Dear vol.5


 何度目かの寝返りを打って、とうとうアスベルはベッドから起き上がった。
 明日は遂にガルディアシャフトへ乗り込むというのに、なかなか寝付くことが出来ずに延々と寝返りを打っている。何をやっているんだ、俺は。寝不足で戦いに影響が出たら洒落にならないというのに。
 戦いにおいてまず何よりも大事なのは、休める時にしっかりと休息をとることだと、学生の時は散々教えられていた。何が起こるかわからない最後の戦いであれば尚更重要な事だ。ましてや術を使う者を守りながら戦う身としては、常に最善の状態を維持しなくてはならない。――それはよく、理解しているつもりなのだが。
(まいったな)
 もう一度寝なおそうと横になってみても、眠気は訪れない。それでもなんとか眠ろうと目を閉じると、今度は夜空の下で見た幼なじみの横顔が浮かび上がった。

 7年前の面影を残しながらも、すっかり見違えた幼なじみ。彼女が他の男に愛を告げられているところを見てしまった時、どきりとした。
 見てはいけないものを見てしまったような。幼い頃から知っている「幼なじみ」の、大人になった一面を見てしまって寂しかったような。どちらにせよ、そこには今までアスベルが見てきたシェリアがいないような気がしてならなかった。
(いや、大人になろうがなんだろうが、シェリアはシェリアだ)
 そこまで考えて、シェリアの語った夢を思った。
 彼女がラントを出て行く。そう考えると、何故だかわけのわからない焦燥感に苛まれる。
 何故だろう。幼い頃は病弱で、ちょっと歩くのも辛そうだった彼女が、今度は夢のために世界を旅するのだ、と語った時、どこか心の片隅でちくりと針に刺されたような、小さな痛みを感じた。
 ラントを愛し、ラントから離れなかったシェリアがその地にいないことに、違和感を感じたせいなのか。せっかくソフィが花壇をいっぱいにしたのに、全部咲くのを待たなくていいのか、とか、ソフィが姉のように、時に母のように慕っていたのに、シェリアが離れると寂しくなるんじゃないか、とか。色々とその「痛み」の原因を考えてみるが、どれもこれも違う気がした。
 今まで7年間、シェリアとは離れて生活していたのだから、別に今度は逆の立場になったって、こんな風に考える必要はないはずなのに。どうしてだろう。
(どうして、今更シェリアのことばかり頭に浮かぶんだ?)
 シェリアのふわふわした赤い髪や、茶色の瞳、何か言うとつんと怒るところ。みんなの好みの料理をちゃんと心得ていて、頼まなくても時々作ってくれること。本人は自覚していないだろうけれど、パスカルやソフィには、まるで母親のような口調になる。誰かが怪我をすると、いち早く察して治してくれる。怖いものが嫌いなところは小さい頃から変わっていない。笑うとちょっと子供っぽくなる。たまにだけど、俺から見ても鈍いところがある。それから、それから。何だろう。何故こんな、大事な戦いの直前に、こういうことを考えているんだろう。
「みんなの天使、か……」
 ぽつり、呟く声は少し掠れていた。
 シェリアを飾り立てていた言葉の数々を思い返すと、なんだかもやもやしてきた。美しい。天使。そんなのは違う気がする。だってシェリアは、昔は病弱で、すぐ欲しいものをちょうだいとせがんで、からかうとすぐに怒って、泣いて、笑って、それは今も変わらなくて、そういう普通の女の子なんだ。
 だから。だから、俺は、どうしたいんだろう。
 思考がそこまで行き着くと、ぴたりと行き止まりになってしまう。
 夢を追うシェリアは応援したい。それは心の底からそう思っている。7年前のアスベルが抱いた、子供っぽい夢ではなく、きちんとした決意を秘めたシェリアの一歩を、素直に応援してあげたい。ラントを離れてほしくないと思うのは、単なる我侭に過ぎない。
(ラントを出たあと、手紙を書いてくれるだろうか)
 あの時とは違って、今度はシェリア自身の意思で出て行くのだから、きっと書いてくれるだろう。だから、いつか。いや、彼女がいつでもラントに帰ってこられるように、自分自身も成長しなければならないんじゃないか。
 アスベルは行き着いた考えに納得するようにひとつ頷いて、もう一度寝返りを打った。
 とにかくもう寝てしまわなければならない。今は何時だろうか。終わりが見えない思考に捕らわれて寝坊してしまっては、いくらなんでも酷い話じゃないか。

 連鎖する思考に無理矢理区切りをつけて、意識して目を閉じる。頭の中で数を数えながら寝ることに集中していると、いつしか少しずつまどろみが訪れて、アスベルを包んでいく。
 ほっこりと暖かい毛布の中でやっと安堵の溜息をついて、アスベルはゆっくりと意識を手放していった。

 未だ胸の奥底で疼く小さな痛みには、気付かないふりをして。