音が響いている。
 まるでラントの風に乗ってふたりを包んでいるかのように、その旋律はどこまでも美しく鳴り響いていた。